第3章:亀裂

第13話

 ゴールデンウイークに暗い想いを抱かずに済んだのは嬉しい誤算だった。

 繋がりなどあってないような、帰ってくる方が珍しく今年も見事なまでに仕事尽くしの両親。数度会うだけでことごとく見限られる友人。

 付き合いたての頃、彩里ちゃんと過ごしたゴールデンウイークには罪はないけれど、今では悲しき思い出でしかない。


「ここで良いかな」


 メッセージアプリで受信したツーショットの写真をコンビニでプリントアウトし、机の写真立てに挿し込む。

 スマホのフォルダにも机にも、小戸森さんの存在が生活空間に入り込む。


 それは机の上だけに限ったことじゃなく、引き戸の中のクローゼットもそうだ。

 どれも私が両親に貰ったお小遣いで買った服じゃない。小戸森さんがお金を払った洋服たちだ。


 昨日のうちに洗濯して乾燥もして、クローゼットにかけた。

 夏用の服だから出番は来月くらいだけど、いつ着ることになっても大丈夫なように手入れは欠かさない。


「夏も会えるかな」


 スマホの方でツーショットを眺める。

 また会おう、小戸森さんはそう言ってくれた。

 最悪な出会いをしていながら、小戸森さんとの関係を持ってから半年目に突入した。


 中学以来の人間関係では、彩里ちゃんと交際していた約8ヶ月に次ぐ新記録だ。多くのクラスメイトたちには学期が始まったその月内で愛想を尽かされていたから、私基準で測るなら小戸森さんに異常があるとも言える。


 彩里ちゃんと小戸森さんとでは、出会い方も置かれてきた境遇も被らない。

 それでも小戸森さんとの「次の機会」はあって、今の私の生きる希望になり得た。

 連休明けの教室は浮ついた空気が充満しており、連休への未練が断ち切れないようだった。

 担任が来るまでの教室は喧噪に包まれていて、宿題を写させてくれとか、お土産を後で渡すとかいう話題ばかりで、まだ切り替えができていない様子。


 空気の変わり目などあるはずもなく、あったとしても見えないものだ。

 私とて連休の終わりを肌で感じてはいない。


 お手洗いやスマホの画面に時折写り込む、消えかかった痕が連休中にあった出来事を脳の奥から引っ張り出される。


 くっきりと主張していた外周は肌の色と馴染んで溶けかかっている。

 この痕がある私は室内の騒めきに不快感を持たずに済んでいた。


「はい、皆さん席に着いてください。まずは課題を集めますので後ろから――」


 先生が来て、教室の喧噪は一時的にだが消えた。紙の擦れる音が響き、パラパラとざっくり枚数を数えた先生は連絡事項を完結に伝えて職員室に帰った。

 万全だ、何もかも。宿題を初日に終えていたのは毎年のことだけど、そこに小戸森さんと出かけたというイベントが加わることで、黒ずんだ日常に色がつく。

 とはいったものの、良いことばかりでもなかった。

 

 私は小戸森さんをどう想っていて、どういう関係になりたいのか。連休が明けてから、授業中も登下校中も、そのことばかりを考える。これは小戸森さんと話し合わない限り解決できない命題だ。

 ただし話し合うより先に、自分の気持ちと決着をつけたい。

 下校時刻の人の流れの中、私は頭を抱える。


 すれ違う人は1人で悠々自適に歩く者もいれば、複数人で連れ立って笑い合う者もいる。大きな欠伸を漏らしながらのそのそ歩くサラリーマン、ながら歩きをしている危なっかしい若者、あれが欲しいこれが欲しいと親にねだる園児、あの人への想いが分からなくなっている私。


 ここを歩いている彼ら彼女らも、人生に悩みを抱えているのだろうか。私が抱えている命題も、多様な悩み事に溢れる現代社会では取るに足らないことなんだろうか。


 過労とか年金問題とか、現代人が直面する問題は無限と言っていいほどあるわけで。


『やっほー。詩ちゃんって夏休みはいつからなの?』


 悩める私に少々気が早すぎるメッセージが届けられた。

 まだ5月の下旬、夏休みは2か月も先だ。


『7月24日から9月9日までです』

『そうなんだ、カレンダーに入れておく』

『小戸森さんはどうなんですか』

『未定かな。休み自体は4日あるんだけど、どの日程で取るかは直前まで決めるのが難しいんだよね』



 社会人は大変らしい。夏休みが4日って、それは休みと呼べるのか。ちょっとした連休という認識の方が合っている。まぁ学校のように予め期間を定めるのではなくて、各々が好きなタイミングで取れるのは良いのだろう……日数が短いし予定も立てづらそうだけど。


 そういえばうちの両親はお盆の期間は帰ってくるだろうか。一昨年は何の気まぐれか帰ってきて、去年は帰ってこなかった。予告もなく帰ってくるものだから、風通しが悪くなったように重たいお盆を過ごしたのは記憶に新しい。


 年がら年中就業中のワーカホリックたちは、帰る時も連絡を寄越さない。長らく顔を合わせなかった娘とは挨拶も交わさず、自室のベッドで眠ったかと思えば翌日の早朝には家を出発する。


 自宅の存在意義はベッドとシャワーだけ。帰りを待つ娘に用はない。それがあの両親だ。

 よくもまぁ過労死しないな、などと感心しつつも心は摩耗していく。仕事人間が家にいると自分の空間が侵食されて、勝手知ったる我が家ではなくなってしまうから。


『休みの日程が決まったら連絡するね!』


 文末に太陽の絵文字が添えられていた。

 早くも夏を意識しているのだと思うと、なんだか可愛らしかった。


 夏休みが待ち遠しいのも去年以来だ。今年はどんな夏休みになるかな、ほとんど肌色になった首筋のキスマークを撫でながら期待に胸を膨らませる。

 あの親は私の行動に一切干渉しない。小戸森さんと会うだけであれば説明する必要性もなさそうだ。


 ……小戸森さんと会うことができたら次は何をしよう。深いキスを際限なく交わした私は、高まる興奮を抑えられなかった。すんでのところで踏み止まることができたのは運が良かっただけ。あのままでは2回目の本番を迎えていた。


 思い返すだけで血液が沸き立ち、上半身が発汗する。

 あんなキスをされたら致し方ない。蒸気した表情が眼前にあったら致し方ない。よって、私は悪くない。


 唇の触れた箇所にジワリジワリと熱が籠るのも、もっと触れて欲しいと思うのも。小戸森さんがこう、上手いのがいけない。

 しかし本番にまで及んではいけない、明確な訳がある。


 私とあの人を繋ぐのは「失恋」というキーワードだ。たったの1単語を私は頼りにしている。半年弱だ。半年という期間が長いか短いか、その判断は個々に委ねられる。


 私にはある程度の長さであっても、付き合いの長さとしては些か頼りない。1度は体を重ねて、他にもキスや買い物をして、幾許か濃密な時を過ごしてきた。

 けどそれだけだ。私とあの人との間には決定打がない。関係性を強固なものにする決定打が。


 関係を終わらせる決定打はあるけど、終わらせずにいるための決定打は、少なくとも私の手中にはなかった。

さらに言うと、小戸森さんから前者の意味での決定打を切り出されないか、毎日冷や冷やしている。


 他の子とはどう関係を終わらせたんですか、なんて聞く勇気はない。火の中にダイブするなんて自殺行為だ。自分がその一例になる危険性もあるし……。


 ということで順繰りに考えた結果、最初の命題に戻ってくる。

 思考回路は堂々巡りしているのに、経路が染みついた脚は自動で通学路を辿る。思考も通学路と同じくらい、決まりきったものならいい。


「あ、すみません」


 小戸森さんとの夏休みを如何様にするべきか検討していると、誰かにぶつかった。

 私の手からスマホが落ち、歩道に衝突して軽快な音を立てる。

 頭を下げて、スマホを拾うためしゃがむと、頭上からは何人かの話し声が降ってきた。


「こっちこそごめ――んんっ?」


 ぶつかってしまった張本人は謝りかけて、驚いたように目を見開いていた。

 聞き覚えのある声と初対面ではない顔に、私の動きも止まる。


ともえ、どうした?」

「知り合いとか?」


 グループで下校していたらしい女子が巴という名を発する。

 気だるげでどこか冷めた瞳には心当たりがある。

 その者が巴という名前なら、私の中に該当する人物は1人しかいない。


「奇遇じゃん」


 巴と呼ばれたその人は口だけ笑ってみせた。

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