番外編3:彩里の懊悩
わたしは今年の春、高校3年に進級した。受験生になり、とうとう初夏を迎えた。
去年の末に事を起こして半年以上経ってなお、わたしは慚愧に堪えない毎日を過ごしていた。
これが後ろ髪を引かれる気分なら、とっくの昔に髪が引っこ抜かれてハゲ散らかしていることだろう。
だっておかしいじゃないか。あれだけ愛を欲していた詩が立ち直って、振ったわたしがあの子のことで受験勉強よりヤキモキしているなんて。
「どうしたんだい、悩めるお嬢さん」
そんな折だった。甘やかに微笑む女が急接近してきたのは。
あの頃とは様子が違う詩を不思議に思ってたまに尾行していたのだが、ゴールデンウイークの最中、参考書を買いに行く道中で遠目からだが並んで歩く2人を目にした。インパクトが大きすぎて昨日のことのように思い出せる。
そして今日、たまたまこの女が1人で歩いているのを見かけた。
話しかけられたのはこれが初めてだ。
「……何でもありません、じろじろ見てすみません」
怒ってはいなさそうな女の人に形だけ謝罪して、もうこれ以上は尾行するのが難しいと判断したわたしはこの場を去ろうとした。
「待って、君はそのまま家に帰ることができるかもしれないね。でも悲しみは発散しないと毎日を共にすることになっちゃうよ」
詩を誑かした女に引き止められる。
ちょっと何言ってるか分かんないのに、絶妙に突いて欲しくない部分を突かれて足を止めてしまった。
それが失策だったのだ。
「君は――私の失恋ファイルにいない子だから、察するに詩ちゃんの関係者?」
「関係者って……まぁ遠からず?ですけどね。今じゃ元関係者くらいですよ」
公園のベンチに座って謎のやり取りが生じる。
微妙な距離になっているから、もはや詩とどういう関係性なのかは不明。
お隣さんです。同じ小学校に通っていて高校で再会しました。以上!
……なんて薄い関係性だ。違う、関係を断つように働きかけたのはわたしだから、関係があると思うこと自体が頓珍漢なのだ。
「厳密に言うなら詩ちゃんの元カノ、でしょ?」
特にこれという情報を教えていないのに、二言目には正解を出す女。
服は清潔感があり垢抜けていて、全体的に穏やかなオーラで、その微笑は通りすがりの人を振り向かせるくらい美麗な女は、しかし人の心を持っていないらしかった。
「どうしてそれを?あなたには人の心ってものがないんですか」
時々尾行していたことは後ろめたいにしても、それはそれとして土足で心に踏み入られる行為には苛立ちを隠せなかった。
わたしとこの人が言葉を交わすのは初めてのはずだ。普通の人ならデリカシーに配慮してオブラートに包むところだろう。
「あははっ。詩ちゃんにも同じような反応されたなぁ」
アルバムを眺めるようなノリで懐かしむ女。
わたしの苛立ちなど意に介さず説明を続けた。
「君に尾行されていることは最初から気付いていたよ。どのタイミングで接してあげればいいか考えていただけだから。私の知り合いじゃなくて、詩ちゃんに注目しているなら答は1個しかないでしょ?」
「友達の身を案じているだけって可能性もありますよ」
「案じているんだ?それも嘘じゃないと思うけど、にしては悲哀の色が強すぎて失恋したのかと」
肯定も否定もする気が失せた。
女の説明は正しくて、正しいが故に神経を逆撫でされる。こいつはほぼ確定で正解に至っているのに、敢えてこちらの反応を伺って答え合わせをしているような、悪趣味な人間に思えてならない。
「わたしは失恋なんかしていません。振ったわたしが失恋なんて、おかしなこと言いますね」
反論など意味ないと悟ったわたしは諦めて話した。
詩とかれこれ半年以上は付き合いがあるであろう女のことだ、わたしと詩の間にあったことも聞き及んでいるに違いない。
だったら変に否定せず話すだけ話してやって、のらりくらりしたこの女から早々に離脱するのが賢明というものだ
「おかしくないよ?失恋とは“恋”を“失う”ことだよ」
「はぁ。だから何です?」
どこぞの議員みたいな言い回しに呆れてしまう。そんな力こそパワーみたいなことを言われても、どう反応しろというのか。
「君は失ったんだよ。詩ちゃんという“恋”を“失った”、失恋した女の子」
ガツン!後ろから殴られた気分だった。
名前も知らない、交わした言葉も少ない女に心の奥底にあるものを探り当てられた。
自分の感情が自分以外の手によって拡げられ、解釈され、哀れみを受ける。
「わたしが失恋したとして、こんな公園でフラフラして大丈夫なんですか。お見受けしたところ仕事中じゃないんですか?」
せめてもの抵抗として、わたしは大人が嫌がりそうな質問をぶつけてやった。
SNSなんかを眺めていると、仕事が嫌いな人は多いみたいだし。休みたいとか帰りたいって本気で言ってそうな人も沢山いるし。
「ノープロブレムなんだなぁ、それが。私は仕事が嫌いじゃないし、なんだかんだ成果を上げる人間には皆大目に見てくれるんだよ」
そんな抵抗も空しく女は笑っていた。
聞けば外回りしていた最中で、なんなら定時前に直帰することも許されているらしい。
どうやらこいつは仕事が好きで成果も出せる有能な人材だから、多少の我儘も許されるとか。
理不尽なものだと思う。だって未成年を誑かすヤバい奴が、通報もされず仕事でも寛容に扱われ、わたしはそんなイかれた女に胸を抉られている。
法律に引っ掛かりそうな女は余裕綽々で、きちんと正しく生きているわたしの方が生き辛さを覚える。
いっそ乱入してやろうかと思ったこともある。
だけど遠目から詩を見ていると、この現状をぶち壊してはいけない気がして。
「はぁ……わたしは怖かったんですよ。詩の独占欲が……その独占欲に潰されないか」
無意識にわたしは吐露していた。
この女に弱音をさらけ出すつもりなどなかったのに。
「だから振ったんだ」
女は短く答えた。
恐らく詩からわたしとの関係性も聞いているだろう。友達が味方についてくれているから、その反応がどうであっても構わないけど。
「それは勇気がいることだね。君は悪くないよ」
「ははは……友達もそう言ってくれましたよ」
「ほうほう、それはどういう意味で?」
どうしてか女はわたしの返しに食い付いた。
「どういう意味って、誰と一緒にいようと個人の自由で、それを束縛して欲しくないと思うことは普通っていうことで……」
「なるほど、その言い方は……君が良心の呵責に苦しんでしまう理由は、それが原因の一部になっているかも」
「は?」
「私は違う風に考えてる。君は誠実だから、詩ちゃんの為を想って振ったんだよね。それを君は自分勝手だと思い込んでいるけど……世の中を見渡せば無責任に好きだと言ってさ、相手を傷付けて、あるいは自分が傷付いてから別れるパターンなんて腐るほどあるわけで。その最たる例が、たまーに報道される凄惨な事件になるわけでしょう。それを考慮したら君は立派だよ?自分を客観視して、想定し得る最悪の可能性を回避させたんだから」
女もわたしの味方になってくれたけど、その理由は明らかに友達のそれとは異なっていた。
語る女の目は明後日の方向を見ていて、胡散臭い女なりにいろいろ経験してきたのかと思わされた。
「そういうものなんですか。わたしには塞ぎ込む資格なんてない……わたしが詩を傷付けたのは間違いありませんから」
「正しさとか理屈だけで人を好きになれたら、それが理想だよね。君は良い子すぎるんだよ」
罪を独白するわたしの頭が突然撫でられた。
小さな子供をあやすような撫で方で、それが無性に心地良かった。
全てが無罪になったと錯覚してしまう程に。
「大丈夫だよ。恐れることも大切な誰かを振ることも、相応に力が必要なことだから――おおっと、これは失礼」
女は良い話をしながらわたしの肩に手を回そうとして、触れる寸前で止まった。
一体どうしたのだろう。
「ごめんねぇ。そういうことをするのは詩ちゃんだけって約束しているから、これ以上は君に踏み込むわけにはいかないのよ~」
女はのほほんと訳の分からない御託を並べた。
だけど最後に1つだけ、どうしても尋ねたかった。
「あなたは詩の独占欲が怖くないんですか」
呑気に構える女からは疲労や不安というものを感じられなかった。
むしろ詩との関係を積極的であるようにさえ見えていた。
「最高に可愛いよ、詩ちゃんは。私は愛するのも愛されるのも好き。そして詩ちゃんほど独占欲が強い子は初めてでさ、ワクワクゾクゾクしてるの」
…………この女は化け物だ。
まざまざと格の違いを見せつけられた。わたしとあの女では詩と相対するための耐性が違いすぎる。
いよいよ無力感に苛まされたわたしは、女が去った後もベンチから立ち上がれずにいたのだった。
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