第3章 オリバレス家の人々

第9話 ミス・ロペス


 日差しが首都オステンデスに降り注いでいた。

 私がオスランデスに到着してから、二日が経ったが、リカルドと会っていない。


 私は、王宮に入るための教養が全くないとのことで、数か月の間、オリバレス公爵家に世話になることになった。教養を身に着け、当面の間、オリバレス家の人々と生活をすることで、モレスタ王国の慣習に慣れさせようとのことだった。

 本来であれば城の中で教育を受けるのだが、城がまだ喪に伏しているということもあって、外で教育を受けた方がいいとルシアが提案してくれたらしい。


 同行者は、ペペ一人だったが、彼女がいてくれることは非常に心強かった。

 夫婦には子宝に恵まれなかったらしい。私が公爵家に足を運んだ日、夫婦はとても喜んでくれた。


 オリバレス公爵邸は、城から十ブロック離れた場所にある。 

 城と同じように海辺に面している。灰みがかった白い壁に、夏草のような黄みがかった緑色の窓枠がある屋敷からは、温かみが感じられた。亜麻色の木窓は全て広く開けられており、中からレースのカーテンが、ふわりと飛び出し揺れている。庭に植えられている木々が、海風ふかれてしなっていた。


「まあまあ。ようこそいらっしゃいました」


 ふっくらした体形のオリバレス公爵夫人は、私の姿を見つけると、まるで自分の子供を出迎えるかのように優しく微笑んで両腕を広げ、私を抱きしめた。夫人からは、花の香りがした。


「本日より、どうぞよろしくお願いいたします」


 私の代わりにペペが挨拶をすると「いいのよ。いいの。主人は陛下と新しい体制を作るんだってほとんど家に帰ってこないんだもの。食事と寝るだけ。退屈していたのよ。甥っ子のセブリアンが来ているけれど、星の位置を確認したいとかで、部屋からほとんど出やしないし」と夫人は、ずっと話をしている。


「立ち話もなんだし、屋敷の中へ入ってちょうだい」


 オリバレス公爵夫人が言った時、私とペペの頭は、灼熱の太陽によって熱くなっていた。

 屋敷の中は、外と同じように温かみのある部屋だった。日の光がよく入るような構造になっているらしい。屋敷は明かりをつけなくても、充分に明るかった。二階へ繋がっている階段を指し示して「こちらがあなたのお部屋よ」と夫人が私に言った。


 茶色の木製扉を開けると、麻のシーツがかけられた大きなベッドが中心に置かれている部屋だった。ニスのよく塗られた新品の机に、机とお揃いの美しい彫刻が施されている椅子が一脚。黄金の楕円の枠にはめられた鏡は、ぴったりと白い壁にくっついていた。

 大きな窓が一つついており、そこから右手にはシヴェレ海、左手には城が見えた。


「絶景でしょう」


 夫人は、部屋から海と城の両方が見えることが自慢のようだった。


「すごいですね!」


 ペペが賛同したが、私は曖昧に笑うことしかできなかった。

 城を見ると様々な感情が思い浮かんでしまう。


「気に入らなかった?」


 夫人は私の浮かない表情にいち早く気が付いたようで、心配そうな表情で尋ねてきた。私は、慌てて首を横に振って「すてきです」と返事をした。


「何か心配ごとがあるのね。でも安心してちょうだい。私たちがついているわ。荷物を置いたら、お茶にしましょうね」


 先に一階へ戻ってしまった夫人の後ろ姿を見送った後、私は数少ない荷物をベッドの脇に置いた。


 一階に戻ると、ふんわりと甘い香りがした。

匂いのする方へ向かうと、広い厨房があった。白い壁に、卵色の木の床。床と同じ色のテーブルの上には、たくさんの焼き菓子が置いてあった。

 オリバレス公爵夫人は、一人の使用人と共にお茶の準備をしていた。見たことのない黒い鉄の入れ物に緑色の茶葉を入れている。


「ああ、荷物は置いてきたのね。こちらへいらっしゃい」


 公爵夫人が手招きしてくるので、私とペペはそちらへ向かう。

 オリバレス公爵夫人は、一緒にお茶の準備をしている中年の女性を私たちに紹介した。


「紹介がまだだったわね。こちらはフィアンよ。主人が使用人をたくさん雇うのを嫌がってね。とっても働き者なのよ」


 ぺぺが「よろしくお願いします」と言うと、フィアンは小さく頭を下げただけで作業に戻ってしまった。


「人見知りなのよ。仕事はできるから、何か困ったら、彼女に申し付けてね。さあ、お茶にしましょう。ここにかけてちょうだい」


 夫人の作ったらしい焼き菓子は甘くておいしかった。口直しにとアラティウムのゼリーも添えてあった。


「このお茶、渋いですけどおいしいですね」


「主人の出資している会社の一つが輸入しているものなの。オリエンティス王国でよく飲まれているお茶らしいわ」


「東の国の?」


「海路で輸入してくるから、ほとんどが茶色になってしまうのだけれど、これは向こうで干して、密封してくるから緑色のままなのよ」


 話を咲かせている二人の会話を黙って聞きながら、私は自分のカップにお茶の葉が浮いているのを見ていた。


 すると「まあ、茶柱が立っているわ。縁起がいいわね」と公爵夫人が微笑んだ。


 ☼☼☼


 夫人の言った通り、公爵は家に帰って来ず、星を観察しているらしい甥っ子は、一度も姿を表していない。

 食べきれないほどの夕飯をご馳走してもらった次の日から、私の勉強は始まった。オリバレス公爵夫人が教えてくれるのかと思ったが、どうやら外から家庭教師を雇うそうだ。私の素性は伏せておくらしい。

 私が勉強している間、ペペは手が空いてしまうので、夫人の手伝いをすることになっている。


「はじめまして、私、アナ・ロペスと申します。この度は、オリバレス公爵家に養子入りされるとのことで、教師を担当するよう申し付かりました」


 怖い人でなければいいなといった私の願いは、あっさり打ち砕かれた。真っ黒なドレスに、白い手袋。黒縁の眼鏡の奥にある瞳は、まるで獲物を狙う肉食ドラゴンだ。 長い髪の毛を痛めつけるがごとくきつく結び、ひとつにお団子にしている。飛び跳ねている髪の毛は全て整髪料で固められていたが、かいだことのないような奇妙な香りがした。


「よろしくアナ」


「ミス・ロペスと呼んでください。私とあなたは教師と生徒です。友達ではありません。いいですね」


 昨日立っていた茶柱は縁起がいいのではなく、悪いお告げだったのかもしれないと私は思った。

 貸し出された客間の机に、これでもかというほど大量の書籍を置き「あなたの卒業は、今度の王室で開催されるデビュタントの状況を見てとさせていただきます」とミス・ロペスは私を睨みつけた。掃除をしているフィアンが通りかかって、意地悪そうな表情で私を見て笑っていたのが見えた。


「私の話を聞く気はありますか? ミス・マルドナド」


「えっと……」


「返事は、はい、か、いいえです」


「はい……」


「よろしい。では、こちらの書籍を読むところから始めさせていただきます」


 ミス・ロペスは教鞭で一冊の書籍を指した。私は、おずおずとその書籍を手に取り、ページを開いた。


「五ページ目から、どうぞ」


「……」


「なにをぼーっとしているのですか? どうぞと言ったのですよ」


 私はどうしたらいいのか分からなかった。なぜなら、そこに書いてある文字を、私は一文字も読むことができなかったからだ。


 しかし、ミス・ロペスは文字が読めない人間が、この世の中に存在するとは夢にも思っていないようだ。私の態度を反抗的な態度と決めつけ、不機嫌そうに教鞭で机を叩いた。


「さあ、不貞腐れた態度はおやめなさい。デビュタントまで残された時間は半年です。一分一秒だって惜しいんですからね」


 黙っていても仕方がないので、私は正直に訴えることにした。


「あの……」


「あの、ではありません。『モレスタ王国における国家建立は~』です」


「読めません」


「読めません? 書いてあるでしょう」


「じゃなくて、文字が読めないんです……」


 その時のミス・ロペスの表情を私は一生忘れないと思った。吊り上がった瞳がこぼれ落ちそうなほど丸く開き、瞳と同じくらい、口も、鼻の穴も大きく広がっていた。


「……っか」


 口をパクパクさせた後「ええ?」と尋ね返してきた。


「あなたは、今までどのような教育を受けてきたのですか? まさか、幽閉されていたなんて、冗談を言ったりしたら承知しませんからね。公爵家に養子になるくらいなのですよ? このような人に会ったのは生まれて初めてです。恥ずかしいことですよ、ミス・マルドナド」


「すみません」


 顔が赤くなるのを感じた。あながち間違っていないミス・ロペスの見解に、今までの私の人生の背景を伝えることができたらどれだけいいだろうかと思った。


「少し、ここでお待ちください」


 ミス・ロペスは血相を変えて、部屋から出て行った。

 きっと、公爵夫人に大きな声で私が文字を読めないと、大げさに報告するのだろうと思った。


「奥様! ミス・マルドナドの件なのですが!」


 予想した通り、ミス・ロペスの大声が聞こえてきた。

 彼女のことを嫌いになるのには充分な時間だった。それと同時にミス・ロペスではない教師に変えて欲しいという気持ちも生まれた。

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