第17話 ④班――高橋曜介

 目標となる川に到着したのはいいが、雨による増水の危険が高い。

 鉄砲水の恐れがある中、川岸を進んでいくのは、さすがに自殺行為だ。本来の川床を見失うかもしれないので、岸から離れつつも川が見えるように歩く、という方法も勧められないだろう。


 ここは大人しく、雨がやむのを待つほうが賢明だ。

 そう決めて、近くに簡易的な寝床を作った。幹に倒木を立てかけ、「へ」の字を作ったら、そこに雨風を凌ぐための葉を加えて、屋根の代わりとするのである。欲を言えば、火を起こせていないので、本当は樹上などの高所に、休める場所を作ったほうが虫を避けられたのだが、そこまでの造りは望めなかった。


 寝床を仕上げてしまえば、ほかにはもうすることがない。

 せいぜいが、交代して互いに見張りをしながら、眠ることくらいである。

 そうやって起きている間ずっと、翔太朗しょうたろうは川のほうを眺めていた。水面よりもかなり高い位置にまで移動したので、木々の隙間から川の流れが見えたのである。決して楽しい光景ではなかったのだが、翔太朗しょうたろうはぼんやりと、水嵩の増した川に目線を落としていた。


 寝て体力が復活すれば、再びみんなで食べ物を探す。

 あとはひたすら、降雨が穏やかになるのを待った。







 丸一日くらいは経過しただろうか。

 気がつけば、三人は川沿いを歩きだしていた。

 思っていたよりも岩肌が鋭い。

 転ばないよう、一層の注意が必要だろう。


「……」


 昨日は濁りきっていた川の水も、今日は透き通るほどに綺麗だ。

 魚はいないのかと、時折、翔太朗しょうたろうは水中を覗きこんでみたのだが、見つかる気配は一向になかった。


 パースに来てからというもの、食料は常に不足している。

 こんなことならば、干からびた寮雨転蝉タービュローチャーを、無理してでも口に入れるべきだっただろうか。たしか、セミは食べられたはずだ。もっと言えば、セミに限らず、大概の虫は毒を持たないので口にできる*1常識的な人間であれば、味の心配をするかもしれないが、それはイメージが先行した、誤解であると言えるだろう。異臭を出すカメムシなどの例外を除けば、虫の大部分は無味無臭に近いからだ*2もっとも、その一般論が、パースにどこまで通じるのかは定かではない。現に、寮雨転蝉タービュローチャーなどの怪物を除けば、翔太朗しょうたろうたちはまだ、主だった昆虫に出くわしていないからである。


「ちょうどいいから、俺たちもここで体を洗ってしまおうか。いい加減、みんなも体のべたつきがうざいんじゃないか? 今なら見通しもいいし、不意の遭遇はないだろう」


 たとえ、衛生面で変わることがなかったとしても、個々人のモチベーションを維持できるのであれば、積極的に取り入れていったほうが、最終的にはよい結果が得られる。それがわかっているからこその発言だろう。


 体がべたつくのは、汗に含まれる塩のせいである。

 では、なぜ塩が含まれているのかと言えば、汗を作るのに必要不可欠だからだ。元々、汗は血液を原料に産生される*3このステップは、血液が即座に汗に変わるというような、単純なものではなく、もう少しばかり複雑な過程を経る。例えて説くならば、原材料の加工と、出来上がった商品の包装と言えるだろう。原材料の加工――すなわち、血液を汗の原液へと変えるべく、血中から水分を移動させる必要があるのだが、ここで使われるのが塩、特にその浸透圧なのである。


 浸透圧という言葉を、難しく考える必要はない。干からびたレタスを水に漬ければ、しゃきしゃきとした食感が戻って来るようになる、あの現象が浸透圧だ。濃度の濃いほうへと向かって、低いほうから水などが移るという点に、この現象の眼目がある。


 したがって、もうおわかりのように、血中よりも塩分濃度を濃くした汗の工場に、水が移動することになる。その定量は、血中の濃度と同じになるまでである。言い換えるならば、汗の原液には、多量の塩が含まれているということだ。この状態での出荷は、商品としては望ましくない。生命の維持に塩は不可欠なので、やたらめったら、気軽に体外に排出するべきではないし、塩を含んだ汗は蒸発しにくくなるので、体を冷やすという目的にもそぐわなくなってしまう。ゆえに、商品の包装――汗の原液から塩を回収する、という作業が行われるのである*4


 翻って、体を冷やすという脳からの命令が、商品の包装速度よりも、遥かに強まってしまった場合はどうか? つまり、酷暑などの環境においては、命を守るために、よりスピディーに汗が排出されるわけだが、この場合には、塩の回収が間に合わなくなるため、皮膚を流れる汗もべたつくものとなる。これが嫌な汗の正体である*5


 愛莉あいりがいる手前、一応は女性に配慮して、パンツを脱ぐことまでは控えた。

 水の流れ。

 うずくまるようにして川床に体を着ければ、瞬く間に皮膚に潤いが戻っていく。それは、生き返るという表現こそふさわしい。


 文明の高さが、皮膚の清潔さに比例していると言っていたのは、たしか安部公房だっただろうか*6


 中休みを終え、再び④班と合流するべく歩きだせば、ふと翔太朗しょうたろうは、自身の計画が誤っていたことに気がついた。今しがた、自分たちがやったように、川で水浴びをするのは、なにも④班に限った話ではない。仮に他班との接触がかなったとしても、そこから先、④班へと繋がる手順は、依然として不透明なままなのである。端的に言えば、自分たちに非協力的な班と鉢合わせておしまい、という可能性が十分にあるのだ。


 自身の懸念を翔太朗しょうたろうが仲間に伝えれば、なんだそんなことかと言いたげに、真司しんじは微笑を見せていた。


「だから前に言ったろう、翔太朗しょうたろう? ④班だけは人員が少ないんだって。俺たちと同様、人数不足のために、移動するのも一苦労な④班が、すでにこの川を見つけているんだとすれば、わざわざ生活に便利な場所を捨ててまで、ここから離れる理由はないんだよ。もしもまだ、川の近くに残っているんだとすれば、それはほかでもなく、俺たちが探している④班なのさ」


 言うが早いか、まもなく愛莉あいりが前方を指さして、何事か声を上げていた。

 遠目にも見えるのは、素っ裸で水浴びをしている若い男。

 やがて近づいていけば、それが④班の高橋たはかし曜介ようすけであることがわかった。⑤班はその狙いどおり、④班のメンバーと出会えたのである。


 だが、気は抜けない。

 彼らが戻りたい派・戻りたくない派のどちらであるかによって、翔太朗しょうたろうたちの運命は大きく変わる。






*1:三橋淳(2012)「第二章 虫の食べ方」、三橋淳編『虫を食べる人びと』、平凡社、pp. 23-9

 ただし、生食は微生物などの関係で危険であると、著者は続けている。

*2:同上。

*3:菅屋潤壹(2017)『汗はすごい』、筑摩書房、pp. 25-6

*4:同上、pp. 45-7

*5:同上、p. 48

*6:安部公房(1981)『砂の女』、新潮社、p. 136

「文明の高さは、皮膚の清潔度に比例しているという」。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る