帰り道

 ここ数ヶ月間、青衣の声を聞いてないから、聞き間違いの可能性が高い。今更気にしないでもいい、咲と会話をすることにしよう。


 鯉のぼりがあった場所から遠くなってくると、人の数が少なくなってきた。


「ねぇ、光」


「どうした?」


 咲は、俺の方を見る、その表情は、少し頬を赤く染め緊張しているようだった。


「今日、まだリハビリをしていない」


「あ」


 大事な事を忘れていた。恐らく咲は、ずっと前から、いつ言おうか迷っていたと思う。俺が、声をかければ良かった。


「今日、わたし絶対にビンタしないから」


 咲がしている表情は、真剣だ。


「わかった。咲を信じる」


 俺が頷くと、咲は照れくさそうに手を俺に差しだす。


「い、いつでも……準備できているから」


「わかった」


 いきなり手を繋がないで、優しく咲の手に触れる。


「ん……」


 咲の体が強張る。


「大丈夫?」


「だ、大丈夫よ。続けて」


 咲のトラウマを思い出させないように、ゆっくり指を絡ませる。


「く……ん……」


 咲は顔を赤く染め、小さな声を漏らす。咲の手が小さく震えている。


「手を繋ぐぞ」


「うん」


 咲が頷くのを確認して手を繋いだ。三秒、五秒時間が過ぎていく。


「咲、すごいよ。十秒経っている」


「で……でしょ?」


 その後も、手を繋ぐ事ができ、三十秒経過した。


「ひ……光」


「咲どうした?」


「休憩したい」


 咲の顔は、真っ赤になっており、頭から湯気が出る勢いだ。


「そ、そうだな」


 手元しか見ていなかった。時間配分が、わからない。いつもなら、手を繋いでから、すぐにビンタされて、終わっていた。普段されない反応されると対応がわからなくなる。ビンタで安心するって慣れって怖いな。


「ありがとう。はぁ、緊張したー」


「大丈夫か?」


「大丈夫。それより、凄くない? 私、ビンタしてないよ」


「凄いよ、びっくりした」


「でしょ。だんだん自分の衝動が制御できるようになってきた」


 咲は、着実に進歩していた。この調子で行けば、トラウマを克服できる日が来るかもしれない。いや、もしかしたら克服できているかもしれない。


「もう、トラウマ克服できてないか?」


「それは、まだ克服できてないかも」


「そうなのか?」


「うん。光から見ればわからなかったと思う。さっきの三十秒で、五回ビンタしたくなる衝動を、心の中で抑えていた」


 咲が抱えるトラウマの克服には、まだまだのようだ。


「ビンタしないだけでも、大きな前進だよ」


「えへへ、そうかな」


「駅に向かう間に、余裕ができたら、もう一回ぐらいリハビリするか」


「うん。そうする」


 その後、駅に向かうまでの間、もう一回手を繋いでみた。


「五十八、五十九、一分! すごい咲!」


 咲の成長に、感動してしまい、つい大きな声を出してしまった。一分も手を繋ぐ事が、できるなんて思わなかった。


「やった……」


 咲は、そう言うと、その場で座り込んでしまう。


「だ、大丈夫か?」


「頑張り過ぎて、腰が抜けちゃったみたい。近くに座れるとこある?」


 周りを見渡すと公園内にあるベンチを見つけた。


「あそこに座ろう」


「うん」


「立てるか?」


「光、肩貸して」


 咲が俺の肩に手を回して立つ。


「肩に腕まわすのは、大丈夫だな」


「うん。恋人同士しかしない行動じゃないからね。覚えている? 食堂で光が取り乱した時に、私がした行動」


「食堂で咲が、俺にした行動?」


 二、三週間前の事で、なかなか思い出させない。何をした?


「私、光の手に、自分の手を重ねたよ」


「そうだ、思い出した。その時、手を重ねていたな」


「でしょ。私が、トラウマを思い出す時は、恋人同士じゃないとしない行動をした時。肩まわしは、私の心によると、大丈夫な行動だと思っているみたい」


「なるほどな。人によって価値観違うから、判断難しいな」


「そうだよね。大丈夫な時は、さっきみたいに頼むことにするね」


「それだと、助かる」


 咲を公園のベンチに座らせる。


「光も隣に座ってよ」


「わかった」


 咲の隣に座る。


「ねぇ、光」


「なんだ?」


「いつも、ありがとうね」


「気にするな。俺のリハビリもあるからな」


「光は、トラウマ克服できそう?」


「どうだろうな。咲みたいに目に見えてわかる変化じゃないからな。しばらく、時間がかかりそうだ」


「そっか。焦らなくてもいいよ。私は、光が好きな人できてくれたら、それで嬉しい」


「ありがとう。焦って人を好きになる必要はないと思うから、ゆっくり自分のペースで行くことにするよ」


「うん、それで良いと思うよ」


 しばらく、咲と会話をした後、駅へ向かった。


 電車に乗り、揺られている間、外の景色を眺めてみる。空は、オレンジ色に染まり、日は半分沈んでいた。


「咲。綺麗な夕日だ」


 いつもすぐ返事をする咲からの返事がない。


「咲?」


 気になって、咲が座っている方向を見ると、顔を下に向けて寝ていた。


「寝ているのか」


 この前、海に行った時も、帰り道に寝ていたな。帰りに寝るのは、咲がリハビリを頑張っている証拠なのだろう。


「頑張ったな」


 夕日の写真を撮りたいと思ったが、電車内は、俺と咲以外にも乗っている人がいる。カメラのシャッター音で周りに、迷惑がかかるから、次回撮ることにするか。


「寝息は、今回たててないな」


 前回、咲の寝息を聞いたことで、怒られたのを思い出した。これから、咲の寝息が聞こえたとしても聞いてないことにしよう。


 再び外の夕日を見る。もうすぐで、夕日が地平線の下に消えて見えなくなるところだ。夕日が沈むまで、俺は静かに見守った。


「咲、起きろ」


 咲の体をゆする。


「ん? なに、光?」


「次の駅で、俺降りるからな」


「あ、私また寝ていた」


 咲は、少し眠たそうな顔をして、俺を見る。


「電車の乗り換えないよな?」


「うん。このまま乗れば大丈夫だよ」


「わかった」


「ふわぁー。帰ったら、ちゃんと寝よう」


「それが良い。俺も今日は、ゆっくり寝る」


 俺が降りる駅に、電車が止まる。


「よし、俺この駅で、降りるからな」


「うん、またね」


 お互いに手を振って、お別れをする。


 電車から降り、出発するまで、咲に向かって手を振り続けた。


「またな」


 電車が出発し、遠くなっていく。見えなくなったところで、俺は家に向かった。

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