男女交際




 走り終わった後は、グラウンド横のベンチに座って水分補給した。


「そういや仄香、昨日尚弥くんとどうだったの? 一緒に筋トレしたんでしょ」


 何も知らない咲が何気なく聞いてくる。

 片側の口角がひくりと動いた。昨日の尚弥の体温、力強さ、匂い、色っぽい目。その全てが思い出されて言葉に詰まる。

 どうと聞かれても――言えることが一つもない。


「……えーっと……やっぱり、尚弥は凄いよ。筋トレ慣れしてた。私なんてもう最初の三十分くらいでヘロヘロだったのに、尚弥の方はずっと動いてても全然疲れてなくて」

「そうよねぇ。あたしもジムはよく使ってるけど、一番よく見るの尚弥くんだもの。あの筋肉にはあたしも負けるわ」

「男性の方が筋肉は付きやすいって言うもんね……」


 そんなことを話しているうちにも、昨日のことが何度も頭の中をぐるぐるする。


 ――初めてだったのに。いくら嫌いだからって、あんなことするなんて。

 色々と文句を言いたい気持ちはあるが、もう尚弥と面と向かって話すのも恥ずかしい。できれば避けたい。午後の研究授業でどうしても会わなければならないのが苦痛だ。


「……仄香、大丈夫? 顔青いわよ。昨日から頑張りすぎたのね。校舎に戻って温かい飲み物でも飲みましょ。そろそろ授業も始まるし」


 咲が心配そうに仄香の顔を覗き込み、校舎に着くまで仄香の荷物を持ってくれた。

 咲もまさか仄香が幼なじみと性行為に及んでしまったせいで落ち込んでいるとは思っていないだろう。こんな話を相談する気にもなれず、仄香は結局咲には何も言わず、荷物を運んでくれたお礼だけ言って別れた。



 昨日のことや体の疲れがあり、午前の授業にはあまり身が入らなかった。幸いにも授業内容は予習していた部分だったので、先生の話していることを理解することはできた。

 二時間目が終わり、十分休憩に入った。次の授業の準備をしながら咲と一緒に買ったホットミルクティーを飲む。

 その時、宵宮から追加の連絡が来た。


『今日夜九時、駐車場で待ってて』


 例の手伝いについての連絡だ。『分かりました。ありがとうございます』と打ち込みながら、折角だから九時までの時間は筋トレに使おうと思った。



 昼休みに入り、教室を出たところで、尚弥と鉢合わせる。

 瞬間、昨日の記憶が蘇ってきてバッと顔を逸らした。


 逃げるように走り出す。


 咲は今日授業が長引いているようで、お昼ご飯は別々に食べることになっている。

 購買で素早くササミとゆで卵を買い、さっさと研究室へ向かった。さすがにこんなに早く研究室へ向かえば途中の廊下で尚弥と会うこともないだろう。


(茜とうまくいったら、尚弥が私に嫌がらせすることもなくなるのかな?)


 研究室の前まで着いた時、ふとそんな可能性について思い付いた。

 しかし、恋愛に興味なさそうな茜と尚弥を成就させるのはかなり難しいような気もする。うーんと唸りながら研究室に入ると、いつも通り茜が嬉しそうに仄香を招いてくれた。


「おねえちゃん、今日早いね……」

「――ねぇ、茜ちゃん、男女交際ってどう思う?」

「男女交際……? うーん、実に人間的なシステムかなぁとは思うよね……。メスとオスの繋がりに明確に名前を付けて子をなして協力し合うわけでしょう? 動物世界全体で見れば、オスが子育てに参加することって割合的には珍しいし、興味深いよね……」


 交際について聞いてシステムという単語が出てくる茜に恋をさせるのはやはり難易度が高そうだ。

 早速駄目そうな気がしつつも、続けてめげずに聞いてみた。


「そういうことじゃなくて……茜ちゃんは、恋とか興味ないの?」

「興味はあるよ。脳内に過剰に化学物質が分泌されるんだよね……。それがどのように収まり、愛が深まるのか。恋愛初期の脳を知るためにも一度は経験してみたいよね……」


 興味を持つ部分が何か違う。仄香はササミを食べながら項垂れた。


「た……例えばさ、身近な男の人を使ってその知的好奇心を満たすっていうのはどうかな?」

「え……?」

「例えば、例えばだけど、尚弥とかを使って、恋愛してみるとか」


 直球すぎただろうか? とやや不安に感じながら茜の顔色を窺う。

 茜はきょとんとした顔で仄香を見つめてきた。


「……おねえちゃんは、わたしに尚弥と男女交際をしてほしいの……?」


 真意を見抜かれてしまいギクリとする。

 仄香が何も言えずにいると、茜は「……そう。分かった」と何かを理解した様子で俯いた。


 ちょうどその時、ガラリと研究室の扉が開いて尚弥が入ってくる。

 仄香はやはり尚弥のことを直視できず、ササミの袋をぎゅっと握り締めた。


「――尚弥、わたしと付き合わない?」


 仄香の正面に座っている茜が、まるでお茶に誘うようなテンションで尚弥に提案する。仄香はぎょっとして茜を見た。


(そうだった)


 茜は重度のシスコンなのだ。姉が少し望むだけで何でも叶えようとするくらいには。

 途端に罪悪感が襲ってきた。自分を守るために恋愛に大して思い入れのない茜を売ろうとするなんて、姉として最低だ。

 仄香は慌てて尚弥に事情を説明しようとする。


「はぁ? 何の冗談だよ」


 しかし、説明するまでもなく、尚弥は茜が本気でないことくらい理解しているようだった。

 いつも通りの怖い顔で荷物をテーブルに置き、茜の隣にドカッと座る。


「恋愛ってどういうものなのかなって、試してみたくなって……ダメ?」


 茜が尚弥のネクタイを掴み、ゆっくりと尚弥に顔を近付けた。今にもキスしそうな至近距離だ。

 茜は蠱惑的な笑みを浮かべたまま更に距離を縮め、尚弥と唇と唇が触れ合いそうな寸前で止める。


「ドキドキする?」

「しねぇ」

「そっか……残念だけど、じゃあやっぱり、尚弥と男女交際は無理かもね」


 茜が尚弥のネクタイから手を離した。尚弥は無表情のままだ。特に動揺していないように見える。

 一部始終を見ていた仄香の方が、よく知る友人同士の官能的なシーンを見てしまったような心地でドキドキしていた。


「ごめんね、おねえちゃん」

「へあ!?」


 突然話を振られて変な声が出る。


「おねえちゃんの希望には沿えないみたい……。脈なしだった」

「え、あ、うん、いや、いいよ。私こそごめん」


 動揺しながら何とか返事をした。


(……どういうこと?)


 了承してしまえば長年の片思いの相手である茜と形だけでも付き合えるかもしれなかったのに。茜側に恋愛感情がないことくらいお見通しで、ちゃんとそれを芽生えさせてからの方がいいという考えだろうか。尚弥もなかなか乙女思考だ。


 心を落ち着かせようとゆで卵のパックを開けて塩をかける。すると、テーブルの下でげしっと足を蹴られた。なかなか容赦のない蹴りだ。

 顔を上げれば尚弥と目が合う。


「何考えてんだよ」

「……あ、私、塩かけすぎ?」

「塩の話じゃねぇわ。何で俺と茜をくっつけようとしてんだ」

「……だって……」


 ちらりと茜の方を見る。茜は椅子から立ち上がって珈琲を入れている最中だ。少し距離があるので小さな声なら聞こえないだろう。

 正面に座る尚弥に顔を近付け、ヒソヒソ声で言った。


「……尚弥、茜のこと好きじゃん」

「あ?」

「お、怒んないでよ。私は私なりに、昔尚弥の気持ちバラしたこと悪かったなって思ってて、少しは協力してあげようと……」

「お前、バカじゃねぇの」

「え?」

「俺が茜を好きだったのは――……」


 尚弥が何か言いかけた時、茜がテーブルに戻ってきた。

 淹れたての珈琲の香りがする。そこで仄香と尚弥の会話は中断された。


 尚弥の言葉の続きが気になってモヤモヤしたまま、三人の会話は論文の話へと移行していった。




 授業後。夕暮れの研究棟の廊下の一角、放課後でほとんどの生徒が帰った後のその場所で、仄香は尚弥にキスされていた。

 茜の研究室から出てさっさと帰ろうとした仄香を引き止め、こんなところに連れてきたのは尚弥だ。腕を掴んで半ば無理やり連行されたので、途中で逃げることもできなかった。

 尚弥の片方の手は仄香の腰を掴み、もう片方の手は仄香の下半身の敏感な部分に指を出し入れしている。

 同じフロアにはいくつかの研究室がある。変に騒いで生徒に見つかることだけは避けたかった。


(……もうどうにでもなれ)


 大事にしていた処女は既に尚弥に奪われてしまっている。仄香は投げやりな気持ちで尚弥のされるがままになっていた。

 指を入れたりキスをしたりするくらいなら、どうせ子供の頃もしていたことだ――そう思って身を委ねていたのに、尚弥が自身のベルトに手をかけたためぎょっとする。


「……な、尚弥、だめだよ。ここ学校だし……」

「うるせえ」


 尚弥は仄香を休憩用のソファに押し倒し、事を進めていく。自分が声を出させるようなことをしてきているくせに、仄香が声を漏らすと「声出すな」なんて無茶なことを言うから困った。


 最中、仄香の頭には恨み言にも似た疑問が浮かぶ。

 ――何故尚弥は、子供の頃自分からやめようと言ってきたくせに、高校生になってまたこんなことを始めたんだろう。



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