第10話

「詩ちゃんは色白だからね~、頬を少し赤系に染めるのが良いかな?その濃さを調節するのが難しいんだけど、一度自分の好みを見つけて慣れれば最高の自分になれるよ」


 小戸森さんが最初に目指したのは、メイク道具を売っているお店だった。

 大人女性の間では有名な化粧品専門店だそうで、確かに店内にいる客層はOLや大学生らしき人たちが多かった。

 逆に私のような子どもは見かけなかった。

 それだけで分不相応に思えてくる。なぜならお店にいる人は店員さんを含め誰もがキラキラしていて、陰鬱な人は私しかいなかったから。


「肌の手入れもきちんとしてて偉いよね、詩ちゃんは。この化粧水は余分なものが入っていなくて効果もあるって業界では話題なんだよ?でもこれを詩ちゃんにオススメしたら、もっと綺麗になって悪い虫が――」


 つらつらと専門的な話を繰り広げる小戸森さん。心なしか生き生きしているのは、こういうものが好きだからだろうか?

 私は特別興味があるとは言えない。


 彩里ちゃんと付き合っていた間は、隣に立つ者として恥じないよう努めていただけで、その彩里ちゃんがいなくなれば私がメイクやスキンケアへの情熱を失うのは必然だったのだ。


 寝起きや入浴後のスキンケアは惰性で続けているけど、新作のコスメを進んで試すほど関心は持てない。


 大体こんなものは学校の規則で禁止されているのだから、興味を持ったところで何になるというのか。休みの日に自己満足のおめかしをする?先生にバレないようにナチュラルメイクを覚える?目的がどっちであれ、少なくとも高校生、それも意中の相手がいなくなってしまった私には詮無いことだ。


「聞いてる?」

「……え」


 ふと顔を上げると、鼻先が触れそうになるくらいの至近距離に整った顔があった。

 性別を問わず皆を魅了するその顔に、息が詰まりそうになった。


「詩ちゃん。さっき言ったよね、悲しむのは禁止だよって」


 幼子に言い聞かせるように、小戸森さんは柔らかい声で言った。


「悲しんではいませんけど」

「じゃあどういう心境だった?」

「……自分という人間が空っぽで、虚しかっただけです」


 言葉にしづらい感情故に、少し考えてから答えた。

 自分自身に対して悲しみを覚えていた……ことにもなるのかな。でも悲しみより虚しさが勝っていたのは本当だ。

 私の大部分を構成していた彩里ちゃんが失われれば、自然あらゆることへの意義をも見失う。彩里ちゃんに好かれなければ、どんな誉め言葉も行為も無意味なのだ。


 それはつまり、私という個人は他者に認められることでやっと存在意義を得るということで、私の場合はその認めて欲しい相手が彩里ちゃんで、彩里ちゃんに愛されない私は動く容器に入れられた、ただの無機物でしかないという結論に至る。


 私を愛してくれる人はもう、この世にはいないのだ。両親も、友達も、彩里ちゃんも。

 誰の愛情ももらえない私は、虚しさと悲しみ以外、今後の人生でどのような感情を抱けるのだろう。


「……よしよし、ここで待っててね」


 小戸森さんは軽快な足取りで入口付近のカウンターに向かった。

 手には大人の常識とも呼べる小道具が握られており、その精算をしているのだとすぐに分かった。


 小戸森さんのような、綺麗で愛想があって笑顔を多方面に振りまける魅力的な人がそれを塗れば、より一層輝かしく、私の手の届かない人になってしまうんだろう……。


「お待たせ、とりあえず出ようか」


 1分と待たずに小戸森さんは買い物を終え、次の行き先を教えてくれないまま店を出た。

 手には商品が、袋に入れられないまま握られていた。


「詩ちゃん、こっち」


 腕を引かれるまま公園に連れられた。

 空いていたベンチに小戸森さんと並んで腰掛けた。

 先ほど購入した商品のキャップを外し、容器の下部をくるくる回して赤色の本体が出てきた。

 色合いを確認し、満足そうに頷く小戸森さん。


「詩ちゃん。じっとして、動かないでね」

「なんでで――んむっ」


 その直後、白くて細い綺麗な指が私の口元に伸びてきた。

 適度な弾力を持った質感が私の唇に触れる。次にしっかりとした質感を持った何かが私の唇を、右に左にと何度か行き来した。

 口紅だ。小戸森さんが買った口紅が、小戸森さん本人が使うと思っていたそれが、私の唇に塗られている。


「完璧!」

「どうして、口紅を……?」


 この行動の意味が掴めず、ニコニコしている小戸森さんに問いかけた。


「だって口紅は唇に塗るものだから」


 他に何か?とでも言わんばかりの顔で小戸森さんは座っている。

 口紅の用途などわざわざ聞くまでもなく、普段使わない私だって知っている。常識的な回答が聞きたかったわけじゃない。


「違うよね、詩ちゃんが知りたいことは」


 私の心の内を察したように、冗談めかしていた小戸森さんは真面目な顔で説明してくれた。


「私は詩ちゃんのことを気に入っているんだよ。でなきゃこうして口紅を塗ったりはしないから……私の想いが、詩ちゃんを好意的に捉えている人もいるんだよってことが、伝わってくれたら良いな、と」


 私のハンドバッグに開封したばかりの口紅を滑り込ませ、そして水が川を流れるような淀みのない動作で


「……んっ」


 私の唇が塞がれた。

 しっとりとした温もりが私の唇の上に重ねられ、存在感をこれでもかというほど主張してくる。


「…………!!?」


 ほんの一瞬の出来事だったはずなのに、小戸森さんの唇の感触が私の体中を侵食する。

 唇同士が離された今もなお、小戸森さんに触れられている感じがしてしまう。


「あっ――ごめん、詩ちゃん」


 私がぽけぇっとしていると、珍しく小戸森さんが頭を下げた。

 口紅を塗られたところから、いきなりのことが多すぎて頭が処理しきれていない。


「本当は口紅を塗って終わりのはずだったんだけど、いつも以上に色っぽくなった詩ちゃんを見てたらムラムラしちゃって――詩ちゃん?」


 両の手を空中で振りながらなされる弁明を聞いて、私は理解した。

 あ、キスされたのか、と。

 しかし不思議なもので、小戸森さんにキスされたことは嫌じゃなくて、なんなら凝り固まった背筋に微電流が流れたかのような気持ち良さがあった。


「あの、謝ってもらわなくても、別に私は怒ってませんから」


 私が素直な心境を述べると、小戸森さんはキョトンとした。

 大方あの日のことを思い出しているのかも。


「クリスマスの日の反省というか、こういうの、やっちゃダメかなって」

「あれは私の初体験を奪ったからですよ。でもキスは彩里ちゃんと何度かしているので、初めてを奪われて……とまでは思いません」

「流石にファーストキスじゃなかったよね、残念」


 露骨にがっかりして肩を落とす小戸森さん。

 チャンスがあったらファーストキスまで奪うつもりだったのか……待てよ、そもそもホテルで行為に及んだ時にもキスをされたのだろうか。記憶が曖昧で思い出せない。


 されていたとしても、どのみちファーストキスは遥か昔に済ませていたから良いのだけど……。

 やめよう、このことについて考えるのは。変な気分になってきた。


「さてと、次は小腹を満たしに行こうか」


 これまた自然に私の手を取って小戸森さんは歩き出す。

 お次はどこに連れて行ってくれるのだろう。

 小戸森さんといる間は少なからず孤独感が癒され、生きていることを実感できる。


 自分が魂の入れ物ではなく、きちんとした生物であると思うことができる。

 そうさせてくれる小戸森さんがいる場所でなら、私は多少なりとも生きていることを楽しめるかもしれない。

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