第26話・夜明

 数時間。

 ほとんど眠らずに朝まで耐えるのが、こんなにもしんどいことだとは思わなかった。なんせ、トイレに行くこともままならないのだから。

 これが、夜明けの早い朝で本当に良かったと思う。窓の外が白んでくると同時に、部屋の中で蠢いていた異様な気配もなくなっていた。残念ながら、びしょびしょに濡れた床や、ひっかいたような跡、血のシミなどはそのまま残っていたので、完全にホラーハウスになってしまってはいたが。


「……紗知ちゃん、起きてる?」

「……なんとか」


 ぐらぐらする頭で、紬は隣に座る紗知に声をかけた。憔悴した様子で、少女は声を出す。明らかに声が湿っていた。なんだろうと思うと、座り込んだ彼女の股間がぐっしょりと湿っている。恐怖で立ち上がることができず、こっそりゴミ箱に用を足すということもできなかったらしい。無理もない。紬もなんとかトイレができたのは一回だけだったのだから。

 もう、おかしなものの気配はない。大丈夫だと判断して、紬はベッド脇のトランクを開けた。他人の荷物を探るなど本当はしたくないが、今は緊急事態。同性だし、良しとしてもらうことにしよう。


「紗知ちゃんの着替えってどれかな?旅行のつもりだったなら、替えあるよね。着替えた方がいいよ。あと、できれば顔だけでも洗った方がいいと思う。その、洗面所も汚くなってるだろうけど……」

「はい。……はい。すみません、みっともないところ見せて」

「いいって、気にしないで。こういう時はお互い様だから!」


 紬に妹や弟はいない。しかし、小学生のころは自分以外の子供達がみんな小さかったこともあり、よくお姉さん役としてお世話をすることが多かったのだ。

 それこそ、小学校一年生や幼稚園の子だと、うっかりお漏らしをしてしまう子もいなかったわけではない。そういう子供達の下着を洗ってあげたり、泣いている子供達をお世話をしたことも何度かあった。小さな子がそういう失敗をするのは仕方ないこと。だから悪いことでもなんでもない。ちょっとずつ学んでいけばいい、と少年少女達を諭していたように思う。なんだか、久しぶりにあの頃のことを思い出した。

 紬が中学校に上がってすぐ、同じ学区の子供達が次々引っ越してしまって、一気に子供達の面倒を見る機会は減ってしまったが。そのうちの何人かとは今でも年賀状などでやり取りが続いている。鬼ごっこ中によく足をすりむいて大泣きしていた泣き虫ボウヤは、今年超名門の高校に入学したと報告が来ていた。なんとも懐かしい話だ。


――よし。……私は、大丈夫。こういうこと考えられるなら、だいぶ落ち着いてきた証拠だ。


 洗面所まで行き、備え付けのタオルのいくつかを取り出す。うち二枚ほどを濡らして絞った。幸い、水道から真っ赤な水が出るとか、髪の毛が沸いて出るなんてことはない。怪物は風呂場の排水溝から出て来たらしく風呂場の中はしっちゃかめっちゃかになっていたが、トイレ自体は綺麗なままだった。タオルを含め、石鹸や歯ブラシという備品も無事。これなら、軽く掃除すれば多少使うこともできるだろう。

 ベッドルームに戻ると、どうにか立ち上がった紗知が自分の下着と替えの服を出しているところだった。やはり、着替えは残っていたらしい。


「紗知ちゃん、お風呂はちょっと入れそうにないけど、体だけでも拭こう。私も拭く。汗でべったべたになっちゃったしさ。気持ち悪いでしょ」

「はい、ありがとうございます」


 カーテンは開いているが、せっかく部屋が明るくなったのに暗くする勇気は今はなかった。二階だから、窓から覗かれる心配はないと信じよう。

 それにこの部屋にいるのは女性同士だし、どうせ銭湯には言ったら全裸を晒すのだ。もういいだろう、と判断して紬も一度服を脱いだ。着替えは三階の自室にある。後で取りに行くとしても、とりあえず濡れタオルで体だけでも拭っておきたい。そういえば、三階の部屋は無事なのだろうか。もしあちらが問題なければ、そこで紗知と一緒にシャワーだけでも浴びてしまえるのだが。


「あの」


 ざっと体を拭いて服を着直したところで、紗知が口を開いた。


「本当にありがとうございます、紬さん。あの、どうして……紬さんは、そんなに見ず知らずの紗知に、親切なんですか?」

「え?」

「だ、だって……紗知たち、きっと迷惑だったと思うんです。村の言い伝えのこととか、結構強引に聞き込みしてたし、村の人ならあんまり聞きたくない話もしたと思うし。それに、きっと玲愛ちゃんと真織ちゃんは、入っちゃいけないところとかにも入っちゃったんだろうし。……嫌われても仕方ないし。そうでなくても、赤の他人じゃないですか。なんで、こんな親切に助けてくれたんですか。れ、連絡先だって無理やり聞き出したみたいなもんだったのに……」


 段々ともごもごと口ごもるような口調になる。どうやらずっとそれを気に病んでいたということらしい。

 そういえばどうしてだろう、と紬も自問自答した。己は取り立てて、人に親切な性格ではない。ピンチになっているのなら貴子ならともかく、紗知とは出会ったばかりの年下の女の子というだけ。第一印象だってお世辞にもよくなかった。それなのに、どうして部屋まで駆けつけて助けに行こうなんて思えたのだろうか。


「……気にしなくていいのに」


 結論は、わりと早く出た。何故ならば。


「正直、紗知ちゃんのためじゃなかったし。……私も怖かったから、一人でいたくなかったってだけだもん。誰でも良かったんだよ、正直。……一緒に戦ってくれる人なら、誰でも」


 貴子は一緒に部屋に泊まっていなくて、すぐに合流できない状態。停電した部屋に取り残された時、本当はそれだけでもすごく不安だったのだ。いくら、寝てしまえばいいとか、そう思って元気なフリをしたところで、だ。

 そしたら、紗知が連絡をくれた。これ幸いと紬から電話を入れた。彼女を慰めているつもりで、結局慰められているのは紬の方だったと思うのだ。


「私も、一緒にいてくれる人がいて、本当に助かったよ。ありがとうね、紗知ちゃん。お友達も、無事見つかるといいね」

「紬さん……」


 紗知が目を潤ませる。彼女はどうしましょう、と言った。


「紗知、何も、恩返しできることとかないです。ていうか、昔から何のとりえもなくて、自分でやりたいこととか何も言い出せなくて。玲愛ちゃんと真織ちゃんが仲良くしてくれなかったら、学校でもきっと独りぼっちだったと思うし。二人に対してもいっつも……二人が決めたことにくっついていくことしかできなくて。自分でこれがやりたいとか、あれがやりたいとか、こういうのは嫌だって言い出せなくて。そんな自分が嫌いで、取り柄なんか何もなくて」

「そんなことないよ」


 それは、心からの言葉だった。確かに、紬は紗知のことなど何も知らない。でも、一つだけわかっていることがあるのだ。


「紗知ちゃんにも、いいところや、勇気のあるところ、あると思うよ。……あのね、私、大学の文芸部で小説書いてるからさ。小説のネタとして、いろんな人を観察してるんだけど……だから、結構、知ってるというか。……意外と少ないもんだよ。“ありがとう”や“ごめんなさい”を、真正面からちゃんと言える人」


 大学に入ったばかりの頃、伊勢に一人旅をしたことがある。電車を待っている間、待合室で時間を潰していた時のこと。とある家族と居合わせて、その会話が丸聞こえだったことがあるのだ。

 全員大人だった。恐らくは会話の内容からして母親、姉、弟という組み合わせだったのだろう。この母親と姉が、少し話を聞いただけでもわかるほどどぎつい性格だったのだ。つまり、ひたすら弟のことを、姉と母親の二人がかりで責め立てているのである――旅行の段取りなどを、まるっと弟に投げておきながら。


『あんたが●●の方が早いって言うからこの電車にしたのに!実際はものすごく待たされるじゃない!』

『××の時間に間に合わなかったらあんたのせいだからね!!』

『とにかくさっさと電話かけて問い合わせなさいよ!ほら早く!』

『はあ?それが社会人の電話のかけ方なわけ?まったくなっちゃいないわね!!』


 まあこんなかんじ。そんなに人のやり方にケチつけるなら、問い合わせもルート検索も自分達でやれよ、と思ったものである。弟は文句を言われながらも、一生懸命調べたり、電話をかけたりを繰り返していた。傍から見ていて、あまり気持ちよい光景ではなかったわけである。

 弟にも失敗はあったのかもしれない。でもまずは、一生懸命頑張ってくれる彼に対して労いの言葉の一つや二つ、あってもいいではないか。同時に、役立てない自分達や、無理難題を頼んだことの謝罪はないのか。


「人間って理不尽な生き物だよね。時に……謝らないで逃げた人じゃなくて、真正面からちゃんと謝った人にばかり石を投げる。頭を下げた相手は間違ってることを認めたわけだから、いくらいちゃもんつけてもいいと思ってる。……でさ。それを誰もがなんとなく気づいてるから……謝罪そのものから逃げる人が本当にたくさんいる」

「確かに、そうかもしれません……」

「紗知ちゃんは人に、感謝も謝罪もちゃんとできるでしょ。それは大事なことだと私は思うけどな。……この世で一番弱い人は、罪を犯す人じゃない。自分が犯した罪や間違いを、認める勇気がない人だと私は思ってるから」

「紬さん……」

「だから、あんまり自分を否定したり、拒絶したりしたら駄目だよ。自分の一番の味方は自分でいてあげなきゃ。……まあ、私みたいな他人に言われても説得力ないかもだけど」

「そんなことないです!そんなこと……!」


 彼女は目に涙を浮かべて、ふるふると首を横に振った。そして掠れた声で、ありがとうございます、と繰り返した。

 その時、ぶるるるる、と紬のスマホが震える。表示された名前は、増岡貴子。しまった、と紬は思った。朝になったら真っ先に連絡を入れるつもりだったのに、すっかり忘れていたと。

 電話に出た途端、聞こえてきたのは貴子の叫び声だ。


『紬ちゃん、紬ちゃん!無事?今どこにいるの?旅館!?』

「あわわわ先輩声が大きいです……ぶ、無事です。旅館にいます。大丈夫ですから……!」


 とりあえず、状況を説明することにする。着替えて、可能ならシャワーを浴びてから増岡家に行かせて貰うことにしようと決める。もちろん、紗知も一緒にだ。

 貴子の祖父は、明らかに何かを知っている様子だった。彼と合流すれば、自分達が襲われた現象の正体も、それから解決方法もわかるのかもしれない。

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