Episode 15 鰯

 食欲とはなに。腹を膨らませること。咀嚼すること。喉になにかを通すこと。栄養をとること。どれも正しいし、どれも間違っている。数日間なにも口にしていない人はそのすべてを求めるでしょう。だけど、この国の多くの人はそこまで困窮はしていない。喰おうと思えば一日三食喰えるでしょう。だから腹を膨らませることにも、咀嚼することにも興味がない。ただ栄養だけは摂らなければならない。その為だけに、時間を費やして料理を作るのはバカらしい。それなりの金を払うこともバカらしい。だから人は究極の栄養剤を造った。それに慣れてくると食欲が消えていった。

 

あたしはそんな人達をバカらしいと思う。食事という日常の瑣事を愛することが出来なくなってしまえば日々は潤いのないものになるということになぜ気が付かなかったのだろう。


 日曜日。期待する日。利里は鏡の前に座って化粧をしていた。今日なら翔と付き合ってやってもいいか。あんな男と出かける為に化粧をするのなんてアホ臭いとも思ったが、今日くらいは翔の期待に応えてやろうとしたのね。翔に期待されるのも、好かれるのも嫌いではなくなったのね。

 

翔の部屋の呼び鈴を鳴らすとすぐにドアが開いた。飛び出してきた翔はいつもより少しだけ洒落た格好をしている。ずっと利里がいつくるものかと待ち構えていたのでしょうね。ネクタイまで巻こうとしていたが、恥ずかしいからそれだけはやめてくれと利里に言われて諦めた。


ふたりは電車に乗って池袋にある大きな水族館に向かう。道中で翔は利里の気分を盛り上げる為に色々な話をするのだが、利里は笑わない。ふたりはジャナンと「もの」についてしかこれまで話したことはないのだもの。翔は自然に振る舞っているが、利里は翔の日常なんかに興味がない。「もの」が唯一ふたりの共通の話題になり得るのだが、いくら興味を引きたくても翔は今日だけは戦いについては触れたくない。

 

水族館に入った利里は随分長く、大量の鰯と大きな鮫の入った水槽をぼんやりと眺めている。利里は魚が好きなのだろうか。それとももっと違うことを考えているのだろうか。

「人はバカね。動物や魚を食べてはいけないと言いながら、それらを鑑賞するための施設にはなんの規制も設けない。食べる為に殺すことを禁じるくせに、娯楽の為に魚を飼う。ここにいる魚はみんな人に殺されたのと同じだわ。」

 翔は恐る恐る尋ねた。なんだか怖くて利里の顔を直視出来ない。

「利里は人が動物を食べることに抵抗がある?」

「別に抵抗はないわ。ただ、すすんで食べたいとは思わないけどね。あんな生臭い血の匂いがするものなんて。食べてもいいと言われても多分食べないわ。食べなさいと言われれば食べるだけよ。」

「食べることは悪だとは思わないの?」

「そんなことあるわけないじゃない。人以外の生きものはみんな命を食べていきているわ。それが自然なのよ。人は異常なのよ。きっと生きものを食べていないからその有難みも分からないのでしょう。だから殺人という痴態を演じるのでしょう。」

「そっか。強いんだな、利里は。僕にはそんなこと言えないや。」

 頼りない翔の態度に利里は思わずカーッとなった。

「あなたねえ。あの神谷啓の息子でしょ。お父さんからなにを教わってきたの。神谷啓の息子ならもっと堂々として動物を食べると言いなさいよ。ここで、わたしの目の前で宣言してみなさいよ。」

 周りの人の視線がふたりに集まるが、利里はなにも気にならない。翔は随分肩身の狭い思いをしたわ。

「そんなこと言えないよ。だってお父さんが生きていた頃はみんなが僕等を応援してくれたのに、お父さんがいなくなってからは僕等は生臭いと言われて遠ざけられてきたのだもの。お父さんが亡くなってからは動物なんて食べていないよ。だって、みんなに嫌われるんだし。」

 利里は神谷啓のことをよく知っていた。学校の授業でも取り上げられる人物だったし、個人的にもとても興味がある人だったので神谷啓の本をたくさん読んでいた。

神谷啓のことを実は尊敬していた。自分も動植物から栄養をとって生きていきたいと思っていた。だが、神谷啓は死んでしまったし、息子がこんな男だから神谷啓の教えに魅力を感じなくなっていたのね。

「あなた情けなくないの。あんなに立派な父親がいたのに、ぐずぐずと弱音ばかり吐いていて。自分の意思を持って生きていこうと思わないの。情けない。」

 翔は利里にはっきり聞こえないような小さな声で返事をした。

「だって。仕方ないじゃないか。お母さんだってもう肉は食べられないのだって諦めているのだし。」

また、人のせいにする。静かな水族館に響き渡るような大声で利里は怒鳴った。

「どうしてあなたがお母さんを守ってあげないのよ。どうして自分で考えて、考えた通りに動けないのよ。男でしょ。あなたのそんな弱いところが大嫌い。あなたはいつも語尾に「だし。」って付けるじゃない。自分で能えることの不可能なことに適当な理由を付ける癖が言葉にも現れているのよ。なぜ「そうだ。」って言いきれないの。バカみたい。」

「努力しているよ。だけど、まだ誰にも認められないだけだよ。ジャナンレッドとして、ものと戦っているのは、あの神谷啓の息子だってみんなに知って貰いたいよ。いつか、お父さんの主張を僕が語っても笑われないようなおとなになる為の努力はしているんだ。」

 はじめて翔が大声を出すところを聞いたわ。拳を強く握ってはいたけど、相変わらず俯いたままだったけどね。そうね、翔にも目的があってジャナンになっているのよね。それは利里と同じ。それを表現するのが下手だし、敢えて声に出すべきではないと思っているのでしょう。それも利里と同じ。

「僕だっていつか必ず人は肉を喰うべき生きものだって世間に大声で語れるようになってみせるさ。今、出来なくてもいいじゃないか。その為にきちんと努力しているんだから。だから僕を褒めてよ。認めてよ。」

 主張というよりだだにしか聞こえないが、本気なのは伝わったようだわ。そうだ。翔だってただの弱虫ではないのだ。利里はそう感じたが、彼女はまだおとこのこを受け容れる方法というものを知らないのね。

「バカね。人に認めて貰ってからでないと自分の意見を言えないなんて。言いたいことがあるならはっきり言えばいいじゃない。その声が正しければ必ず人はついてくるものよ。あなたはただ、人に認めて貰いたい、見て貰いたいと甘えている幼いこどもだわ。」

 翔は大きな声で本音を言ったことを後悔した。勇気を出して自分の主張を口にしたつもりだったのに。いつか利里に話すときがくるだろうと準備しておいた上手な口舌なをするつもりだったのにね。

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