本気の殺気





 あと数分殴られ続けたら、目の前の女は死ぬだろう。

 何年もラブレターを送り続けてきた、一度助けたというだけで志波を慕う女。


 女は何度も蹴られ殴られ、怯えて涙を流しながら今日食べたであろう物を吐いている。

 志波はしばらくその様子をじっと見つめていた。



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 今から十五年以上前。

 まだ少年だった志波高秋を研究を目的として一時的に引き取ったのは、当時日本よりも異能力研究が進んでいたロシアの研究機関だった。


 午前は異能力の検査として志波が倒れるまで【切断】の異能を使わされた。志波の異能力発動に関する持久力は凄まじいものらしく、何時間も連続で異能を発動するのもその殺傷能力もずば抜けた才能だと感心された。

 しかし志波はそんなことには興味がなかった。ただ異能を発動して、周囲に観察され、記録され、何やら噂されるだけの毎日だ。退屈で仕方なかった。


 そんな日々が続くうちに、志波は小さな生き物を殺すことに興味を持ち始めた。

 研究所の子どもたちが遊ぶ公園でアリの巣に水を入れて溺死させたり、蝶を捕まえて羽をもぎ取ってみたり。退屈な研究所での生活の中で、動いている虫の生命を奪うその瞬間だけは何故か気持ちが良かった。



「貴方、面白い未来を背負っているのね」


 一人でそんなことをして遊んでいた志波に、躊躇いもなく話しかけてきたある老人がいた。


 イサーエヴナ・コロヴニコフ。大戦のきっかけとなる予定だった危機を未然に防いで和平条約まで持っていき、平和賞を受賞している著名人だ。

 志波が生まれる七十年以上前に生まれた人物で、既に後期高齢者である。皺だらけの手で、足が悪いのか車椅子に乗っており、動きも鈍い。


 ただ、その白にも近い薄紫の瞳は、噂通り強い光を放っていた。

 彼女の異質な雰囲気に志波は目を引かれた。


「…………」

「虫さん殺してるの?」

「……はい」

「あらまあ。そう」


 てっきり注意されると思ったが、コロヴニコフはそれだけ言って微笑んだ。そして、薄い紫色の目を細めて志波を爪先から頭の天辺まで順番に見つめる。


「……わたくしと同じ異能を持つ女の子が視える……」


 視えるというのは未来視のことだろう。とっくの昔に彼女の異能は衰えたと噂されていたが、その気になればまだ使えるらしい。


「あらあら、面白いわね。貴方の異能は人を傷付ける力にも救う力にもなる。今のままでは悪魔まっしぐらだけれど、その前に、運命の人が現れる。必ずね。その子は今のわたくしよりもずっと濃い色の目をした、真っ直ぐで少し愚かな女の子。貴方を愛して救ってくれる。その子にも別の運命の人がいるから、愛し続けてくれるかどうかは微妙だけれど。でも一度正面から彼女と向き合った経験は貴方を変える出来事となるはずよ。だからそれまで――本物の悪魔になっちゃダメ。失ってから気付くなんて馬鹿らしいでしょ。もっとも、あの異能を持つ貴方にとって失うというのは想像のつかない事象かもしれないけど」


 志波は何を言い出すのかと眉を寄せた。

 その数秒後、ゆっくりとコロヴニコフの白にも似た薄い紫だった瞳が濁り、黒くなっていった。


「……あら。わたくしももう年ねえ。今ので最後の【未来視】を使い切っちゃったみたい」

「……は?」

「まぁ、出し惜しみするのも嫌だしねぇ。今のが最後で良かったわ」


 くすくすと皺くちゃの顔をもっと皺だらけにして笑ったコロヴニコフは、唾液を誤嚥したのかごほごほと咳き込んだ後、車椅子を動かして公園を出ていった。



「ニプーハ、ニペラー!――幸運を祈るわ。天使と悪魔の卵の少年」



 世界的に有名な平和賞受賞者、イサーエヴナ・コロヴニコフが最後に占ったのが当時まだ六歳だった志波高秋の未来だったということは、志波以外誰も知らない。

 彼女はその翌週寿命で息を引き取り、世界中から追悼された。



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 何故今、十五年以上も昔のことを思い出すのか。

 仄香に少し、彼女と似た気配を感じていたからだろう。


 しかし、やはり違ったようだ。


 何も感じない。

 何も感じない。

 何も――感じない。



「もういい」


 志波は短く呟いた。


 東京MIRAIタワーで、仄香の心臓に直撃するはずだった弾丸。それは仄香の命を奪わなかった。

 死ぬはずだった仄香が拳銃を持ち直して反撃した瞬間、何年経っても揺れなかった志波の心が初めて揺れた。物凄く惜しい気がしたのだ。

 仄香の命の灯火が消える時をこの目で見たいと思った。

 その瞬間はきっと、この世のどんな有名な絵画よりも美しいだろうという予感がした。


 しかし――やはりあの時感じた高揚はただの気の所為だったのだ。


「つまらない」


 志波はそう言って、【切断】で二階に待機している麻薬組織の人員の首を一瞬にして全て切り落とした。同時に、仄香に暴行を加える大男も殺した。

 残ったのは血塗れの仄香だけだ。仄香は生気のない虚ろな目をしている。あれだけ殴られたのだから当然だろう。


(……何故だ?)


 何故あの時のように立ち上がらない。殺されかけ、それでも立ち上がり、真っ直ぐな瞳で反撃していた仄香のことを、この手で殺してみたいのに。


 興が冷めたという言葉が今の志波にはぴったりだった。


 放っておけば死体を回収しに来た異犯の人員に仄香を見つけられ事情を聞かれるだろう。面倒だが連れて帰らなければならない。


「おい」


 一点を見つめてただぼうっとしている仄香に声をかける。ゆっくりと志波を見上げた仄香の目には光が宿っていない。

 その瞳孔が僅かに揺れた。


 仄香が拳銃を手に取る。何をする気かと思えば、志波の方向を見据えて、拳銃の銃口を向けてきた。

 目を見開く。意外な行動だった。



 志波は恐怖を覚えたことがない。

 それは幼い頃からずっとだ。


 志波高秋という人間は、化け物として生まれた。


 例え四方八方から狙われたとしても相手を一掃できる。殺傷能力の高い【切断】に加えて異能を無効化する【打消】を持っているためにどんな異能力者も歯が立たない。

 誰にも自分を殺すことはできないという自負がある。


 異能の力を検証するための実験で志波は何度も殺されかけたが、それで恐怖が生まれたことはなかった。

 それが何故。目の前のただの女子高生に、目を奪われるのか。



 ――――全てを呑み込むような濃い紫の瞳。志波は本物の殺気を初めて感じた。



 仄香が躊躇いなく志波に向かって発砲する。

 避けるので精一杯だった。トリガーを引かれる前に【切断】を発動しようという発想にも至らなかった。

 銃弾は志波の頬を掠め、志波の後方にいる残党を撃ち抜く。



 残党がどさりと地面に倒れた。


(……まだ生き残りがいたのか)


 気付かなかった。おそらくこの男の異能は気配を消す類のものだろう。

 仄香がそれを見破って打てたのは、おそらく未来視のおかげだ。


 ほっとしたように腕をおろした仄香は達成感からか笑っていた。散々殴られた顔で笑うその姿に不気味さを感じる。

 まだ意識があるのならと、志波は答えを求めて問いかけた。


「何故俺に向かって打った?」

「敵と私の間に、志波先輩がいたので……」

「殺すつもりで打っただろ」


 仄香はあっけらかんと答える。


「はい。敵を志波先輩諸共撃ち抜くつもりでした」

「……急所に当たっていたらどうする気だ?」

「え?」


 仄香が志波を不思議そうに見上げてくる。


「……そんな発想ありませんでした」


 銃弾を放った方向には明らかに志波の急所があった。志波が避けられなければ死んでいたかもしれない。それでも仄香は打ったのだ。躊躇いもなく。



「志波先輩は、私なんかの手で死んだりしないでしょう?」



 ――病的なまでの自信のなさと、志波への崇拝。

 本気で殺しにかかっておきながら、志波が死ぬかもしれないという心配は、仄香の中に微塵もなかったらしい。



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