番外編4:彩里の諦念

 7月のある日。下校中のわたしは自宅ではなく、詩の家を目指していた。

 あと数日で期末テストなのだが、その前に遺恨なきよう終止符を打つべき事案を抱えていた。


 無論、詩のことだ。

 謎の女に会って、傷口の中身を掬い取られた。

 ごちゃごちゃ、ドロドロしている膿は「失恋」とカテゴライズされていたようだ。


「ううん!白黒つけるんだ……!」


 決意が鈍ってしまわないよう、家に行くことは連絡していない。来ないでと言われたら立ち直れない。


 これは賭けなのだ、わたしのエゴがどうなるか、詩に会えるか否か。

詩の家に到着しても出てくれる確証はないし、居留守を使われるとか、買い物に出てるとか、それこそあの女の人の傍にいるとか、パターンは幾つもある。


『家の前まで来た。開けてくれるかな……』


 インターホンを鳴らす前に、念のためメッセージを送った。

 送ってからブロックされている可能性に思い至って、熱気と寒気が同居するという摩訶不思議な感覚に見舞われた。


 どうやらそれは杞憂に終わったようだけど。

 今開けると、インターホン越しに詩の声が流れた。

 家に招かれたわたしは、挨拶もそこそこに雛本家に上がり込んだ。

 通された詩の部屋は去年上がった頃のまま――というわけにはいかなかった。


(…………これが、詩の部屋なの……?)


 わたしが知っている詩の部屋じゃない。

 玄関で出迎えてくれた詩も雰囲気が別人のようになっていたし、わたしが来る毎に増えていた写真も1枚も残らず剥がされていた。


 やにわに心細くなって焦点が定まらなくなる。

 とにかくこのままじゃ心が折れると思ったわたしは、本題に入ることにした。


 自分のエゴを押し通そうとしていること、ずっと謝りたかったこと、詩だけが悪者ではないということ。

 伝えたかったことは余さずに言った。しかし、わたしの決心は空を切った。


「私が悪いの。自分優先で周りの誰とも上手くやれなかったのも、彩里ちゃんに別れたいと思わせてしまったのも、私のせいだよ……」


 物分かりがいい詩なんて、詩じゃない。あっさり引き下がるなんて、らしくない。

 彼女の言葉を聞いてそう思った。反射的にわたしは叫んでいた。


「だけど!詩がそうなっちゃったのは詩だけのせいじゃない!仕事第一で娘を放り出す両親はあまりにも無責任だし、友達だって事情を聞く素振りでも見せてくれた?その様子だと違うでしょ?だからいちばん近くにいたわたしが支えてあげなきゃって思って、でも最後の最後で逃げ出して……」


 詩への言葉はやがて懺悔へと変わり、自分が真に言いたかったことと雁字搦めになった。


「詩に問題があるというなら、わたしにも問題がある。詩を安心させてあげられなかった責任が。詩こそ自分のせいにだけしちゃダメだよっ……」


 絞り出した声は嗚咽と混じってしまい、正しく伝わったのか不安だ。詩を助けられなかった責任を負わせて。直球で言えたらそれが理想だけど、どの面を下げて言えばいいか分かりかねるなら、遠回しに言うしかない。

 だからこそ不安で、詩が応えるより先に口走ってしまった。


「詩。わたしたち、やり直せないかな」


 詩は純粋に困っていた。

 やらかしたと思う。一度口にした言葉は取り消しが利かない。

 詩の反応次第で言うか言わないか決める予定だったのに……ともかく言ってしまったからには止まれない。


「私なんかのために気を遣ってくれてありがとう。でも彩里ちゃんはもう、私のことなんか忘れて自由になるべきだと思う。でないと壊れちゃうから」


 私の決意表明は、顔色一つ変えない詩の前で泡のように消滅する。

 足場が崩壊して奈落の底に落ちていくようだった。


「…………分かった。無理強いはできないし」


 机に置いてある写真がふと目に入って、わたしは身を引かざるを得なかった。

 いつぞや直接話をしたあの人と写っている写真。私と撮っていたようなツーショットを、あの女の人と。


 わたしとの写真は影も形もなく剥がされ、代わりにあの女の人が場所を得た。

 部屋の空気感や詩本人の違和感の正体はこれだったんだ。

 別れの挨拶は「またね」ではなく「さよなら」で、去来する物悲しさに追い打ちをかけた。

 テストの結果は惨憺たるものだった。

 集中できないなりに毎日積み重ねていたのが功を奏して、赤点を取ることはなかったけど……現役の受験生としてはよろしくない。


「あれ?彩里が平均を下回るなんて……!?」

「ヤバいよ!どうしちゃったの!!」


 友人にも先生にも心配された。

 平常時のわたしなら予備校に通っている子たちにも引けを取らないだろう。事実そうだったから。

 でもわたしは平常時の状態ではいられなかった。


 詩の家に行ったのは失敗だった。温和な終わらせ方を模索して、要らん事を口走って、最終的に縁を断ち切られた。

 虫がいい考えを持ったわたしへの罰だと、そう受け止めている。

 詩が意趣返しでわたしと決別したのではないと、理性はあの子を斟酌している。


 彼女は逆恨みするような性格じゃない。己の問題点を評価して、わたしの心情まで汲み取って、二度と交わらないだけの距離を保つことが最善であると判断しただけ。

 そしてその距離感のことを人は「絶縁」と表す。


 もし詩にこっぴどく当たられて絶縁することになったら、その方が良かった。詩には怒る権利があった。逆恨みされても文句は言えなかった。よくも抜け抜けとこの家に来れたな、と。


 けど当の本人は怒るどころかわたしを気遣った。

 あの優しさは堪えた。


「――失恋した」

「し、失恋?」


 友人は目を瞬かせていた。

 あの人の言い方を借りるなら、これも失恋というやつらしい。たぶん合っている。

 詩の好意の対象から外れて、戻ることもなくなった。失恋とは言い得て妙だった。


「彩里、付き合ってる人とかいたんだ……?」

「いるにはいたけど、別れることになった」


 恋人関係ではなく、人と人との繋がりを断つという根本的なお別れだった。

 これから先、わたしと詩が関わることはない。学校で傍を通りがかっても知らない人同士になる。

 赤の他人とはそういうものだ。


「彩里なら良い人が見つかるよ!うちらも協力するし!」

「今日で解説授業も終わりだし、放課後にカラオケでも行こう?ね?」


 彼女らの宣言通りわたしはカラオケボックスに来ていた。

 わたしを慮って恋愛系の歌を外している。流行りのアニソンや応援歌などなど、順繰りに何周もできるくらいには楽曲数があった。


 わたしも皆に倣って声を張り上げた。歌って叫んで励まされて。

 声が枯れるまで歌い続けた。

 別れの夏が過ぎ、年を越え、受験の本番がやって来た。


「ここまでにして、明日に備えよう……」


 いつもより早くテキストを閉じ、寝不足にならないようベッドに横になった。

 あの日、詩との写真を消去して、連絡先も削除した。そこから心機一転して勉強に打ち込んだ。


 先生と最後の面談をした日、わたしは志望校を地元の大学から県外の学校に変更した。直前期でないとはいえ、夏に照準を変えるのはリスキーなことだと長々と説明された。


 それでもわたしは遠くの大学に行こうと決めた。地元に居続けると精神をやられるから。

 ついでに志望先のランクも上げた。否が応でも勉強せざるを得ない状況を作ることで、自分自身に鞭を打つために。早朝も休み時間も放課後も受験に捧げた。


 そしてその成果は出た。

 成果が出たから、ここで過ごすのはこの春休みが最後になる。

 詩から手向けのコサージュもメッセージも貰えなかった悲しい卒業式を済まして、わたしは旅立とうとしている。


 今まででもっとも長く過ごしたこの地から、知り合いがいない未知の場所に。

 スーツケースとショルダーバッグに荷物を詰め込み、来月からの生活に備える。


「彩里、困ったことがあったらいつでも電話してね」

「ありがとう、お母さん。なるべく困らないようにする」


 出発の日、お母さんはパートが休みだったため挨拶できた。

 これから4年間はこの地に戻らない。お盆や正月休みに帰省するかどうかも未定。来年の事を言えば鬼が笑うらしいから、その時々に決めようと思う。


 そうしてわたしはやり直すための一歩を踏み出した。

 休み期間ということもあってか、街を歩く人々の中にはわたしたちと同い年くらいの子も多かった。


 その人混みの中で、互いの腕と腕を絡めあって歩く女の子2人が視界に入った。

 あれは姉妹だろうか。片方は黒髪のポニーテール、もう片方は金髪のミディアムショートだった。髪色は違うけど目元が少し似ていた。


 姉妹にせよ友達同士にせよ、どちらでも良かった。どちらにせよ、わたしにはその仲の良さが羨ましい。

 そんな羨望を胸の下に押しやって、歩く。

 そして高速バスの乗り場に到着し、出発する前に1度だけ後ろを振り返った。


「さよなら、わたしの地元。そしてさよなら――詩」


 どうか詩も孤独から解放されて幸せになって。名前も知らない女の人だけど、わたしができなかった分まで幸せにしてあげて。

 詩たちに届かない祈りと別れの挨拶は、早咲きの桜と共に散っていった。

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