肆 店主の影

 翌朝、打ち沈んだ心持ちのまま、俺はいつものように高校へと向かった。


 無論、気分の優れないのはあの悪夢を見たせいだ……。


 昨夜は目覚めてから金縛にかかったように思えたが、きっとあれも含めて全部夢だったんだろう……包丁を持った店主が俺の部屋にいるなんて、そんなバカなことあるわけがない……。


 だが、その店主に二度も肉切り包丁で斬りつけられるなど、ただの夢にしたって気持ちのいいものではないだろう……それに、あの人肉館の厨房の光景からしても、なんだか妙にリアリティがあったような……。


「──おーす……」


「ああ、おーす……」


 暗い顔のまた教室へ入ると、先に来ていたエバラ、ミハラ、サンロウの三人も、なんだか妙に生気がない。


 他人ひとのことは言えないが、昨夜の盛り上がりとは打って変わって、まるで別人かと思えるようなテンションの低さだ。


 この変わり様……いや、常識的に考えればありえないことなのかもしれないが、もしかして、こいつらもあの夢を見たんじゃないだろうか?


「……あ、あのさあ、もしかして、おまえらも夢を…」


 俺がそう言おうとしたその時。


「おーす……」


 ちょうどモッチャンが教室に入って来た。


「おい、その顔どうしたんだよ? ケンカか?」


 だが、その口元には青痣ができており、唇の端が切れている。


「いや、じつはあのデジカメのメモリーが壊れちゃってさ。ブチ切れた兄貴にぶん殴られたんだよ……」


 エバラに訊かれると、モッチャンは苦笑いを浮かべながらそう答える。


「え? メモリーが!? じゃ、じゃあ昨日撮った人肉館の動画も……」


「ああ。なんもしてねえんだけどな。あの後、家に帰って兄貴にも動画見せようとしたらデータ吹っ飛んでたんだ。幸い、デジカメ自体は壊れてなかったんで一発ですんだんだけどよう……それに、ふてくされて寝たら寝たであんな夢見るしさ……」


 そして、驚くミハラにそう続けるモッチャンだったが、最後に気になることをその口にする。


「夢? 夢ってまさか…」


「もしかして包丁持った男の夢か? 人肉館の厨房みたいなとこも出てくる?」


 ところが、俺が確かめるよりも先に、俺の言いたかったことをサンロウがモッチャンに尋ねる。


「…え? まさか、おまえも見たのか!? あの、包丁でズバっと斬りつけられる?」


 それにはモッチャンも目をまん丸く見開き、ちょっと間抜けにも見える表情で驚きを露にしている。


「それって自分じゃない誰かになったみたいな? それに目覚めたと思ったら金縛にもあって!」


「おいおい、おまえらもかよ……んじゃあ、金縛の最中にもあの店長らしいの見たか?」


 すると、ミハラとエバラもどこかで聞いたようなことを言い始め、俺達五人は蒼い顔をして騒然とし始める……それから各々の話を擦り合わせてみると、やはり全員、俺と同じ夢を見ているようだった。


「おい、これってヤバイんじゃあえか? 五人同じ夢って、どう考えてもおかしいだろ?」


「ああ……動画にも映ってたし、俺達、人肉館の店主に取り憑かれたのかなあ?」


 擦り合わせを終えた後、モッチャンは目に見えて慌てふためき、ミハラはその核心を突く、誰もが考えまいとしていた事実をさらりと口にしてくれる。


「取り憑かれた!? おい! どうすんだよ? マズイだろ!?」


 一度ひとたび口に出してしまうと、それは確たる現実のものとして、よりはっきりと認識されてしまう……昨夜は一番調子こいてたモッチャンが、今では一番テンパってしまっている。


「落ち着け。ただ変な夢見ただけだ。まだ取り憑かれたと決まったわけじゃない」


「ああ。それに幸か不幸か動画消えたんだろ? 心霊写真とかこういうのって、持ってるとマズイとかいうし、消えたんならだいじょぶじゃねえの?」


 そんなモッチャンに対して、サンロウとエバラがそう言ってなだめすかす。


 だが、それはむしろ自分自身に向けられた言葉なんだろう……その事実を認めたくはなく、そう言って自らを安心させようとしているのだ。


「そ、そうだよな。もう俺達、動画持ってないんだもんな……うん。あの夢でもう終わりだよな……」


 それでも、二人の説得が功を奏したのかモッチャンも落ち着きを取り戻し、俺達は強引にそう結論を下すと、あの恐ろしい夢については忘れることにした。


 ……しかし、表面上は強がって見せてはいても、内心怯え切ってしまっている俺達を嘲笑あざわらうかのようにして、怪異はそれだけに終わらなかった。


 例えば、体育でサッカーをやっていた時も……。


「──おし! こっちだ! こっちにくれ!」


「おう! いくぞ…」


 エバラに請われ、ドリブルしていた俺はパスを出そうとしたのだったが、その瞬間、視界の隅に映ったものに目を奪われ、思わずその場で立ち止まってしまう。


 校庭から見える、体育館へと続く渡り廊下……そこに、白いコックコートを着たあの男が、血塗れの肉切り包丁を手に立っていたのだ。


「…………あっ!」


 顔面蒼白に固まってしまっていた俺は、相手チームにボールを取られてようやく我に返る。


「おい! なにぼーっと突っ立ってんだよ? 今、充分パスできたろ?」


 不甲斐ない俺のプレイに、エバラが駆け寄って来て怒鳴り気味に問い質す。


「い、いや、今あそこにあいつが…!」


 責められて、言い訳するように再び渡り廊下へと視線を戻す俺だったが。


「……あれ?」


 確かにいたはずの男の姿はもうどこにも見当たらない。


「あいつ?」


「あ、いや、なんでもない……」


 怪訝な顔で聞き返すエバラに、俺は首を横に振って話をはぐらかした。


 もしかしたら、ただの見間違い…いや、強がったところで不安は拭い切れぬ、俺の本心が見せた幻覚なのかもしれないし、いたずらに友人達まで怖がらせることはないだろう。


 この時は再び自分にそう言い聞かせ、気にしないことにした俺だったが……。


 今度は国語の授業中、あんな悪夢を見たせいで寝不足だったのか? すっかり居眠りをしてしまっていた時のこと。


「──おい、起きろ! 授業中だぞ?」


「……ん、んん…」


 机に突っ伏していた俺は、授業担任に教科書で頭を小突かれ、眠気眼で担任の顔を見上げる。


「……ひっ! うぁあああーっ…!」


 だが、その瞬間、半分閉じていた眼を大きく見開くと、俺は思わず悲鳴をあげてしまう。


 なぜならば、そこに立っていたのはあの血塗れの包丁を手に持った、白いコックコート姿の店主だったからだ。


 店主は値踏みするかのように俺を眺めながら、不気味に真っ赤な舌で舌舐めずりをしている。


「──おい、どうした? 驚きすぎだろ? なんだ? 悪い夢でも見てたのか?」


「……え?」


 しかし、聞き慣れたその声に仰け反った体勢で改めて見てみると、目の前にいるのは店主ではなく教科担当だ。


 わけがわからず周りを見回せば、クスクスとクラスメイト達が小声で俺を嘲笑あざけわらっている。


 みんな、ただ俺が寝ぼけただけだと思っているのだろう……いや、ほんとに寝ぼけて見間違えただけなのか?


 クスクスと笑うクラスメイト達を、なおも俺は呆然と見回し続ける……だが、その中でエバラ、ミハラ、モッチャン、サンロウの四人だけは、何かを感じ取っているかのように真顔で俺の方を凝視していた。


 ……もしかして、あいつらにも俺と同じ現象が起こっているのか?


 後にわかったことであるが、俺のその推測は残念なことにも当たっていた。


 やはり皆、ちょくちょくあの店主が視界の隅に映ったり、一瞬、別人が店主のように見えたりするのだそうだ……。


 しかも、この異常極まりない現象は、この日だけでなく以降も毎日続くようになった……それも学校ばかりではない。家でも、屋外でも、バイクを転がしている時も……時と場所を選ばすにである。

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