Episode 最後の挨拶


 葉月はもうずっと前からデイバに対抗する武器の研究と開発を続けてきたの。クリプティッドである自分の身体にも、ジャナンの身体にも効果的な武器がひとつだけある。それがデイバに通じるのか確信はないが今はもう、その作戦にすがるしかない。作戦がうまくいけば、生き延びられる。失敗すれば、絶命する。葉月は永い人生の中で初めて本気になって作戦指示を送らなければならなくなったわ。


「総員、作戦コードCHへの移行準備を行うように。もう、この本部に戻ることは期待しなくてよい。必要最低限の仕事が出来る道具だけを持って至急、ホロコーストまで移動しなさい。二十分後にはイーペルの噴射を始める予定だ。」

 

クリプジオンすべての職員に避難命令を出した直後、今度は総理官邸に連絡を入れなければならない。

 電話の向こうの総理大臣は現場でなにが起こっているのか報告するように葉月に求めた。防衛省からも44分前に高エネルギー反応を確認したとの連絡が入っている。

「申し訳ありません。我が軍で所有していた一体のジャナンは死滅し、もう一体はデイバと化したと考えます。現状は未確認規則の第三十九条に該当する危機にあたると思われます。防衛省で確認された高エネルギー反応はおそらくデイバのもので間違いありません。デイバの次の狙いはおそらくクリプティッドであるわたしでしょう。我が軍の被害を最低限に抑え、確実にデイバを死滅させる為にも四十七条に則りコードCHの遂行の許可を頂きたく存じます。」

 

総理大臣はデイバの恐ろしさなど分かっていない。この日本という国に甚大な被害をもたらすものだと理解してはいないが、クリプジオンを失うわけにはいかない。葉月の声と口調で日本という国の危機であると判断したのだろう。未確認規則の四十七条に従いコードCHの発動を許可したわ。

 

未確認規則とは日本国防衛省の定める「未確認危険生物の排除及び保管を定める規則」の略称である。未確認危険生物を発見した場合には防衛省の判断に従い、その対応方法を防衛省に一任するといった内容の規則であるが、第四十七条では未確認危険生物を緊急に駆除、撤退させる為には軍隊が直接総理大臣の指示を得て、緊急措置をとることを認めている。この防衛省規則の対象になるものは実質「もの」かクリプティッドしかないわけだが、ひとつの組織を動かす為には、力のある政治家の許可を得なければならないという手続きを重要視するのはこの国の特徴だ。

 

クリプジオンの職員は我先にと本部を抜け出し、本部から五キロ程離れたホロコーストへと移動を開始した。決してデイバの侵入を怖れていただけではない。デイバを駆除する為の作戦を円滑に行う為に彼等は本部を捨てるの。ホロコーストにも本部と遜色のない設備が整っている。彼等はクリプジオン本部が壊滅した後でも、デイバを殲滅するという任務を果たす為に移動するのよ。

 

国を危機から守りたいとねがっているもの。実はそう多くはない。葉月はこの世の浄土化が最大の目的であったし、ケイコはジャナンと、ものという生命体に魅せられただけだった。クリプジオン本部に勤務する人は五十名だったが、ここに危機が迫っていると判断して逃げ出すものは五名しかいなかった。残りのものはおにのようになってしまった利里を殺す為にホロコーストに移動して、それぞれの任務を再開した。彼等こそ国と民を守ろうとする真の勇者ではないかしら。だって何の見返りもないのよ。国や民を救って当然。失敗すれば処罰を受けることもある。なぜ、そんな仕事を選んだのかあたしは疑問に思う。

 おそらく回答はみな一緒なのでしょうね。彼等と同じ国に生まれてきたことはあたしの数少ない幸福だったと思うわ。


だが、葉月の思惑はまったく違っていた。デイバが狙うのは自分の命だけである。おそらくそれ以外の人には興味も示さないだろう。だから自分と職員を分離する必要があるのだ。ホロコーストは本部に変わる指令基地でなくてもよいのだ。職員が危険を少しでも回避出来る場所であればよい。

 葉月はこれまで人を人と思わないような残酷な仕打ちをすることもあったが、今回だけは違う。ひとりでも多くの人の命を救うために懸命なの。クリプティッドでも人でも最期はそういう情緒になるものよ。


 あと三分もすればデイバは葉月の元へ辿り着くだろう。準備は万端でなくてはならない。葉月はイーペルの噴射を始めた。それだけの時間があれば、デイバがここに到着するまでに本部内の空気はすべてイーペルに置換される。デイバが戦闘においては己よりずっと優れているのは知っている。だが、毒性のガスに対してはどうなのだろう。イーペルという毒性ガスは非常に小さな分子であり浸透性が高いので生きものの内部に侵入しやすい。貯蔵する為には非常に高価なランニングコストがかかり、危険性も高いガスであるが「もの」やヒトやヒトに唯一、人の力で対抗する可能性を秘めた兵器としてクリプジオンで製造、貯蔵を行っていたわ。


 葉月の作戦は非常に簡単なものである。クリプジオン本部の三重の扉を完全に密閉してそこにイーペルを充満させる。九十九点九九九パーセントまでその濃度を上げて、十分程、デイバをその雰囲気に閉じ込める。強力な毒性ガスの力を使って、デイバの体内の蛋白質やDNAの窒素と反応させて、細胞分裂の阻害を引き起こし皮膚や粘膜を損傷させる。即効でデイバの身体を痛めつけられれば最善なのだが、イーペルには発癌に関する遺伝子を傷付ける特徴もあるのよ。少し長い時間がかかってもデイバを傷付け、殺すだけの力を持っているはずと考えていたわ。

 

葉月はデイバという存在を知りながらも、それと対峙するのは初めてのこと。この世にどれだけの影響を与えるのかも知らないが、よくない働きをすることは容易に想像出来る。だから、葉月が生きているうちに滅してしまいたいの。もう、この世を浄土化するという望みは叶わない。それならばせめてデイバを処理するくらいは実行しなければならない。彼女は間違いなくこの世を愛していたのだから、そう願うのは真に必然なことなのよ。


 葉月はクリプジオン本部の最深部でデイバを待ち受けた。彼女の力でデイバを倒すことなど考えてはいない。可能な限り長い時間デイバをイーペルの雰囲気の中に浸からせることだけが目標である。


どうやらデイバはクリプジオンに辿り着いたようだ。そして、入り口の蓋を破壊してイーペルで満たされた本部に潜った。無暗に穴を掘って侵入する様子はない。葉月のいる所に繋がる入り口が間違いなくあるだろうと推察する知能は持ち合わせているようだ。

 デイバがクリプジオン本部内に侵入してきたことは、エネルギー反応をホロコーストの遠隔モニターで観察している職員にもすぐに確認出来た。

デイバの侵入をホロコーストで確認した直後、基地管理担当部長から葉月へ連絡が入った。

「本部内のイーペルの濃度九十九点九パーセントを確認。目標が総司令の居る場所に辿り着くまであと二十秒と推測。それまでにイーペル濃度は九十九点九九九まで上昇する予定です。葉月総司令。そこから離れてください。イーペルをこれ以上の濃度に上げると防御服を着用していても危険になります。イーペルの噴射により視界はかなり悪くなります。目標が総司令であってもデイバがすぐにあなたを探し出すことは不可能だと考えます。総司令のいる第二十四会議室の近くに八十八ゲートがあります。そこから外部へ脱出して下さい。」

 組織の責任者としての葉月を救出したいのか、男が女に抱く感情なのかは分からないが基地管理担当部長は大声で葉月に脱出を促した。

「ありがとう、鈴木君。でも、わたしはここを離れることは出来ないわ。デイバの目標はあくまでわたしなの。わたしがクリプティッドであるからなのか、これまで命を懸けた戦いを強要をしてきた利里の怒りなのかははっきりしないけれどね。わたしがここを離れてもすぐにデイバはわたしの位置を確認して追ってくるでしょう。わたしは、これまで色々な命を弄んできたけど、どうやらつけがまわってきたみたいね。もう、他の誰かを巻き込むことなんて許されないの。わたしはサトバを愛していたつもりよ。だけど、望む結果に導くことは能わなかった。せめてデイバを殲滅させる道具として扱って頂戴。デイバを五分以上、ファイブNの濃度の雰囲気に晒してもエネルギー反応が減少しなければここを爆破して頂戴。殺すことは能わなくても生き埋めくらいには出来るかもしれないわ。わたしのいなくなった後には鈴木君が総司令になりなさい。あなたはその資格も権利も持っているわ。」

 クリプジオンには葉月に魅せられた者が意外と多い。美しい蒼の瞳と髪の色、どれだけ歳月が過ぎようとも歳をとらない可憐で華奢な容姿。冷静であるときが多いが、ときには飛び跳ねる程喜びの笑顔をする表情は幼くて明るくて可愛らしかった。なにを考えているのかは人には想像もつかないでしょうが、すべてのサトバを愛しているということは伝わっていたの。

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