Episode 0.9 

 思想を持つもの。思想を失うもの。どちらも特別ではない。思想を支持してくれるものがいれば、声を大にして訴える。支持してくれるものがいなくなれば、声は小さくなる。思想とは個人のものではない。多くのものと共有して初めて価値があるもの。だけど、人の心とはとても危ういもの。思想は引き継がれるが、それは正しく引き継げることは少ない。受け取るものの個人的な思想の中にちょっとだけ紛れる程度。人の理想を正確に受け継ぐことは能わない。己の欲求を満たすことを後押ししてくれるものが欲しいだけ。求めているのは思想そのものではないの。背中を押してくれる人がいればそれだけでよい。そして、そんな人は永久に存在しなくてもよい。自分の理想とかけ離れてしまうなら、いっそのこと思想家には死んで貰った方がよいの。心配しなくても声の大き過ぎる人は長くは生きないわ。その声を求めるものより、不愉快に思うものの方が多いのだから。


 時代に必要とされた男。クリプジオンの初代の総司令は岩城ダイスケと言う男に任された。彼を推薦したのは当時日本と言う国を代表する政治家であった佐藤豊という老人。佐藤が大学教授を務めていたときに、熱心に心理学を学んでいたのが岩城ダイスケだったの。ダイスケは佐藤豊を心から尊敬して、彼の役に立ちたいと願っていた為、クリプジオンが軍事組織であることなどなにも気にせずにその重責に就いたわ。クリプジオンの所長に任命される前はダイスケも佐藤と同じように大学の助教授として教鞭を取っていた。しかし、大学での彼の評判はあまりよくなかったみたいね。食欲を封印する為に性欲や睡眠欲を解放することをよしとする思想は極端で危険であると評価されていたの。

 

思想の老化。脳の劣化。ダイスケにクリプジオンを任せた後、しばらくしてから佐藤はもう生きものを喰うなという思想を捨てていた。喰いたければ喰うがいいと言っていたわ。教壇の上に立っていた頃の佐藤は決してそんなことは言わなかった。人の食欲を満たす為だけの理由で殺生を行うのは人のあるべき姿ではないと説いていたのに。佐藤自身もこの頃には動物も植物も喰っていたらしいわ。食の欲求を抑え込むことが出来なくなり、そうすることが人間のあるべき姿だと考えるようになったみたい。夢中になって学生達に教えを伝えていた頃にはまったくそんな気分にはならなかったのだが、理念を受け容れ、賛同してくれる者がいなくなってからは、崇高だと思っていた哲学が下らないものに思えたのでしょう。所詮は理念を貫き通す程の男ではなかったのでしょう。

 

ダイスケは佐藤が歳をとって弱気になってしまったのだろうと受けとめた。佐藤の代わりとなって人が生きものを喰うことを悪行だと唱える為に教壇に立ったの。本もたくさん書いた。日本政府もその理念に強く賛同した為、ほとんどの日本人がその通りだと彼を支持した。ディージアには多くの人が集まるようになったわ。そこで働きたいという者、教えを説いて欲しいと願う者。生きものを喰っているが、その悪癖を絶ちたいので治療して欲しいと望むもの。

 

ダイスケとディージアはニヴェーラという生きものを喰うことに依存している者を治療する施設を造ることにした。

 ニヴェーラの仕事はそれだけではなかった。クレイシアの研究開発部門としての役割も彼等の大切な仕事だった。人に必要な栄養素を供給する薬を開発するにはかなりの労力が必要だった。なにより困難だったのは人に満足感を与えること。人は充分な栄養を摂取するだけで満足するわけではない。満腹感というものが必要なのだ。それに研究開発には犠牲もたくさん必要とした。栄養は摂取しても満腹感を得られないものはみな、少しずつ脳が腐敗していくことが実験で判明した。満腹感を与えるように工夫を凝らすと、人々は醜く太っていった。 

ニヴェーラがどんな実験をしたのかは、あたしには怖ろしすぎて詳しく口に出来ない。

 

政治と思想と金。政府は積極的に巨額の金を投資したわ。岩城ダイスケとは今やどんな政治家よりも人気も影響力もあったからね。だから政治家はダイスケに金を渡して特定の政党を応援するように頭を下げた。

 理想。思想。狂気。あまりに世界が自分の想い通りになっていくと狂ってくるものね。


ダイスケは思想家から政治を利用する悪党に変わりつつあった。政治家に金を求めるわけではない。ただ、政策で応えてくれればよいのだ。生きものを食するものを処罰する為の法律を成立させたかったの。さらに性欲や睡眠欲を満たす為に性風俗の規制や睡眠薬の処方に関する規制を緩和させたかった。

 人の命すら軽視する人。人の命を軽視する人。出る杭は必ず打たれる。徐々にダイスケは政府の老人達にとって煩わしい存在になっていた。しかし、この時代には老人達にとってダイスケよりも不愉快な男が存在した。それが肉や植物を喰うことこそ人らしいと唱える神谷啓。ダイスケは啓をこの手で殺しても構わないと老人達に名乗り出た。もちろん老人達は手を叩いて悦んだわ。老人達にとってはふたりが相打ちすることが理想だったのだけど。ダイスケに仕事を依頼したときの老人達の顔を思い浮かべることが出来るかしら。とても気味の悪い笑顔をしていたわ。笑顔と呼ぶには抵抗があるくらいにね。あれは下衆にしか出来ない醜い微笑というやつだわ。ダイスケは殺しを行うからには今後の保身と多額の金を政府に要求したが、老人達はそのふたつを彼に与えた。別に彼の主張が政府に認められたわけではないの。この男は善にも悪にもなる都合のいい男だと判断されたのよ。そしておとな同士の約束は頼りないもの。老人達はダイスケの保身の要求などを叶える必要のない形式的なものくらいにしか思っていなかった。

 

この時代に発見された初のクリプティッド。人とはまったく能力が違うもの。見た目が人とそっくりだから人と比べられることが多いけど、思考も性質もなにもかも人とは違うもの。それを神の使いと呼ぶものもいたし、悪魔だと呼ぶものもいた。なぜ、ダイスケは啓を殺すことが容易であると政府に名乗り出たのか。少女と出会ったからである。十五歳程の見かけの少女は自分をクリプジオンの副所長にしてくれとダイスケに依頼した。なにをバカなことを言うのかとダイスケは大笑いしたが、少女はとても真面目な顔をしている。ダイスケが死んで欲しいと望む老人の名前を三人あげろと少女は言ったわ。一日一殺してくると少女は胸を張って宣言した。そして三日後の夜に大きな布袋を持って少女は再びダイスケの前に現れた。布袋には三つの首が入っていた。ふたつはダイスケの指定した人物のものであったが、ひとつはそれとは違ったの。しかし、それはたいした問題にはならない。一晩でひとつの政治家の首を狩り取ってきたことには間違いない。少し怖ろしかったがダイスケは思い切って問い掛けた。彼等の首から下はどう処分したのかと。少女は顔色ひとつ顔色を変えず、喰ったと即答した。翌日、葉月ナミはクリプジオンの副指令の椅子に座ることになる。葉月はダイスケのことを認めてはいなかったが、期待はしていた。この男はまだまだ軍事組織を大きくするだろう。ダイスケを処分して総司令の座につくのはもう少し後でよい。


 悪魔のような力。葉月はダイスケから改めて殺人の指令を受けた。日本という国で最も影響力のある優秀な思想家、神谷啓の殺害である。葉月は男に取り入るのがとても上手い。それは魔力や魔術の類を使ったものではない。彼女の持つ性的魅力が男に受け容れられるのだ。

 神谷啓も他の男達と一緒だった。簡単に葉月に心を許してしまった。葉月は啓に敬意を示すふりをして彼にしがみついて、力を入れて抱き締め両腕の骨を折った。続けて肩、腰の骨も。もう、啓は身動きもとれないし、痛みで声を出すことも出来ない。あらゆる関節の骨を砕かれ啓は死んだ。ここまでやればダイスケの元に首を持って帰る必要もないだろう。

 

あまりに無残な死刑の執行だったが、これが啓でなければ葉月もここまでしなかっただろう。啓が、啓の思想が嫌いだったのだ。智慧もない、力もない人という存在が動植物を喰う権利があると謳う啓のことが。所詮、人とは葉月にとっては脆弱な屑なのね。葉月にとっての殺人とは人が虫を殺すのと同じくらい容易なこと。


 人が虫を殺すのは憎しみを感じているわけではないだろう。悪意すらないのではないか。ただ、ちょっと目障りだという理由しかないのよね。そもそも虫に命があると認識しているのかさえ怪しいとあたしは疑う。いつ死んでもいいと諦めている虫などいるはずがない。ただ、その覚悟はしているのではないだろうか。人と同じ世界で生きている限り。それならば、人も覚悟をするべきだ。あたし達はこの世の王たるものではないのだ。目障りだという理由だけで殺される可能性があるのだと自覚しなければならない。

 

葉月は啓に憎しみも哀れみも感じていないが、目障りなので簡単に殺した。首をもがない代わりに頭蓋骨を派手に砕いた。なんだか気持ちが悪かったのである。啓の死体が。


 目的。クリプジオンの力を利用して手に入れたいものが葉月にはあった。もちろんジャナンスーツのことである。そして、この世の浄土化に必要な百八人のこどもである。それらを手に入れるのにそれほど長い時間はかからなかった。

 それらを手に入れてしまえば、最後に欲しいのはクリプジオンの総指令の椅子だけ。手に入れるのは簡単である。岩城ダイスケを殺してしまえばいい。必要なものを手に入れる為に人を殺してしまえばいいだろうと発想は間違っているだろうか。例えそうだとしても、人にはそれを批難する権利はないわ。

 葉月はベッドの上でダイスケに問うた。

「なぜ、あなたは人が動植物を喰うことを否定するの?」

「そうする必要がないからさ。動物も植物もみな生きているのだ。人の欲求を満たす為だけに尊い命を奪っていいわけがない。人に必要な栄養は、人が英知を集めて造り出した錠剤で得られるようになったのだ。それならば動植物の命を奪う理由はないだろう。」

「だけどあなたは何人かの人の奪ってこいとわたしに命令した。」

「人の世界にはまだ争いが絶えないのさ。崇高な理念を掲げて認められる為には消してしまわなくてはいけないものもいる。」

 葉月は僅かに笑った。

「わたしも信念の為に消したい人がいるのよ。それを消すことにあなたは抵抗しないのね。」

 消されることに身に覚えはないが、葉月が狙っている命は自分のものだとダイスケは直感した。葉月は膨張したダイスケの下半身を自らの下半身に挿し込んだ。それがあまりに気持ちがよい為、ダイスケはもう返事も出来ない。葉月はもっともっとダイスケが感じるように腰を激しく振りながら語ったわ。

「わたしが心の底から欲しいのはクリプジオンの総指令の椅子でもない。権力でもない。ただ、岩城ダイスケという人の命が欲しいのよ。」

 ダイスケはその発言を予測していた。彼は真に臆病な人であるからね。彼は抵抗しようとしたが、下半身が感じ過ぎてそれが能わない。葉月にはダイスケの表情が大変滑稽だったのだろう。微笑を浮かべたまま話を続けた。

「あなた達が大切にするのは動物と呼ばれるものだけでしょう。それも自分に害のないもの。人に襲い掛かる猛獣には銃や刃物を持って戦うじゃない。己の命が危険に晒されれば平気で動物を殺すじゃない。命のやり取りをするのならば、まだマシね。人は害虫と呼ばれるものは躊躇いなく殺すでしょう。なら、わたしも殺していいでしょう。害虫相手なら。」

 そうか。葉月は自分に利を与えるものは殺さないのだろう。殺しの対象になるのは自分の目的の邪魔になる害虫だけなのだろう。葉月の役に立つことが自分には出来る。それをダイスケは主張したかったが、声にならない。勢いよくため息をつくことしか口は仕事をしない。人には害虫の声が聞こえないのと一緒。葉月は微笑んだままダイスケの首を右手で握った。

「あなたを必要とすることなんてなにもないわ。あなたは役に立つものは大事に扱って、そうでないものには慈悲を与えない男でしょう。そういうところは好きよ。だけど、あなたはわたしに必要ないものになったの。だから殺されても仕方ないと満足してくれるでしょう。あなたの信念に従ってあなたは死ねるのよ。」

 葉月はダイスケに手を差し伸べた。ダイスケは甘い男である。差しのべられた手を握れば、葉月に男として認められるのではないかと感じたのだ。ダイスケの手を握るなり葉月はその手を思い切り引っ張る。ダイスケの肘と肩の関節が外れる小さな音がした。葉月はダイスケのもう片方の手を握って同じように関節を壊した。神谷啓のように出来るだけむごたらしく殺したいの。

 

ダイスケの叫び声を聞けて葉月は大変満足したのだろう。今度は大きくて甲高い声で笑い声を上げながら、小さな手でダイスケの首を握って強く絞った。人の死に逝く様は動物よりも昆虫に似ていて面白い。手足を大きく動かし全身で苦しみを表現してくれる。葉月には男の下半身を子宮に挿し込むのと同じように、殺しが癖になりそうな程気持ちがよいと感じた。

 

沈黙。もうすでに死んでいるのか意識を失っただけなのか、動きもしないし喋りもしないダイスケに向かって葉月はやさしく、ありがとうと囁いた。そして動かなくなったダイスケの肉を喰らう。それは食欲に後押しされるものではない。

 別にダイスケを生かしておいても構わなかった。喰わなくてもよかった。しかし、その理由のない殺しと喰うという行動に理由も抵抗もない。殺しも食事も当たり前の生理的行動なの。

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