黒歴史



 ◆


 それはまだ、小学校に上がって一年か二年ほどのことだった。

 親同士仲が良く、家が近所で学校も一緒だった仄香と茜と尚弥は、当然のようにずっと一緒にいた。尚弥は昔から偉そうだったが今ほどのいじめっ子ではなかった。何をするにもずっと一緒で、ずっと三人で仲良しなのだと思っていた。

 茜は覚えていないだろうが、〝三人仲良し〟を最初に壊したのが茜だった。


「わたし……博物館に行ってくるから……」


 茜はこの頃から知的好奇心旺盛な子供になっていった。小学校の授業で本格的に勉強というものが始まったのを機に、茜はその頭角を現し、少し習っただけの異能力学の事象の仕組みを解明した。大人たちからはギフテッドだと騒がれ、隣町の教授に気に入られて頻繁に研究所に連れていかれるようになってしまった。

 次第に周囲の同級生とも話が合わなくなったようで、茜はどんどん孤立していった。勉強に集中したいのか、それを茜自身も望んでいるようだった。


 茜は学習と研究に没頭していき、仄香と尚弥は二人きりになってしまった。


 ――そんな時に退屈を紛らわせるために始まったのが奴隷ごっこだ。最初はその場でジャンプしろとか変顔しろとか、小さな命令を言い合うだけだった。

 しかし、命令はだんだんエスカレートしていった。不運にも仄香のクラスの女子がませていて、少し大人向けの雑誌をこっそり見せてくれるようになったからだ。その雑誌に掲載されている漫画の中に男女のラブシーンがあり、仄香も意味は分からないなりにそういった行為に興味を持つようになった。


「尚弥、これ、しよう」


 友達に借りた雑誌のページを見せながら言うと、尚弥は「はあ?」と顔を顰めた。しかしまだ幼い尚弥も尚弥で初めて見るラブシーンに興味はあったようで、そのページをじっと凝視した。キスしている女性の絵の台詞の中に『きもちいい……』という文字が書かれている。


「ほんとに気持ちいいのかな? 私、試してみたい」

「……やだよ。何か気持ち悪ぃ」


 尚弥が雑誌を跳ね除けた。仄香はむっとして、「じゃあ命令」と言った。


「命令?」

「ほら、昨日の奴隷ごっこ、尚弥の番で終わってたじゃん。今度は私の番でしょ? 尚弥が奴隷ね。――命令。キスして」


 覚えたばかりのキスという単語を、初めて発した相手は尚弥だった。

 仄香の押しに負けた尚弥は言われた通りキスをした。しかしその行為は期待していたよりも劇的なものではなく、仄香はがっかりして項垂れる。尚弥はそんな仄香を馬鹿にしたように鼻で笑った。


「何も気持ちよくねぇじゃん。こーいうの誇張表現っつーんだよ。漫画は大袈裟に描いてんの」

「え~、そんなことないよ。うーん、何が違うんだろ……。あ、この二人、舌? を中に入れてない?」

「……舌だぁ?」

「ほら、このコマ、舌絡め合ってる」

「うえ、キモチワル。大人ってこういうことしてんのかよ」

「ね、一回やってみようよ。それで気持ちよくなかったら終わるから」


 ――背伸びをしたい年頃で、背伸びをし過ぎた。

 尚弥と仄香はそれ以降、見様見真似で大人向け雑誌の真似をするようになった。最初はキスやハグ、手を繋ぐなど可愛かったものが、徐々にエスカレートしていき、お互いの身体を舐め合ったり、噛み跡を付けたりするようになった。

 そんな日々が続いて一年経つと、その行為が良くないことであることを、子供ながらに何となく理解するようになった。しかし互いの親に言えないことをしているという背徳感の心地よさからなかなか抜け出せず、二人はいつまでも奴隷ごっこを続けていた。


 ある時、同学年の男子の間でスカート捲りや女子トイレ覗きが流行った時期があった。仄香も漏れなくその被害に遭った。後に一部の女子が先生に泣きながら伝えたことでその行為の事の重みと注意が全体に広がり収まった。仄香自身は大して気にしていなかったのだが、尚弥はこのことに関して憤慨していた。スカートを捲ったりトイレを覗いたりした男子に対してではなく、仄香にだ。


「お前が隙だらけだったのが悪いんだよ」

「私だって四六時中気を張ってられるわけじゃないよ……」

「大体、下着の上に何か履けって毎回言ってんだろーが。つーかスカート履くな。イライラする」

「……何で履くものまで尚弥に命令されなきゃいけないの? 大体、被害者の私が全然気にしてないって言ってるのに何で尚弥がそんなに機嫌悪いの? 私、覗かれたって別に何も思わなかったし。ちょっと見られただけで一瞬で出ていったもん」


 仄香はネチネチと文句を言ってくる尚弥にかちんときて言い返した。しかし尚弥の方もまだ怒りが収まらないようで声を荒げてくる。


「あーそーかよ。じゃあ〝命令〟してやるよ。俺が御主人様で、お前が奴隷な。ここで小便しろ」

「や、やだよ。それは」

「平気だったんだろ? 別に何も思わなかったって言ったよな」

「こ……ここトイレじゃないしっ」


 誰が見ているかも分からない、校舎裏の茂み。そんなところで下着をおろすなどできない。仄香は必死に抵抗するが、尚弥は譲らなかった。


「奴隷のくせに命令無視すんの? ルール違反じゃねぇ?」


 ――今思えばこの時から、尚弥にはいじめっ子の素質があった。

 結局仄香は命令通りその場で小水を出したが、途中で恥ずかしくて泣いてしまった。その様子を尚弥がどんな目で見ているかが怖くて、終わるまで顔を上げることもできなかったのを覚えている。



 そんな不純なごっこ遊びに終止符を打つことになったのは、その二年後だ。

 小学四年生の頃、尚弥がM.Oの幹部に誘拐される事件があった。その事件の後しばらくしてから、尚弥から、「好きな奴ができたから奴隷ごっこはやめる」と突然言われた。クラスではほとんど男子とばかり一緒にいる尚弥に自分以外の女子との接点があるとは思えず動揺した。しかし、尚弥の様子を見ていればすぐに分かった。

 ――尚弥は茜に恋をしているのだと。

 茜を見る時の目が明らかに違う。愛おしそうに、大事なものを見るような目で見つめる。その上、茜と話す時だけ声がうわずっていたり顔を赤らめたりしていた。


(こういう反応、漫画で見たことある……)


 すぐにピンときた。


「尚弥は茜に恋してるの?」


 だから、茜もいる前で良かれと思って聞いてしまった。茜も尚弥のことを嫌いなわけではないはずだし、さっさと思いを伝えた方が進展するのではないかと思ったのだ。好きな人の名前までは聞けていないので、尚弥の口から真実を確かめたかったというのもある。


 ――しかし、その段階に踏み込むには早すぎたらしい。


 その質問をした直後、尚弥はみるみるうちに真っ赤になり、「んなわけねーだろ、こんなブス!」と言って走り去っていってしまった。容姿をダイレクトに悪く言われたのが初めてだったのか、茜は少しショックを受けていた様子だった。

 それ以来罪悪感で気まずくなったのか、尚弥は茜を避けるようになった。仄香の安易な質問のせいで尚弥の恋は散った。

 その後、仄香は尚弥にいじめられるようになった。仄香も尚弥に悪いことをしたという意識があるため言い返せなかった。言い返せないうちにいじめはエスカレートしていった。最初は尚弥一人からいじめられるだけだったのが、尚弥の周りの取り巻きまでもが仄香をいじめるようになった。元々紫の目が浮いていたこともあり、仄香は毎日悪口を言われ、否定され、物を隠され、暴力を振るわれ、自信を失っていった。


 そんな日々が続いて一年、休日に親に連れられて行った銀行で、たまたま居合わせた銀行強盗の人質にされた。

 あまりに不幸が重なりすぎて、今後の人生、自分にはもう不幸なことしか降りかからないのではないかと思った。

 毎日いじめられているのに、いいことなんて一つも起きない。幸と不幸が平等に来るなんて嘘だ。

 いっそここで、強盗が自分の頭に当てている拳銃の引き金を引いてくれたら楽になれるのにと、そう自暴自棄になっていた時だった。



 ――その斬撃は仄香の思考をも切り裂くような勢いで飛んできて、仄香を抱える強盗の首を直撃した。



 強盗の腕の力が緩み、仄香は地面へと落とされる。床に血が飛び散っていて、振り返るのが怖くて振り返らなかった。おそらく後ろには惨い光景が広がっているのだろうと思った。


「志波! お前何してんだ! 犯人殺す気か!」


 強盗から助けてくれた武塔峰の男子生徒――志波の後ろから怒声が聞こえる。彼らは異犯の警察で、勝手な行動を取った志波を叱っているようだった。


「殺してませんよ。ギリギリ生かしてます。でも放っておくと死ぬと思うので、治癒班呼んでください」

「っお前なぁ~~~! おい、お前ら、治癒班呼べ! 急げ! ったく、優秀だけど問題児すぎるぞ、志波」


 ぼうっと志波の方を見つめる仄香の方に母親が駆け寄ってきて、泣きながら仄香を抱き締めた。


「ごめんね、ごめんねぇっ……! ママが目を離したばっかりに……!」


 泣きじゃくる母親の涙でぐちゃぐちゃな顔を見て、死んだら楽になるなんて思ってはいけないと感じた。


「ありがとうございます。本当にありがとうございます……」


 母親は志波に何度も頭を下げてお礼を言うが、志波はそれを冷ややかな目で見ていた。まるで、何故そんなに泣いているのか理解できないとでも言うように。


「あ、あのっ」


 年上のお兄さんに何か言うのは怖かったが、仄香も、勇気を出して志波に話しかけた。



「私も貴方みたいな、強くてかっこいい異能力者になれますか?」



 ――仄香の志波への憧れは、その瞬間から始まった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る