誰にも言えない



 どうして尚弥がここに来ようとしているのか分からない。はっとしてポケットの中に入れていた端末を出すと、咲から時間を開けて何度かメッセージが来ていた。


『大丈夫?』『寮監来たけど、誤魔化しておいたから』『なんか尚弥くんが外泊許可取れたみたいで、そっち向かってたわよ』


 尚弥は確か、年の離れた姉が異犯にいる。姉から許可証をもらえばこの寮にも入ってこられるだろう。


「――ほのぴ、呼んだ? あいつのこと」


 宵宮が冷たい目で見てくるのでブンブンと首を横に振る。


「ち、違います。よく分かんないけど、彼は何も知らないので、来ても手出しするのはやめてください」

「ふ、僕らのこと何だと思ってるの? 可愛い後輩に手出しなんてしないよ。日本の未来を担う優秀な能力者を僕が殺すわけないでしょ」


 そんな会話をしている間にも、呼び鈴が鳴り続ける。その間隔はどんどん短くなっていき、何度も何度も鳴らされる。

 うるさく思ったらしい宵宮がちっと舌打ちして「開けるかぁ」とフロアのドアの解錠のボタンを押した。

 そして、玄関の方に向かっていく。仄香は宵宮の手出ししないという発言を信じていいのか迷いながらその場に立ち尽くした。


「はーい、こんばんは。なおやん、どうしたの~?」

「返してもらえますか」


 ドア越しに尚弥の声が聞こえる。


「仄香。ここにいるんスよね」


 心臓からばくばくと音が聞こえるような気がする。

 足が竦んで動けない。でも、逃げるなら今しかない。


「あ~、そうだね。今日はちょっと預かってるけど、すぐ返すから」

「今返してください」


 はぁっはぁっと緊張で呼吸が荒くなってきた。


「……何で? 何か用事だった?」

「寮監に見つかったんで、迎えに来ました」


 ――何故だろう。尚弥と一緒なら逃げ切れると思った。


 仄香はドアを勢いよく開けて玄関に走る。驚いた顔をする宵宮の前を裸足のまま通り過ぎ、体当たりするように尚弥に向かって飛び込んだ。


「帰ります! 私!」


 尚弥の手を引っ張って、部屋の外に飛び出る。

 突然走り出した仄香に、尚弥の「はァ?」という困惑している声が聞こえた。尚弥の手を掴んだままフロアのドアを突っ切り、エレベーターの中に入ってすぐに閉じるボタンを連打する。エレベーターのドアがゆっくりと閉まり、安堵した仄香はずるずると床に座り込んだ。


「……お前、何なの」

「……ごめん。尚弥こそ、何でここに?」

「寮監がうるせぇから迎えに来たんだよ」

「嘘。寮監は咲が誤魔化してくれたって連絡来てた」


 尚弥が舌打ちを打つ。いつもなら怖いその音も、あんな恐ろしい経験をした後では少しも怖くなかった。


「……私のこと、心配してくれたとか?」

「あ゛?」

「あっ、いや、ごめん、嘘。自意識過剰でした」


 ぎろりと睨み付けられて縮こまる。

 我ながら何を馬鹿なことを言っているのかと反省した。尚弥に限ってそんなはずがない。尚弥は自分のことが大嫌いなのだから。


 エレベーターが一階に到着する。座り込んでいた仄香は立ち上がった。

 一階で志波たちが待ち構えていたらどうしようという不安があったが、その予想は外れていた。

 さすがに追ってはこないらしい。既に仄香の弱みは握れたのだから、追う必要もないと判断したのだろう。

 大きな溜め息を吐きながら寮を出て、入口で許可証を返却する。

 異犯の本部施設を出た後、振り返ってその高さをもう一度見た。都心の一角に聳え立つ、この国の異能力犯罪を取り締まる重要機関。その機関の内部に裏切り者が二人いることを、仄香は今日知ってしまった。


 手のひらを広げて、自分の手を見る。まだ震えている。まだあの感触がここにある気がする。生々しい犬の死体の姿がフラッシュバックしそうになったその時、尚弥が乱暴に仄香の手を握って歩き出した。


「何かあったのかよ」


 前を歩く尚弥は進行方向を向いていて、その表情は見えない。


「……別に。何もないよ」

「その青い顔で何もなかったっつー方がおかしいんだわ、ボケ」

「…………」


 会話は宵宮に聞かれている。ここで尚弥に暴露すれば、尚弥まで巻き込まれることになる。

 それに――『証拠もないし、ほのぴの言う事なんて誰も信じてくれないと思うけど』――宵宮に言われた言葉が脳裏を過ぎった。宵宮の言う通りだ。こんなこと、尚弥に言ったって信じてもらえないだろう。


「何もないってば」


 泣きそうな声が口から出た。


「……そーかよ」


 おそらく納得はしていないのだろうが、尚弥はそれ以上何も聞かずにいてくれた。



 ◆


 終電はもうなくて、結局タクシーで寮まで帰った。

 寮の門がもう閉まっていたため、こっそり咲に迎えに来てもらって瞬間移動で入らせてもらった。

 尚弥はその後すぐに男子寮の方に行ってしまって、お礼もろくに言えないままだった。


 部屋に向かう途中、今日あったことがぐるぐる頭の中を回って気持ち悪くなった。そんな仄香の心情など知らない隣の咲が面白そうに聞いてくる。


「ねえ、尚弥くんって仄香のこと好きなの? あたしずっと尚弥くんと仄香、仲悪いもんだと思ってたんだけど。そんな感じだったなら言ってよ。そういや幼馴染みなんだっけ?」

「いや……尚弥は私のこと嫌いだよ。何で?」

「今夜仄香が志波さんのとこに泊まるかもしれないって言ったら、あからさまに不機嫌になって『連れ戻す』とか言って外泊許可取りに行ったから、てっきり嫉妬かと思ったわ」

「そういうんじゃないと思う」


 尚弥が何故来たのかは仄香にも分からない。

 けれど、尚弥が好きなのは茜だ。


「ふう~ん? まぁ、いいけど。で、志波さんとは何もなかったの?」

「……ないよ」

「てか、何の用事だったの? 仄香だけ連れて行かれるなんて、ちょっと心配だったんだけど」

「……未来視についてちょっと聞かれただけ」

「ああ! 成る程ね!? そうよね、未来視なんてレア能力、見逃せないわよね! さすが異犯のエースだわ、目の付け所が違う!」


 未来視の話になると分かりやすくテンションが上がる咲がおかしくて、少しだけ笑えた。その直後、犬の死体の光景が頭に浮かんでまた笑えなくなる。


「……仄香、今日元気ない?」


 さすがに仄香の異変に気付いたらしい咲が心配そうに顔色を窺ってくる。


「……ううん。ちょっと眠くて。私シャワー浴びてくるから、先に寝てていいよ」


 作り笑いしながらそう答えて、咲と別れシャワールームに向かった。

 脱衣所で服を脱いで籠に入れ、ふと端末を確認すると、そこには〝宵宮千遥〟という名前と、一件のメッセージが表示されていた。


『ちゃんと秘密にできていい子だね』


 ぞっとした。やはり聞かれている。

 怖くて端末を服の下に埋め、走ってシャワールームに入る。頭の上から水を浴びながら、排水溝に流れていく水を見下ろして思った。


 ――誰にも言えないのって、苦しい。




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