無言のやり取り
「おねえちゃんも。納得できない言い分には謝らなくていいんだよ……?」
「う、うん。ありがとう」
尚弥に対してはどうも謝る癖が付いている。そこを妹に指摘され、少し気まずい気持ちになった。
尚弥はちっと舌打ちして珈琲を飲み干す。やはり茜には弱いらしい。いつもならネチネチ言ってくるくせに、茜の一度の注意で収まるとは。
「とにかく、向こうは監視はできてないっていう仮説を立てて、今後この件に関しては筆談で話そう……。端末のメッセージのやり取りくらい異犯の人間ならハッキングできそうだし、メッセージは念のため使わないようにして……」
「……あの、茜。その前に……。尚弥の言う通り危険なのは間違いないから、しばらくは一人にならないでほしい」
茜は仄香の言葉を聞いて、ぽっと嬉しそうに頬を染める。
「おねえちゃん、わたしのこと心配してくれるんだ……」
「そりゃ心配だよ。相手はあの志波先輩たちなんだから」
「大丈夫……。わたし、毎日寮と研究室を行ったり来たりしてるだけだし。この研究室にいれば、化学兵器くらいなら即席で作れるから……」
「か、化学兵器を即席で……」
夢で見た咲が叫んでいたケミカルテロという単語を思い出す。あれもいずれ起こることであるというなら、未然に防がなければならない。そのためにも、化学的な知識のある茜に現状を打ち明けられたのは大きいだろう。
「明日からは研究室配属が始まって、尚弥とおねえちゃんと一緒にいることが多くなるわけだし。きっと大丈夫だよ……」
すっかり頭から抜けていたが、いよいよ尚弥と一緒の授業が始まる。ちらりと尚弥を見れば、案の定機嫌が悪そうだ。
複雑な心境の仄香に、茜はにっこりと花のように笑って言う。
「楽しみだね、おねえちゃん」
この組み合わせはかなり不安だ、とは言えなかった。
◆
制服を着て寮に帰った後は、ずっとビクビクしていた。先に戻ってきていた咲が「あんた顔色悪くない?」と心配してきた程だ。
しかし、次の日の朝を迎えても、宵宮からの連絡は何も来なかった。
まだ油断はできないが、鞄や財布に付着していたあの物体を介して盗聴しているという読みは当たっているのかもしれない。
ひとまずほっとしながら学校へ向かった仄香の端末が震える。画面には、〝志波高秋〟という名前が表示されていた。
(な……何で? やっぱり茜たちに明かしたのがバレた? これから殺しに行くっていう連絡なんじゃ……)
血の気が引く。悪い方向にばかり考えてしまう。
人気のない廊下に出てから震える指で画面をタップし、電話に出た。
「も……もしもし……」
『俺だ』
か細い声で受けた仄香に対し、また詐欺かと思うような自己紹介をしてくる志波。
心臓がバクバクとうるさい。いつもなら恋によるバクバクなのだが、今は双子の妹の命が危ない状態によって生じる嫌なバクバクだ。
しかし、志波から次に出てきた言葉は仄香の予想したどの質問とも違っていた。
『何故手紙を送ってこない?』
「……はい?」
『もう月末だが』
仄香はフリーズした。
(……手紙?)
何の手紙かと思考を巡らせるが、仄香と志波の間の共通言語としての手紙など、仄香が毎月送っていたファンレターしかない。
(まさか、ファンレターの催促?)
それも意味が分からない。答えられずにいる仄香に、志波が再度質問をした。
『俺のことが嫌いになったか?』
「そんな! まさか!」
その否定は驚く程簡単に口から出てきた。
やはり志波が嫌いになったわけではないのだと自覚する。
「ファンレターのこと……ですかね?」
『ああ』
「すみません、最近ずっと別のことで気を張ってて、すっかり……」
忘れていたというわけではないのだが、あんなことがあった後にどんな文面の手紙を送っていいかも分からなかった。
『――その程度の気持ちだったということか』
突然志波の声が冷ややかになったため、ぶわっと汗が溢れた。
「ち、ちが……違う、違います」
『何が違う? 君は結局、俺に理想を押し付けて、その理想に憧れを抱いていただけだろ』
未来視で見た未来で言われたことと、ほぼ同じ台詞だ。
そうかもしれない。そんな人だと思っていなかったのは事実だ。けれど。
「私まだ、志波先輩が、好きです」
――嫌いになろうとしてもなれなかった。
「例えサイコパスだったとしても、私にとってはヒーローです」
咲を殺されるのも連続殺人事件が起こるのもテロ事件が起こるのも嫌なのに、志波を好きなのはやめられない。イカれている。宵宮の言う通りだ。
電話の向こうで、ふっと柔らかく笑う声が聞こえた。
『放課後、迎えに行く』
ただそれだけの言葉を残して、通話は切られた。
「…………」
しばらくぼんやりと端末の画面を見つめた。
罠だったらどうしようという不安な気持ちで胸がいっぱいになる。志波は仄香の恋心を利用しておびき寄せ、殺すつもりかもしれない。
ただ、これで死んだとしても、以前までとは状況が違うというのが唯一の安心材料だ。仄香よりもずっと優秀な尚弥と茜も今は志波たちの裏切りについて知っている。仄香が死ねば彼らは志波たちを疑ってくれるだろう。
(死なないのが一番だけど……)
今日は午前中が座学で、午後からが研究授業だ。研究室へ行く時に一応茜たちに志波に会いに行くことを伝えておこうと思った。
いつの間にか一時間目が始まる時刻が近付いており、慌てて教室に入ろうとした時、以前卵を投げつけてきたいじめっ子たちと鉢合わせた。
彼女たちは少し鬱陶しそうに仄香に視線を向けた後、何も言わずに教室へ入っていく。あれからずっとこの調子だ。仄香への嫌悪はなくなっていないようだが、手は出してこない。尚弥に怒られたのが相当堪えたのだろう。
「お~い、さっさと席に着けー。チャイム鳴る前に席にいないと遅刻扱いにするぞー」
一時間目の数学教師の声を聞いて、ギリギリで登校してきた生徒たちが走って席に着く。仄香も急いで自分の席に腰を下ろした。
授業が始まり、問題を解いていると、頭に何かがぶつかって落ちた。丸められた紙だ。
誰に投げられたのだろうと後ろを振り返る。どうやら尚弥が投げた紙のようだった。
紙を開いて中を見る。
〝さっき誰と話してた?〟
廊下で通話していたのが教室の中まで聞こえていたらしい。
昨日茜と話し合って、志波の件については筆談で話すことになっている。仄香は自分のメモ用紙を机から出して、〝志波先輩だよ。今日の放課後迎えに来るって言われた〟と書いてこっそり尚弥の方に投げた。尚弥とは少し席が離れているので渡しづらい。
気を取り直して授業に集中しようとしていると、また丸めた紙を頭にぶつけられる。
〝行く気か?〟
〝うん〟
〝断れ〟
少し悩んだ後、メモに今の気持ちを書いた。
〝私は未来を変えるために志波先輩たちのことが知りたい〟
何度も紙を投げ合っているため、周囲の生徒たちから何やってんだこいつらというような目で見られた。
「紫雨華~伊緒坂~そんなに余裕なら前来て大問一と二を解いてくれ~」
教卓の向こうの数学教師に苦笑いしながら言われてハッとした。仄香たちが何度もやり取りしている様子は教師から丸分かりだったらしい。
尚弥が怠そうに立ち上がって黒板へ向かうので、仄香もひとまず前へ向かう。
(し、しまった……この問題、解き方分からないかも)
仄香が教科書を見ながら焦っているうちに、隣に立つ尚弥はすらすらと黒板に計算式を書いて解答を出す。
さっきまで授業を聞いていなかったくせに、こんな難しい問題が何故分かるんだという気持ちで見上げる。尚弥も横目に仄香を見てきた。
「これくらい分かんねぇのかよ。バカが」
数学教師に聞こえない程度の声で罵られる。落ち込む仄香の教科書の上に尚弥のノートが置かれた。尚弥はそのまま自分の席へ戻っていく。
尚弥のノートには、仄香が当てられた大問一の解答が計算過程も含めてしっかり書いてあった。
(あ、そっか……ここってこう考えるんだ)
途中まで目を通して理解した仄香は、急いで黒板に解答を書く。
「おー、どっちも正解だ。正解だけど授業はよく聞けよ~」
数学教師が黒板に丸を付ける。
仄香は席に戻る前にこっそり尚弥にノートを返し、小声で「ありがとう」と言った。
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