奴隷ごっこ
気まずく思いながらも、研究室のパソコンを操作して学内の論文データベースにアクセスする。
「…………」
「…………」
お互いずっと無言だ。仄香の無機質なタイピング音だけが室内に響いている。
検索した後、パソコンから手を離してロード画面を眺めた。論文の量が莫大すぎて読み込むのに時間がかかっている。
――その時、隣の尚弥が仄香の手を取った。
「ぎゃあっ」
その手があまりに冷たくて悲鳴を上げる。
「え、な、何、どうしたの」
「寒いんだよ」
「……暖房の設定温度上げようか?」
「いい」
尚弥が無表情のまま仄香を見下ろしている。
その手はずっと仄香の手を握っていて離れない。
「…………」
「…………」
また無言の時間が流れる。
ロードが終了し、画面に論文のタイトル一覧が表示された。今回は日本語と英語に絞っているが、それでも量は多い。
「……尚弥」
「ん?」
「……ち……近くない?」
隣の尚弥と体が当たっている。どれだけ寒いんだと思った。
「やっぱり暖房の温度上げるよ」
「いいっつってんだろ」
尚弥の腕が腰に回ってきて仄香を引き寄せる。
「ゆ……湯たんぽ扱いしないでよ。動きづらいし」
「あ゛?」
「ひぃっ……! すみませんすみません何でもないです」
勇気を出して要求してみたが、どすの利いた声を出されるともう駄目だった。仄香は大人しく状況を受け入れて縮こまる。
「……お前さ」
しかしこの状態では手が塞がっていてうまくパソコンを操作できない、と葛藤していたその時、尚弥がぽつりと呟く。
至近距離で声が聞こえて少しどきりとした。――声変わりした後の尚弥の声を、こんなに近くで聞くのは初めてかもしれない。
「まだ志波さんのこと好きなの」
突然研究授業とは全く関係のない質問をされ戸惑う。
(……あ、そっか……今朝の通話の声聞かれてたんだっけ)
今朝、仄香は志波にまだ好きだと伝えた。志波や宵宮の本性を知っている尚弥からしたら信じられないことだろう。引かれることが予想されるので、おそるおそる答える。
「……うん。まだ志波先輩が好きだよ」
次の瞬間、尚弥はチッと舌打ちして仄香の髪を強引に掴んで顔を上げさせてきた。
「バカじゃねぇの? お前みたいなブスが振り向いてもらえると思ってんのかよ」
「い、痛い、」
「志波さんもいい迷惑だな。キモい陰キャ女にストーカーされて同情するわ」
「……ふ……ふっ、振り向いてもらえなくてもいいしっ。わ、私、志波先輩と恋仲になれるとかそんなことは一度も思ってなっ……」
「その喋り方もイライラすんだよ。キョドってんじゃねぇよカス」
髪を掴んでいた手を強引に離され、毛根に激痛が走る。
「――……何でお前、あいつしか見ねぇんだよ」
尚弥の声が不機嫌そのものになってきた。
こういう時反抗してはいけないことを仄香は知っている。ここで火に油を注いだらもっと酷いことをされる。耐えるのが最善だと、長年いじめを受けてきたからこそ理解している。
――『納得できない言い分には謝らなくていいんだよ……?』
でも、茜はそう言ってくれた。これから二月まで三人で一緒なのだ。いつまでも怯えていたら、茜に心配させてしまう。
「……っイライラするなら、関わらなければいいじゃん!」
声を張って言い返す。
「私のことが嫌いなら放っておいてよ。毎度毎度、いちいち突っかかってくるのは尚弥の方じゃん。いつまでも小学生みたいないじめして、恥ずかしくないの? ちょっとは大人になりなよ。それでも警察目指してる人間なの!」
「……あ?」
仄香の体がビクッと大げさに揺れる。尚弥が青筋を立てたからだ。
「む……昔のことは悪かったと思ってる。でも、謝ったし、いつまでもいつまでも尚弥に怯えて過ごすのはもう嫌だ……!」
目を瞑ってはっきりと言う。握った拳が震えているのを感じた。
怖い。怖い。怖い。これまでいじめられてきた記憶が頭に染み付いているから怖い。
尚弥が胸倉を掴んで引き寄せてきた。殴られると思って歯を食いしばる。
――しかし、実際には唇に何かがぶつかるような感覚がしただけだった。びっくりして目を開けると、間近に尚弥の顔がある。
(……え……)
キスしている。何かの間違いのような状況に思考が停止した。
薄く開いていた唇の間から舌が侵入してきた。生々しい生き物のような舌が口内で蠢き、逃げようとすれば後頚部を引き寄せて止められる。
幼なじみの小さな男の子だったはずの尚弥の腕は、いつの間にか仄香よりずっと逞しくなっていた。
「んっ……ふっ……」
長い。いつも乱暴なくせに絡み合う舌は優しくて、変になりそうな心地がする。思考がぼうっとしてきた時、ようやく尚弥の唇が離れていく。足の力が抜けて椅子に座り込んだ仄香を見下ろす尚弥は――冷たい目をしていた。
「〝昔のことは悪かったと思ってる〟? どうせ何も覚えてねぇくせに。他の男に夢中になって俺とのことなんか全部忘れてんだろ? クソ女、その程度の謝罪で済むと思ってんのかよ」
尚弥の声が孕んでいるのは、憎悪だ。
「俺の初めて全部奪って、俺の尊厳滅茶苦茶にして、弄んで、踏み躙って、挙げ句の果てには捨てたくせに」
呆然として尚弥を見上げる。
(尚弥が私を嫌ってるのは、私が茜の前で尚弥の気持ちについて聞いたせいじゃない……?)
思い当たる節がある。しかしそんなものは子供の頃のお遊びで、尚弥こそとっくの昔に忘れているものと思っていた。
「……尚弥……もしかして、〝奴隷ごっこ〟の話してる?」
仄香がおそるおそる問いかけると、尚弥の顔がカァッと赤くなる。
「ご、ごめん。私、尚弥が〝あのこと〟をそんなに気にしてるとは思ってなくて……ほ、ほら、あの時は子供だったからしていいことと悪いことの分別も付いてなかったでしょ? お互い……」
尚弥がガンッと仄香の横の椅子を蹴り飛ばした。椅子が大きな音を立てて倒れる。仄香は怯えて動けなくなった。
――その時、ガラリと音がして大量の図書を重ねて持った茜が部屋に入ってきた。
茜は重そうな本を持ったまま、仄香たちの方を見て戸惑いの表情を見せた。
「わ、わわ、二人ともどうしたの。この短時間で喧嘩したの……?」
何とか本を置いてから、あからさまに険悪ムードな仄香たちの間に入って仲裁しようとしてくる。
「仲良くしないと駄目だよ……?」
茜に言われては返す言葉がないのか、尚弥は黙って研究室から出ていった。一応授業中なのだがサボるつもりらしい。
茜が心配そうに出ていった尚弥の方向と仄香を交互に見つめる。
仄香は尚弥に蹴り飛ばされた椅子を直し、大きな溜め息を吐いた。
――〝奴隷ごっこ〟は、茜と入れ替わりごっこをする以前、もっと小さな子供だった時に尚弥としていた暇潰しの遊びである。
奴隷役と主人役を一週間ごとに入れ替え、奴隷役になった方は主人役の言うことを何でも聞くというルールがあった。何故そんなことを始めたのかよく覚えていないが、確か絵本の中に出てくる王様と召使いの設定に惹かれて始めた気がする。
思い返してみれば、当時の仄香は、尚弥に滅茶苦茶な命令を出していた。
一緒に寝なさいだとか、三回回ってワンしなさいだとか、女装しなさいだとか。尚弥とキスをしたのも奴隷ごっこの命令の中の一貫だった。
(そっか……尚弥からすれば、先にいじめたのは私の方なんだ)
奴隷ごっこでは尚弥も無抵抗だったのでいいのだと思って続行してしまっていた。しかし、実は相当嫌がっていたのだろう。
尚弥が執拗に仄香をいじめるのはその時の報復ということになる。
「尚弥とちゃんと話して謝らなきゃ……」
仄香は義務感に駆られた。
謝罪の必要性を感じるとはいえ、今の尚弥はすぐに怒る。理性的な対話ができるとは思えない。どうしたものか……。
午後はモヤモヤした気持ちを抱えたまま、茜と二人で参考になりそうな論文を厳選していくことになった。
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