番外編2:彩里の鬱屈

 高校3年直前の春休み。現役受験生としてより良いスタートを切るために、わたしは予備校の春期講習に通うことになった。

 進捗はそれほど芳しくない。

 寝ても覚めても詩の悲痛な表情が脳裏をよぎるからだ。


「皆より一歩先を、ね……」


 予備校の看板にでかくプリントされた、受験お決まりのフレーズを呟いてみる。


 この手の決まり文句はいろんな予備校の広告やパンフレットで見かけた。意識が高い学校では進級前の春休みを「0学期」なんて呼んでいるらしい。わたしは春休みを学期として認めるほど勉強家ではないけれど、言わんとしていることは分かる。


 だけどわたしは1歩どころか、半歩でも先に進めているだろうか。周りのライバルではなく、昨日までの自分自身と比べて、前進できているだろうか。

 講師によるテキストの解説を聞きながら自問自答する。


「えー、橘さん」

(前進なんかできてない……詩は冬休み明けでもう)

「橘彩里さん?」

「はっ、はい!」


 自問自答の連鎖に陥った私の前に先生が来て、怪訝そうに見下ろしていた。

 音もなく前にいられると心臓に悪かった。


「体調が悪いなら専用のスペースで休憩を取るか、早退もできますが……」

「いえ、大丈夫です。授業を中断させてしまい、すみません」


 わたしは先生の言葉を遮り、教室内に残ることを選んだ。

 先生は途切れたところから解説を再開させ、黒板の方へと戻って行く。


 音を立てないよう軽く頬を叩き、開かれたテキストに目を向けた。

 今わたしが解くべきは詩や自分への問いかけではなくて、眼前の問題だ。そう言い聞かせ、読めていなかった文章を一行目から追っていった。


 約2ページ半に渡るこの大問は小説の読解だった。作者も作品名も知らない長文は、現在の自分を描いているようだった。己の能力や性格に不安を抱いた主人公が、共に歩んできたパートナーに別れようと言ってしまう。別れを切り出した主人公は己の言動を悔やみ、鬱を患いバッドエンドを迎える。そんなものだった。


(勘弁してよ、もう……)


 今すぐ両目を覆いたくなった。


 あまりにタイムリーというか、勉強の一環として事務的に処理するには深く刺さり過ぎる。主人公と自分とが重なって、その作者に非難されている気がしておかしくなりそうだったのだ。


 だからわたしは授業後半も聞き流した。

 受講料を無駄にしているようで、払ってくれたお母さんには申し訳ないけど……。


「詩から連絡、来ないかな……」


 帰宅して自室に戻ったわたしは、せめて春期講習の課題はちゃんと片付けようと思ったけど、やっぱりテキストを開いただけで1ページも進まなかった。


 詩のことで気が散っている。スマホをチラチラ見ては、新着通知がないかこまめに確認する。詩からのメッセージを無責任にも心待ちにしている。詩から送ってくる義理はなくて、道理を通そうとするならわたしから送るしかないのに、だ。でも今さらどんな顔をしてメッセージなんて……。


 今日の授業で呼んだ小説を、ふと思い出した。別れを告げられたパートナーはどうなったことか。本を買って続きが読めれば分かるのか。それとも作中では描写がなく、作者のみが知っているのか。


 考えてもどっちが正しいか知る術はない。

 だって、実在する詩のことですら私は知り得ないのだから。愛されることに飢え、他者との接し方も教えてもらえず、衝突と別れしか経験できなかった詩を放り出した。放り出された詩からは目を背け続けている。


“じゃあ彩里ちゃんは、お姉ちゃんだね!”


 幼き日の詩の声が耳の中で再生される。


 知り合った時、既に詩は独占欲が強かったように今は思う。仕事バカの両親とはいえ、小学生の一人娘だけで留守番させるほど育児放棄はしていなかったらしい。交代で父親か母親が帰ってくるようになっていたと、詩が言っていた。


 でも帰ってきても親子で話すことはなく、卒業までの6年間で会話という会話は特になかったそうだ。

 親との繋がりすら希薄だった詩が誰かと強く繋がっていたいと思うのは自然なことで、そういう気持ちが強くなってしまうのも詩の責任じゃない。


“詩ちゃんが妹になるのか~。可愛い妹ができちゃったなぁ”


 兄弟姉妹がいなかったわたしは、たどたどしい声で「お姉ちゃん」と呼んでもらえたことがとても嬉しかった。

 それが、未熟な責任感と使命感の始まりだった。

 

 ほとんど毎日、詩かわたしの家で一緒の時間を過ごしていた。学校でどういうことがあったか、給食で嫌いなものが出たとか、通知表のコメント欄がどうだったとか、話題は尽きなかった。姉妹ってこんな感じなのかな、と2人でいる時間を大切にした。頼りにしてくれる詩が可愛くて、孤独な詩を自分だけが癒してあげられると、当時は本気で考えていたから。


 詩の両親とはほとんど会えなくて、わたしのことをどう思っていたのかは尋ねたこともないけど。


 だけど小学校最後の年、わたしは家の都合で引っ越すことになった。両親が離婚すると言い出したのだ。争いの火種は知らないまま育ったけど、どっちが引き取るとかどこに引っ越すとか、その頃は連日のように口論していた。


 泣きじゃくる詩を置いていきたくなかったけど、逆らうだけの力をわたしは持っていなかった。もっと言えばわたしも自分のことで手一杯になっていたし、誰かの世話をする余力も残されていなかった。


“彩里、新入生の子が呼んでる”

“新入生が?”


 心の隅に置かれていた感情が脆くも崩れたのは高校2年の春先のことだった。

 高校で地元に戻ってきたわたしは、入学してきたばかりの子に名指しで呼び出されるほど有名じゃなかったし、知り合いの後輩が入学するという報せももらっていなかった。

 しかしわたしの疑問はその人物に会って間もなく解消された。


“彩里ちゃん、いきなりごめん。私のこと覚えてる……?”


 濃紺のブレザーに青いリボンを結ぶ新入生は、紛うことなき昔のお隣さんだった。


“詩……?”


 制服を着用すると別人のようだけど、この顔立ちには見覚えがある。

 不安定に揺れる瞳が何より雛本詩という存在を表していた。


“彩里ちゃん……こんな所で会えるなんて、嬉しい”


 思いがけない再会に感動すらしていたわたしは、ある日、告白された。

 人生で初めてだった。初めての相手は、詩だった。

 もちろんわたしは彼女の告白に応えた。詩のことは嫌いじゃなかったし、不本意な別れで過ごせなくなった空白の期間を、埋めていきたいと思えたから。


“彩里ちゃん、できれば私とだけ帰ってほしい”

“私は彩里ちゃんだけいてくれればいいから”


 しかし空白の期間の間に、詩の孤独は悪化していた。

 独占欲が強く、わたしにも人付き合いを強制してくるようになった。


“今は私といるのに誰と連絡してたの……?”

“ちょっと予定を返してただけ、だよ?話してる途中にスマホ弄りは良くなかったかもだけどさ……”

“なら私に毎日、挨拶以外にもメッセージをくれる?友達にできるなら私にも、してくれるよね……?”

“毎日って、詩とはこうやって登下校を共にしているわけだし、最近は友達と全然会えてもいないのに……”

“……っ、ごめん”


 最初に感じた苛立ちは徐々に疲労感や恐怖心に変化し、詩への想いは黒い感情となって渦巻いた。どこまでわたしの自由を奪うのか、と。


 詩の境遇にはわたしだって思うところがあるけれど、だからといって何が何でも詩を優先しなきゃいけないと、束縛されることを甘んじて受け入れるなどできなかった。


“詩、私たち別れようか”


 それらが爆発して、クリスマスデートの夜、わたしは詩を突き放した。

――ピロリン

 暗い回想に耽っていると、メッセージが来た。詩からではなく、友達からだった。

 軽い落胆と共に開いた通知欄には遊びのお誘いが書かれていた。

気分転換にと思い、わたしは遊ぶことにした。

「速すぎでしょ、ここのジェットコースター……!」

「頂上から下るのマジで無理!めっちゃくちゃ怖かったわ!」


 メッセージをもらった翌日、わたしは友達と遊園地に出向いていた。地元民に根強い人気を誇る遊園地で、特に金銭面で不自由が多い学生層からはリーズナブルで朝から夜まで遊び通せると評判が良い。


 誘いを受けた私は詩のことで勉強に身が入りそうもないから、いっそ皆で遊んでしまおうと開き直ったのだ。


「彩里はどうだった?遊園地とか、数年ぶりなんでしょ?」

「うん。ジェットコースターは初めてだったし、速さより怖さがあったかな……」


 話を合わせてみたけど、本心としてはジェットコースターなんてどうでもよかった。

 この遊園地で様々なアトラクションに興じてきたものの、瞬きをしている間に終点に着いていた感じだ。

 ジェットコースターの速度も、お化け屋敷でのスリルも、フリーフォールの高低差も、詩に関するモヤモヤを吹き飛ばすには力不足だった。


「恋人と回ってみたいよね~」


 友達はクレープやアイスを片手に談笑していた。

 あれだけ胃や平衡感覚をグシャグシャに掻き回されて、よく食べられるなぁ、と感心する。

 わたしもベンチに座り、きゃあああっ、という絶叫マシンの乗客の叫び声を背後に一息ついた。


 傾き始めた太陽は今日という日の終わりを告げ、また大切な1日を無駄にしてしまったと後悔する。

 この1日があれば詩の件で何かしらできたはずでは?と内なる自分が責め立てる。


「彩里ってば、去年の年末と同じ顔してる」

「そ、そう?」


 何も飲み食いせず湧かず空を眺める私に、友達の1人がそう言った。

 年末というのはクリスマスパーティーに呼ばれた日のことだ。


「堂々と遊べるのは今月まで。来年までは受験で忙しくなるんだから、この機会にパーッとはしゃがないと損だよ」

「……わたしだけ、いいのかな。どうしたら楽しめるのかも、どうやって楽しんでいたのかも全然……」


 夕焼けを直視してしまい、目を細める。見たくない現実からそっぽを向くように。


「待って。まだ幼馴染の子のことで気を病んでるの?もうさ、どんだけお人好しなの、彩里は。よく耐えたじゃん。人間関係や行動を束縛するって何様なの?その幼馴染には悪いけどね」

「違う、そうじゃなくて」


 呆れ顔の友人にわたしは訂正を入れる。


「その子は本来、突き放されて2週間程度で立ち直れるような子じゃないの。それが思ったより落ち着いていたから驚いて、わたしだけがあの日のままなんだなって」


 失意の底に叩き落された詩は、暗闇の中で希望の光を見出したのだ。

 でなくば塞ぎ込んでいる。それがわたしの知っている雛本詩という子だ。


 前にも後ろにも進むことができず、出口のない暗闇の中で塞ぎ込んでいるのは突き落としたわたしの方だ。

 なんとも皮肉なことで救いの手は差し伸べてもらえない。


「そんだけ縛っておいて?会ったこともない子を悪く言いたくはないけどさ……彩里にだけ謝らせて自分は謝罪もしない、そんな勝手な子とは離れて正解だよ。ウチらだって彩里の立場ならそうする」


 わたしは頷きたかった。肯定してくれる友人の意見を無下にしたくなかった。

 だのにどんな言葉で肯定してみても、心にできた溝は埋まらない。

 己の行為を正当化しようと頑張ってみても罪の意識は拭えない。

 詩の束縛を耐えていた頃と同等の苦しみが、わたしの中に芽生えていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る