4章

第19話

 浮気だ。浮気現場を目撃してしまった。


 否、あれを浮気と呼ぶのは間違っている。正式な恋人関係にない私が、小戸森さんが他の女の子と仲睦まじく歩いていたのを「浮気」と言って糾弾するのは図々しい。図々しい?傲慢と言うべきか。

 脳内法廷で私の感情と理性がぶつかる。


 私が無邪気に信じていただけ。私の責任。小戸森さんが私以外にも他の子といるはずがないと楽観視していた……。過去に何人もの女の子を引っかけていたことは知っていた。小戸森さんから聞かされなくても、あの人の行動を思えば想像に難くない。


 ……それが現在どうかまでは考えが及んでいなかった。私という相手がいながら別の女の子にも手を出すなんて!と言いたいところだけども、失恋した子を嗅ぎ分ける能力に秀でている小戸森さんのこと。私と会っていない日に他の子といる可能性に、なんで思い至らなかった。


 想定が甘い自分に怒っていると、かつての会話が蘇った。

 お正月、初詣の列に並んでいた時のやり取りだ。蓋をしたせいで忘れかかっていた。


「うーたーちゃん」

「ぬぁあっ!」


 肩を揺すられ、首がカックンカックンして景色が戻ってきた。

 ギラギラ照りつける太陽を直視してしまい、脳内法廷という幻影は跡形もなく消滅した。


 私と戦うのは浮気に異論を唱えた私の分身じゃない。

 ぽっと出の女の子に愛嬌を振りまいていた小戸森さんだ。


「どういうことなんですか」


 あの時言えなかったことを、一言だけ、ストレートに問う。


「あの子のことだよね」

「……他に誰がいます?」

「あの子は今日で会うのが最後の子だった」


 自分には無関係の諍いを傍観するような、澄んだ目で小戸森さんは言った。

 嘘を吐いている風には見えないけど、納得しきれない。

 端的な回答は、私の知りたい核心を突いてはいない。


「先月、付き合っていた人と別れることになったんだって。理由は秘密にするけど、あの子も元恋人さんも断腸の思いだったって」

「で、粉をかけたんですか」


 小戸森さんは首肯した。


 案の定、失恋ハンターとしてのスイッチが入っていたようだ。失恋している子にひっきりなしに声をかける小戸森さんの辞書に「倫理観」という単語は載っていない。そのことには驚きなどなかった。

 けど。


「私がいるのに、他の子とも会っていたんですね」


 思い出すだけで声が低くなる。胸倉を掴んで吐かせたくなる。

 どうして私以外の子とも会った?どうして知らせてくれなかった?

 ぐるぐると「どうして?」という疑問がループする。


「密会みたいなことをしちゃったのは謝る。ごめん」


 あの小戸森さんが頭を低くした。

 公園でいきなりキスをされた後の謝罪より、頭の位置は低く、背中ではなく腰から体を曲げていた。


「失恋してる子は放っておけないんだよね……」

「なぜ、失恋している子なんですか」


 かねてよりの疑問をストレートに問う。

 小戸森さんの、失恋した子への執着は尋常じゃない。この人なら勝ちまくりモテまくりになるのも夢じゃない気がする。

 美貌に財力に心遣い、どれも兼ね備えているのに。


「他者との繋がりはシンプルにできるはずなのに、複雑に絡み合っている。言葉にすれば単純明快なものでも、感情や欲望が混ざり合うとその言葉以上の意味を持つようになるの」


 小戸森さんがよく分からないことを語り出した。

 私は口を挟まずに聞く。


「そしてそれらは完全に分離できるものじゃない。あっけなく終わる時は終わるし、予想外に続く時は続く」

「言いたいことは分かります。私も……」


 人生経験などあってないようなものだけど、失恋だけは経験した。

 私の対人関係はシンプルだったけど。

 明後日の方に向けられたその瞳は、何を映してきたのだろう。


「さっきの子も心の整理ができたみたいだし、頃合いかなって。終わりが見えない関係より、予め終わる期限や条件が分かる関係の方がいいなって、私は思ってたんだよ」


 小戸森さんは言葉を区切って、言った。

 私と小戸森さんには明確な条件はあるけど、明確な期限はない。なら、小戸森さんの胸三寸でそれが決まるのを明確と称するのか。


 あなたから誘っておいて。

 勝手な言い分に苛立ちが募る。


「終わりなんて来させませんよ」


 送らず留めておいた文面を、当初の予定とは違う形で言うことになった。

 こんなはずではなかったが言い出したからには後戻り不可能だ。


「私じゃダメなんですか」

「詩ちゃん?」

「私じゃ物足りないんですか。私だけいればいいと思ってくれないんですか。私は小戸森さんだけなのに小戸森さんはそうじゃないんですか。期限なんて決めないでよ、私をひとりぼっちにしないで!ずっと傍にいようとは思ってくれないんですか!私は片時も離れたくないって!1人でいても小戸森さんのことしか考えられなくてっ!私をこんな風にしたのは小戸森さんなのに!……他の子なんか放っておいてよ、知らない子と一緒にいちゃ嫌だよ、そんな奴に笑いかけないでよ……私を、私だけを愛してよぉ…………!」


 視界が滲む。

 蓋が外された、醜い私の本音。マグマのように噴き出しては幾人もの厚意を押し流した私の本音。

 想いの濁流は私を孤立させる、だから封印してきた。


 その封印が一旦解かれたが最後、私は破滅に導かれる。

 愚かで醜い自分への恨みつらみと、心安らぐ居場所を今日限りで失ってしまうであろうこと。


 私はまた、過ちを犯した。

 反省しているようでできていない。根っこから変われない私への天罰だ。


 小戸森さんを失えば私は抜け殻になる。抜け殻のまま生きろと、神様にも愛想を尽かされた。


「本音を打ち明けてくれてありがとう。最高に嬉しい」


 しかし小戸森さんの反応は私の予想を裏切った。

 晴れ晴れとした笑顔で私を抱擁する小戸森さん。

 戸惑いを隠せない。醜い本音を伝えて感謝されたことなどなかったから。


「詩ちゃんだけにする。会うのも、話すのも、笑顔でいるのも、詩ちゃんだけにする」


 小戸森さんは私の本音に応えようとしている。

 でもまだ信用はできない。信用したいけど、口では何とでも言える。


「嘘じゃない、ですよね」

「嘘は吐かない。約束する」

「なら私以外の連絡先を削除してくださいって言ったら、消せるんですか」


 小戸森さんに要求する。

 私は小戸森さんの連絡先しか持っていないし、私だけと言うなら小戸森さんにもそうあって欲しい。


 重いことを言っている自覚はある。

 行動で示してくれないと信じられないから、言う。


「うん。消すよ、詩ちゃんに信じてもらえるなら」


 小戸森さんは私の見ている前で連絡先を削除した。

 彼女から端末を受け取り、私もデフォルトでインストールされているものと、チャットアプリの両方を確認した。


 発信履歴はなし。連絡先も私の名前だけ。チャットアプリのトーク履歴も私との会話だけ。

 やけにすんなりと済んでしまい、信じようにも逆に信じられなくなった。


「……パソコンにバックアップとか」

「パソコンには入っていないかな。会社用のだから」

「そうですか……」

「詩ちゃんが信じてくれるなら、どんな要望にも応える」


  この人、本気だ。私はそう思った。

  面倒くさい本音は知られてしまったのだから、もう変に意地を張る必要はない。

  その言葉に甘えて願いを叶える。


「名前で呼ぶことにします。ふ、風香さん」

「オッケー。やっと呼んでくれたね!」

「小戸森さん――風香さんを喜ばせるためじゃないです!」


 名前呼びしようと思ったのは、それだけで特別感があるからだ。

 友達同士でも仲が良ければ名前呼びくらいするだろう。だけど私と小戸森さんは友達じゃない。


 偶発的に体を重ねた関係から、名前のあるそれに進もうとしている

 その時になってまだ苗字、それもさん付けで呼んでいたら特別感もムードもない。


 今から風香さんという呼び方で慣れておきたいし、どこの馬の骨とも知らない連中を牽制しておきたい。

 そのための名前呼びだ。


「他には?」

「どこかに行きたいです。1日なんて言わず、非日常を味わえるどこかに、私は……」


 包み隠さず放出しようとしていた本音が、終盤になって窄んでいく。

 それを風香さんは汲み取ってくれた。


「私が決めていい?」

「はい」


 旅したことがない私は即頷いた。

 風香さんなら良い行き先を選んでくれると信じて。


「決めたら連絡する。待っててね」


 ニカっと白い歯を見せる風香さんに、回収し忘れていた私のスマホを手渡された。

 かくして浮気(?)騒動は一件落着したのだった。

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