第16話
「今、開けるね……」
鳴らされたインターホンを切って、玄関に向かう。
メッセージを送ってきたのはかつての恋人、彩里ちゃんだった。
ドアノブに伸ばした手が震える。メッセージが送られてきたのも、対面で顔を合わせるのもあの日以来初だったからだ。断捨離したとはいえ都合良く忘れられないのが人間という生き物で、冷房の効いた家にいるのにシャツが冷や汗でべっとりする。
急に連絡が来たのも驚きだったし、会って何を話そうというのか想像もできない。
会うつもりなどなかった私は、本来は連絡先や履歴まで削除して私の中だけで終わらせるつもりだった。だから彩里ちゃんが家に来て、会うことになるなんてのは想定外。
それでもドアを開ける。
良い機会だ。後腐れのないように片をつけよう。
「……彩里ちゃん」
7月も後半に差し掛かり、昼の暑さが置き忘れられた空の下。汗を浮かべて立っているのは他の誰でもない彩里ちゃんだった。
名前を呼ばれた彩里ちゃんは口をポカンと開けたまま、何秒か固まった。
季節外れの雪を目にしたかのような反応で、私もどう接するか戸惑う。
「彩里ちゃん?」
「あっ、あぁ……8ヶ月ぶりだよね、詩」
「うん」
挨拶とも呼べないぎこちない挨拶を交わして、またしても無言が場を支配する。
最後に口を利いたのが別れの宣告なのだ。気まずくないはずがないし、花が咲くような話題もない。
「暑い中で立ってるのもなんだし、上がれば」
「ありがとう、お邪魔します……」
私が促すと、彩里ちゃんはよそよそしさ全開で家に上がった。
彩里ちゃんを家に呼んだことは幾度とあるけれど、今日ほど他人行儀だったことはなかった。
「はい、これ」
「ん、いただきます」
冷蔵庫から冷えた麦茶を出しグラスに注ぐ。私の部屋で窮屈そうに座り込んでいる彩里ちゃんにグラスを手渡すと、遠慮がちに一口だけ飲んでトレーに置いた。
目だけ動かして部屋中を見回し、眉を曇らせる。異界に放り込まれたかのような顔になっていた。
「だいぶ変わったんだね……?壁も着ている洋服も」
意を決した彩里ちゃんが沈黙を切り裂く。
私は肯定する。変わったというより変えられた、と言う方が合っているけど。
彩里ちゃんとの失恋に小戸森さんとの出会い。同時期に起こった2つの出来事は、私という中身のない人間を塗り替えるには影響力があり過ぎた。
「変わったと思う。自分自身、こうも変わるとは予想だにしなかったもん」
「そっか……あの、いきなり来てごめんね」
別にいいよ、と私は返したけど、彩里ちゃんは首を横に振った。
「自分勝手なことだって自覚してる。押し掛けるのも良くないと思ったけど……詩とはきちんと話したかったから」
終始目を合わせようとしなかった彩里ちゃんが、私と目を合わせた。
肩と首が一体化しているところから、かなり力が入っていることが分かる。
彩里ちゃんがどうしてそれほど緊張しているのか、私には知る由もない。
「……話って?」
「あの日のこと、わたしなりに考えた。詩が抱えてるものは詩だけの責任じゃない。そんなこと分かってたはずなのに……わたしは詩を独りにさせてしまった」
零れそうな涙を堪えて、彩里ちゃんが言葉を紡ぐ。
私は何も返せなかった。
「ずっと謝りたかった」
堪えていた涙はついぞ溢れ、大粒の水滴となって彩里ちゃんの頬を伝った。
手の甲で拭っても一向に止まらない涙が床に落ちる。
彩里ちゃんによる大雨はしばらくの間、降り続けた。
「ごめん。詩を独りぼっちにさせて、ごめんね……わたし、自分の身を守ることで頭がいっぱいだった……!」
勢いよく頭を下げた彩里ちゃん。涙が夕陽に照らされて、宙で煌めきながら消失する。
その涙の煌めきはしかし、部屋の雰囲気を明るいものにはしてくれなかった。
過ぎ去ったあの日々のように儚い。
「彩里ちゃん、そんなに自分を責めないで」
「……詩?」
私はその儚さに胸が締め付けられた。
私と一緒にいることがどれだけの負担になっていたのか、泣き腫らした彩里ちゃんの両の眼を見て真に理解できた。
日々追い詰められていたのは私だけじゃなく、彩里ちゃんもだった。
自分がしたことに対して自分に非があると、良心の呵責に絶えていたのだ。
それを私は、私だけが破滅したように沈み込んでいた。優しい彩里ちゃんにそう思わせてしまったことが申し訳ない。
だから彩里ちゃんは解放されるべきだ。私という呪縛から。
「私が悪いの。自分優先で周りの誰とも上手くやれなかったのも、彩里ちゃんに別れたいと思わせてしまったのも、私のせいだよ……」
幼馴染であることを使用して、彼女なら無下にしないはずと、その優しさに甘えていた。
同じ過ちを犯さないというハリボテの決意は、私の甘さによって壊された。他の子たちには打ち明けられなかった境遇も、彩里ちゃんは知り尽くしていたから。
善意を利用した私がフラれるのは時間の問題だっただけ。身から出た錆としか言えない。
結局は仲良くなりかけた友達に捨てられたパターンと一致している。
人間性という面では、私は変わってなどいなかった。
「だけど!詩がそうなっちゃったのは詩だけのせいじゃない!」
私を庇い立てするように彩里ちゃんは叫ぶ。
「仕事第一で娘を放り出す両親はあまりにも無責任だし、友達だって事情を聞く素振りでも見せてくれた?その様子だと違うでしょ?だからいちばん近くにいたわたしが支えてあげなきゃって思って、でも最後の最後で逃げ出して……」
彩里ちゃんは愁色を濃くした。
穏やかで声を荒げたことのない彼女が、私のことを想って叫んでいる。
クリスマスイブの夜とは逆だ。立場も、想いの中身も。
「詩に問題があるというなら、わたしにも問題がある。詩を安心させてあげられなかった責任が。詩こそ自分のせいにだけしちゃダメだよっ……」
彼女は嗚咽混じりの、カスカスになった声で言った。
あぁ。彩里ちゃんは真剣に私のことを想ってくれていたのかもしれない。
別れた頃から今の今まで。
「詩。わたしたち、やり直せないかな」
「……ぇ?」
次に聴こえた単語は私たちの文脈には登場しないはずの意味を持っていて、脳内が疑問符まみれになった。
やり直す。私と彩里ちゃんが。
「やり直すの。恋人としては無理かもしれない。でもまた友達から始める。友達だって詩を孤独にさせないことはできる。そしたら、いつか友達以上になれる」
最愛の彩里ちゃんと再び結ばれる。私がクリスマスイブに望んだことで、決して叶うはずもなかったことで。
またとない申し出を彩里ちゃんからしてきている。
私が言えば友達じゃなく、恋人という関係からやり直すこともできる。
当時の私なら一も二もなく飛びつきたい、垂涎の的だ。
「それはできないよ」
けれど怖いほど冷静になった私はその申し出を断った。
「ど、どうして――あっ……そう、だよね。わたしに言える資格なんてなかった……」
「ううん。あの日、私と彩里ちゃんの縁は切れた。切れそうな縁、切れた縁を繋ぎとめようとしちゃいけないって、痛すぎるくらいに学んだから」
既に「橘彩里」という女の子は、私を構成する要素ではなくなっている。
その全ては別の人に置き換えられているし、去り行く人を追いかけたとしても上手くいかないのが私なのだ。
もう、新しい道への一歩を踏み出してしまった。
思い出の処分が概ね完了したというのに、今さら後退を始めるなどできはしない。
「それでもきっと、上手くやれる方法はあるはずだよ……やってみせるよ……」
彩里ちゃんの言葉は尻すぼみに小さくなっていった。断言したいのに自信なさげで、このことを言うべきかどうかも悩んでいたのだろう。
事ここに至って察したけど、彩里ちゃんの思い詰め方から考えるに、彼女は私と一緒にいても不幸になるだけなのだ。
こんな陰気な奴の世話をしていたら心も病む。彩里ちゃんのように心優しい人なら特に……。追い詰められた側が、追い詰めた方に気を遣ってしまう。
「気持ちはありがたいけど、その申し出は受けられない」
丁重にお断りする。
私の気持ち的にも、彩里ちゃんの性格的にも、受諾はできない。
「私なんかのために気を遣ってくれてありがとう。でも彩里ちゃんはもう、私のことなんか忘れて自由になるべきだと思う。でないと壊れちゃうから」
ヒビの入ったお皿は戻らない。人間関係も同様だ。
よしんば修復できたとしても、割れる前より頑強なものにしても、壊れないとは限らない。
であるならばこのまま道を違えた方が2人の為になるというものだ。
「…………分かった。無理強いはできないし」
彩里ちゃんは机の写真立てを一瞥した後、項垂れるように頷いた。
これでいい。お互いに正しくやり直そう。
「さよなら、彩里ちゃん」
もう会うことのないその人が去る直前、別れの挨拶を告げた。
再び泣きそうな笑みを湛えて、彩里ちゃんは薄暗闇の中に溶けていった。
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