第17話
『山の日に遊びましょう!』
小戸森さんのメッセージが私の気分を高揚させる。
山の日は祝日で、小戸森さんも急を要する仕事はないので休めると言っていた。
ただ、取引先と企画しているイベントの関係で4日間まとまった休みは取れなかったそうで、休みを分散して取得することにしたそうだ。
私としては小戸森さんに1日でも会えるなら不満はない。
『分かりました』
『行き先を決めないとね。海やプールはどう?』
『あの手の場所は人が多いと思います。ゆっくりできなさそう』
小戸森さんから示された行き先は、行きたいが半分、行きたくないが半分でせめぎ合っていた。
小戸森さんの水着姿に興味がないと言えば嘘になるけど、限られた時間の中で存分に楽しめるかどうかも重要なことだと思う。海は遠いし、プールは近いけど夏の時期なら遊びに来ている人も多いだろう。検索エンジンで近場のプールを調べたけど、連日「混雑しています」という表示が出ていたくらいだ。
かといって山が好きなわけでもないので、行き場選びは難航する。
『じゃあ私の家にする?』
◇
鼓動が全力疾走後のように加速する。
ドッドッドッドッ、と音が鳴り止まない。
だって……小戸森さんの家に行くことになるとは露ほども思っていなかった。提案を呑んだのは私自身だけど!!
海でも山でもプールでもない行き先は、小戸森さん宅。ショッピングモールやテーマパークではなく、彼女の家。
お水を飲むような軽さでそう送られたのだ。
で、現在地は教えてもらったマンションの前、なのだけど……。
「大き過ぎない……!?」
広い。敷地が大きい。タワマンのように高いのではなく、横に広かった。
私が済んでいる戸建ても世間一般では広い方だと思うけど、それでも比較にならない。
「こっちだよ、詩ちゃん」
左右をキョロキョロしている私に、丸みのある声がかけられた。
出迎えに来てくれた小戸森さんだった。
安心安全のオートロック。豪奢なラウンジが併設された共用部。収容人数の多いエレベーター。
「ようこそ、我が家へ」
「ぅ、わぁ……!」
廊下のいちばん奥に小戸森さんの家はあった。
ドアを開けた先で一気に視界が開ける。まずもって玄関が広かった。何足入れるの?と聞きたくなるような靴箱に全身鏡、スーツケースやボストンバッグを数個は置けるだけのスペース。
広い家は玄関から広いようだ。
両腕を伸ばして歩ける廊下を抜けた先はリビングで、これまたかなりの広さだった。
「何人家族なんです?」
「私だけだよ?」
整理整頓され開放感のある居間に入る。
他にも何部屋かあって、とにかく広い。こんなだだっ広い家で一人暮らしとは……。
この物件なら体育のマット運動とか、存分に練習できそう。
「さてと。夏休みに海でもプールでもお祭りでもなく、私の家に来たわけだけど、何をしようか?」
重厚感の漂うソファに腰を沈ませる小戸森さん。主たる使用者じゃないから当然かもだけど、私は腰掛ける気になれない。
ソファの正面には大画面の液晶テレビが設置されており、ゲーム機もそのすぐ隣に置かれていた。距離は2メートルくらい空いてるけど、この画面の大きさなら細かいところまで難なく見ることができるだろう。
「何はともあれお昼を食べようか。詩ちゃんにご飯を振舞いたくて、お昼前に来てもらったんだよね」
鼻歌を歌いながら小戸森さんはキッチンへと向かう。
手伝った方が良いのかと思って立ち上がったら片手で制された。
お客さんに作らせるわけにはいかないと。エスコート精神は相変わらずで尊敬するのだけど、それがちょっぴり悲しい。
なぜなら私と小戸森さんの関係はまだ、客と招待者という他人行儀じみたものということを意味するから。
私の気持ちなど察していないのか、小戸森さんは調理し始める。麺を茹でている間に手際よく野菜を切り、フライパンを火にかける。先に野菜を炒め、茹で上がった麺をフライパンに投入し、ケチャップと和えて完成。
無駄な動きが一切ない手捌きに私は釘付けになった。
「はい、どうぞ」
「……いただきます」
湯気を立たせているそれはナポリタン。
食べてみた感想は「美味しい」と言う他なかった。均等な大きさに切られた野菜とパスタが味を相互に引き立たせるように絡まっていて、そこにケチャップの程良い酸味と胡椒がアクセントとして加わることで、お店で提供できる逸品になっていた。
「褒めすぎ、詩ちゃん」
本人は否定していたけど私からすれば、少なくともファミレスで食べたナポリタンは足元にも及ばなかった。これだけ手際が良いなら私の出る幕はないし、手伝うだけマイナスになっていたことだろう。
稼ぐことができて、エスコートできて、料理もできて、見目麗しいなんて……小戸森さんは私とは生きている次元が違う。
前日に寝付けなかったのと食後の眠気が相まって、微睡みながらそんなことを思った。
◇
「…………あ、れ……?」
枕ではない感触を頭に感じて目が覚めた。
柔らかいけど、枕にはない熱と弾力がある。
「お目覚めだね」
開いたばかりの私の両眼は柔和な笑みを捉えた。
あ……これ、膝枕ってやつだ。小戸森さんの太ももが気持ち良すぎてまた眠れそう――膝枕?
「す、すみません」
「お気になさらず~。スヤスヤしてる詩ちゃんも可愛かったよ」
嫌な顔をするどころか褒める余力すらある小戸森さん。
変なことをされていないかチェックした。服を脱がされた形跡はなくて安心した。
そういうつもりで来たのではないから……。
「太陽、だいぶ傾いてますね……」
大窓のカーテン越しに通過するオレンジ色の太陽光に、開いたばかりの目を細める。
昼食後からずっと寝ていたことを自覚して、後悔の念が生じる。
いろいろと話して自分の気持ちを再確認するつもりだったのに、話さない時間の方が多くなってしまったではないか。
「浮かない顔だね」
小戸森さんの手が私の頬に触れた。繊細なタッチで心をくすぐられる。
「せっかく招待してもらったのに恥ずかしいところをお見せしてしまいましたから……」
まだ寝顔など見せる段階ではない。持ち帰りされた夜は別として、どっちつかずの関係性で無防備な姿をさらけ出したくなかった。
この繋がりが確たるものになるまで一瞬たりとも気は抜けない。
「いつぞや言ったように、私はどんな詩ちゃんも受け止める。詩ちゃんの傷が癒えるまで」
小戸森さんの声には硬さがなく、それでいて折れ曲がることのない芯が通っている。
出会った日から事実そうしてきたことを基に、この先もそうであることを彼女の声音が証明している。
彼女の声が、態度が、行動力が、信念が。私の心のベールを1枚ずつ剥がす。
そんな風にされたら私は、もっともっと求めたくなる。欲求が理性の壁を破壊し尽くして、情動に支配を許してしまう。
だけど同時に、いつか来る終焉に対する憐憫のようなものを感じさせた。
そう見えたのは夕焼けのせいか、あるいは。
「どんな形になっても、ですか」
私は尋ねた。喉をスキップして出た質問はしばらく中空を浮遊していた。
ややもして小戸森さんに訊き返される。
「どんな形でも、って?」
「……なんでもありません。帰りますね」
「え~、着替え用意するから泊っていくといいよ」
丸付けは済んだ。その心遣いはありがたいのだけど、余分な発言をしないうちに退散するとしよう。
荷物を手に取って廊下を抜ける。
「お昼、ごちそうさまでした。家に呼んでもらえて嬉しかったです」
マンションのエントランスまで見送りに来た小戸森さんに、言いそびれていた諸々のお礼を伝える。
小戸森さんは小さく手を振ってくれた。
道路の角を曲がり、小戸森さんが見えなくなった。
(小戸森さん。私は――)
もう隠し通せない。自分が相手であっても隠せない。抑えられない。
あの家に泊まりたかった。1秒でも長くいたかった。でも一緒にいたら言わなくていいことを言ってしまいそうで。
好きなのだ。小戸森さんのことが。最初は憎らしい仇だった彼女のことが好きなのだ。本当は分かっていた。目を背けていただけだ。初めてを奪われたから。なのに今はどうだ。
別れたくない。離れたくない。好き。小戸森さんが好き。
立ち直れなくていい。小戸森さんといられなくなるくらいなら。
好きだから。小戸森さんしか考えられない。私をずっと受け入れて、小戸森さん。
あの日みたいにキスしたいよ、小戸森さん。
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