第27話・混迷

 三階の、紬の部屋は無事だった。

 やや風呂場の浴槽の中が湿っているような気はしたが、紬が風呂に入ったあとから渇いていないだけかもしれない。いずれにせよ、こちらならシャワーくらいは浴びられると判断して、ざっと浴槽を洗ったあと紗知と交代で体を洗うことができたのだった。

 重たいが、今後のことを考えると旅館に居続けるのも危ない。荷物はすべて持って出ることにした。

 なんせ、一階までざっと確認したものの、従業員らしき人が一人もいなかったのだ。早朝とはいえ、こういったホテルや旅館なら夜勤の人がいそうであるにも関わらず。

 九時以降にもなれば、次のシフトの人が出勤してくるのかもしれないが、現在時刻はまだ五時半を過ぎたところ。状況が動くまでは時間がかかるだろう。とりあえず、典之の指示のもと、紗知と共に増岡家に向かうことにしたのだった。――旅館の一階を中心に、大量の泥の痕や血の跡、生臭い臭いなどが残っていることから目を背けながら。

 自分達以外の客はどうなったのだろう。

 従業員も全滅してしまったのだろうか。

 あるいは避難していて無事だった人などが、他にもいるのだろうか。シャワーを浴びるなり着替えるなりで時間を取った自覚はあるので、その間にホテルから出て行った人がいてもおかしくはなかった。なんにせよ、今は自分達のことだけで手いっぱいなのが実情である。

 典之たちに、訊かなければいけない。

 今この下蓋村で何が起きていて――自分達は、何をするべきなのかということを。


「ほんまに、最悪や。一体誰が封印を解いたんやろか」


 紬と紗知で二人、増岡家に向かう道中。地元の人らしき女性達が話しているのが聞こえた。


「うちの村のもんなら、変なものに触ったら危ないちゅうことくらいわかっとるはずやろ。やっぱり観光客があかんかったんや。これやから、あたしは嫌だって言うたんよ?いくら観光収入になるからって、映画の撮影なんか……」

「今そないなこと言うても仕方あらへんやろ。それに、最近は村のもんかて、言い伝えを信じてないもんは少なくなかった。誰かが悪戯したっておかしゅうない。何でもかんでも観光客のせいにしたらかあん」

「せやけど道子みちこさん!あたしらは無事だったからええけど、高田さんのところの息子さん夫婦とか、みんな連絡つかんっちゅうて……!本当に下に引きずり込まれたんやとしたら、もう誰も助けられへんやろ!それに、今夜かて……!」

「心配なのはうちも同じや。だからって、滅多なこと言うもんやない。前の時、うちらかてまだ生まれてへんかったやろ。詳しいことは、おじい様方に訊くしか……」


――やっぱり、村全体で異変が起きてたんだ。


 ぶるり、と全身が震える。まだこの時間帯なら、日差しもそこまで強くない。けれどこの寒気は、風が涼しいからなんて理由ではない。

 今夜かて、とおばさんの片方は言っていた。恐らく、昨夜を乗り越えたら終わりというわけではないのだ。

 明るい時間帯だから、異変が静まったように見えるだけ。太陽の下だから、連中が鳴りを潜めたというだけ。

 恐らく今夜になったら再びアレが訪れるのだ。泥や汚物、血にまみれ、別の誰かを同じく地下へと引きずり込もうとする者達が。下蓋村住人も、観光客も関係なく襲ってくるということではないのか。


――次、もしあんな目に遭ったら……もう、逃げられない。きっともう、耐えられない。


 その前に、この村から逃げなければ。しかし、さっきから村全体の空気がおかしいのだ。

 車が停めてある駐車場などの横を通りがかると、観光客らしき人に村人が話しかけているのが見える。同時に、村の外へ通じる道路に、土嚢のようなものを積んでいる男達の姿もあった。まるで、人が逃げるのを防ごうとしているかのような。


「うっ……」


 太陽の光に、頭がくらくらした。思わずふらついたところを、紗知に支えられる。


「だ、大丈夫ですか、紬さん?」

「う、うん、なんとか。ごめん、その……徹夜だったから、眠気がね……」

「紗知もです。でも、実は……紗知はちょっと船を漕いじゃった時があって。でも紬さんは、紗知のためにずっと起きっぱなしだったんですよね?荷物、持ちましょうか」

「大丈夫だよ。紗知ちゃんも荷物あるでしょ。私より小柄なんだし、無理しないで」


 今は紗知の気づかいが本当に嬉しい。彼女の頭をぽんぽんと撫でて、無理やり足を前へ前へと動かした。

 真実がわかれば。典之たちのところへ行けばきっと、本当のことがわかるはず。そして恐ろしい状況を打破できるはず。今はそう信じるしかなかった。

 信じなければ、心がくじけてしまいそうだったから。




 ***




「紬ちゃん!」


 増岡家に到着するや否や。玄関に上がった途端、飛び込んできた貴子に抱き着かれた。


「良かった……良かった、良かったよ!本当に良かった!正直、紬ちゃん一人ホテルに置いてきたの本当に失敗だったって思ってたんだから。無事で、無事で本当に良かった……!」

「た、貴子先輩……」


 その貴子は、動きやすいジャージ姿だった。いかにも着替えたばかりといった様子だ。そして、髪の毛はぐちゃぐちゃだし、眼の下のクマもすごい。きっとこの家で、自分達と同じように籠城して一晩を過ごしたのだろう。

 すぐに後ろから典之が駆け寄ってくる。彼は貴子に抱き着かれている紬と、その後ろにいる紗知を見てほっと息をついたのだった。


「よう頑張ってくれた!ほんまによう生き残ってくれた!心配してたんやで。……そっちの子が紗知ちゃんやな。おあがり。とりあえず、朝ごはんは用意しとるさかい。ホテルの状況からして、あっちでご飯が出るわけでもないやろ。一緒においで」

「ありがとうございます……!」


 ぺこり、と紗知が頭を下げるのが見えた。元来、真面目で礼儀正しい子なのだろう。髪の毛を茶髪にしたのも、きっと同じユーチューバー友達に合わせた結果なんだろうなと思う。きっと本来は、黒髪の方が似合う普通の女の子だったに違いない。

 部屋のいくつかは封鎖されていた。怪物が侵入して、床や壁が汚れてしまったからだという。トイレや洗面所はどうにか使える状態まで掃除したが、キッチンがだいぶやられてしまったらしい。朝ごはんは、かろうじて無事だった冷蔵庫の中の牛乳やヨーグルト、カップ麺の類だった。それでも朝ご飯も何もない自分達からすれば十分ありがたかったが。

 増岡家の居間いるのは、ほとんどが親戚の人であるようだった。しかし、昨日の昼間に見た時より明らかに人数が少ない。昨日の昼ご飯の時は、広い居間の席が全て埋まるくらい人がいたのに、今は、この部屋には自分達を含めても十人程度しかいなかった。

 いなくなった十数人の人はどこへ行ってしまったのか、どうなってしまったのか。考えるのが、正直恐ろしかった。


「……おじいちゃん」


 朝食がひと段落したところで、貴子が口を開く。


「そろそろあたし達にも教えてよ。昨日、この家も……紬ちゃんたちが泊ってた旅館もみんな停電しちゃった。ていうか、村全体が停電して、マンホールとか排水管とか、そういうところから変な怪物みたいなのが這い出してきて大変なことになった。そうよね?」

「……せやな」

「そして、そいつらに捕まった人達はみんな穴の中に引きずり込まれて戻ってこなかった。……明かりを向ければ怯ませることはできるけど、退治することはできなかった。中原のおじさんとおばさんとかが、鍬を持って攻撃したそうだけど、その鍬ごと引きずり込まれて戻ってこなかったっていうじゃん。アレは、結局なんなの?怪物っていうより……悪霊っぽかったんだけど」


 それは、紬も思っていたことだ。

 下蓋村の下にいる、怪物。あるいは悪霊、あるいは妖怪、あるいは邪神。誰も正体を知らないそいつはきっと、人間の姿をしていないのだろうと思っていたが。

 実際襲ってきた者達は、かろうじて人間の姿をとどめている者ばかり。

 そして、一人や二人ではない。なんせ紬は沼から上がってきた女と、ホテルの風呂の排水溝から出て来たと思しき血まみれの男を同時に目撃している。そして、そいつらとは別に、一階で人が襲われているとおぼしき悲鳴も耳にしているのだ。

 襲撃してきた化け物は多数いた。そして、そいつらが何を言っていたかといえばこれだ。




『アアアア、アアアアアアア、グルジイ、グルジイ、ジニダグナイイイイ……!アアアア、アアアアアアアアアアアアア、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア……!ゾノバエニ、アアア、アアアアアア……!』




『オオオオオ、オオオオ、オオオ……イタイ、イタイ、クルシイ……』




 痛い、苦しい、死にたくない。

 とっくに死んでいる存在に見えるのに、彼らはひたすらそればかりを訴え続けていたのである。まるで、死んだあともその苦しみから解放されていないと言わんばかりに。むしろ、そこから逃れるために獲物を狩っているかのように。

 紬は意を決して口を挟む。


「私も見ました。襲ってきた怪物……いえ、悪霊が、ひたすら死にたくないって訴え続ける声を」


 そこから導き出される答えは一つ。

 否、昨日の段階で、典之は答えに近い言葉を自分にくれている。




『正解。実は、私らもそう思っとる。ほんまは邪神なんかおらんくて、適当に邪魔者を始末するのに都合のいい仕組みを作っただけなんっちゃうかってな。大昔なら、飢饉や疫病や天災が重なることくらい、珍しくもなんともなかったんやろうし』




「この村の地下に、封印された邪神なんてものはなかった。いたのは……それを封じるためという名目で、残酷な生贄に捧げられた人達」


 典之の眼をまっすぐに見つめて、紬は問いかける。


「祟っているのは邪神でも怪物でもない。そうやって、都合よく生贄にされた人達なのではありませんか」

「……きっと、そうなんやろな」


 やがて、貴子の祖父は――苦痛を逃すかのように、首を横に振って答えたのだった。


「私も全部わかっとるわけやない。でも、隠しとったことも、知っとったこともある。……今からそれを、あんさんらに全部話すわ」

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