第9話
「だいぶ早かったなぁ……」
小戸森さんと会う当日、私は駅前の広場で立ち尽くしていた。
大型連休だけあって駅周辺は走れない程度には混雑していた。家族連れや友達同士、カップルらしき人々など、たくさんの人たちが足早に歩を進める。
私はというと広場に設置された時計を見て、小戸森さんが来るのを待っていた。
時計の針は約束の時刻の45分前を指していて、つまり小戸森さんが遅れているのではなく私が急ぎ過ぎたようだ。
ここまで早く来てしまうと自分が馬鹿らしく思えてきた。遠足前で落ち着きを失った子どもじゃあるまいし、もっと出発時間を調整することはできたはずだ。建物の間を吹く風で髪もボサボサになってしまうし、つくづく自分のこういう部分には溜息が出る。
「会いたかったよ、詩ちゃん。初詣以来かな?」
「……お、お久しぶりです」
しかし私が来て5分と経たずに小戸森さんも到着した。
30分以上前に来るとは露ほども考えておらず、挨拶に驚きが乗ってしまった。
あとそうなってしまったのは、自分が思っていたより早く来てくれたから、だけではない。
「ん?」
その容姿から視線を外せなくなった私に、小戸森さんは小首を傾げた。
控えめに言って小戸森さんは綺麗だった。
惜しげもなく露出した鎖骨と素肌は大胆なのに上品な感じがして、ひらひらと揺れる袖は可愛くて大人な印象を私に与える。
足首まで丈のあるロングスカートも見た目の重さが全然なくて、この人が着るとなんでも羽のように軽くなる気がした。
その綺麗さに、男女を問わず道行く人々が小戸森さんを横目に見て、通り過ぎて行った。
「そのファッション、可愛いね」
言葉に詰まる私に、今度は小戸森さんが口を開いた。
途端に身体の奥から熱が込み上げる。胸がジワジワと温かさで満たされ、頬や耳まで熱を帯びた。
手でパタパタと顔を扇ぐけど熱さは消えてくれない。
「う~ん……こんなに可愛いとお持ち帰りしたくなっちゃうなぁ」
昼間からとんでもない発言をする小戸森さんだけど、そういうことをサラリと言ってのけるこの人の誉め言葉は、決して社交辞令ではないのだろうと思えた。
「もう私、実際にお持ち帰りされましたけど」
「かなり早く来ていたみたいだけど、そんなに楽しみにしてくれていたのかな?」
約半年前、クリスマスの日にホテルへ連れ込まれたことを言うと、小戸森さんはガン無視して話を逸らした。
「楽しみっていうか、こういうの久しぶりだったし、家にいてもやることなかったので」
「つまり、楽しみにしてくれていたんだね!」
「はぁ……そういうことにしておきます」
小戸森さんのペースに呑まれて、訂正するのも面倒なのでそういうことにしておいた。
どこか浮かれていたことは事実だったし、ただそれを素直に認めるのは少々癪なだけで……。
「よ~し、詩ちゃんの期待を裏切らないよう、しっかりエスコートしないとね」
私の手を取り、小戸森さんは軽快に歩き始めた。
まだ歩き出したばかりだというのに、独りで待っていた数分前の景色とはまるで違って見えた。
世界は色づいて、小戸森さんに釣られるように私の足取りも軽くなっていく。
「それでどこに行くんですか」
「まぁいろいろ?見たいもの、買いたいものは沢山あるから」
私に歩幅を合わせて歩く小戸森さんはニマニマするだけで、詳細を教えてくれなかった。
頭上から柔らかい声が降ってくるのはまだ慣れなくて、それでいて嫌な感じはまったくしない。
彩里ちゃんとはまた異なる柔らかさを内包していて、この人になら身を委ねても良いのではないか?そう思ってしまう安心感がある……。
「……小戸森さんはなんで、そこまでできるんですか?」
「えっ?」
キョトンとする小戸森さんを見て、しまった、と思った。
半年近くに渡って私なんかの相手をしてくれることが夢みたいで、この夢が覚めてしまわないか考えてしまったのだ。
私にとって都合が良すぎて、これは夢なんだよと言われても疑わないだろう。
彩里ちゃんと過ごした時間だって、実際に体感したはずだったのに、別れて半年も経つと幻の中を彷徨っていたように錯覚している。
建造物を補強してくれる支柱のような、確かな下支えなど私と小戸森さんの間にはない。
だけど小戸森さんが引っかかりを覚えたのは、そこではなかったようで……。
「詩ちゃん……」
「は、はい」
「私のこと、名前で――」
ドン引きされただろうかと不安を抱いた私に小戸森さんが示した反応は、嬉しさと興奮に満ちていた。
あっ、と遅れて気付く。
この人に気を許しすぎていたようだ、と。
「ふふっ、詩ちゃんが苗字とはいえ名前で呼んでくれるなんて最高だね」
柔らかい、たおやかな笑みを浮かべる小戸森さん。
その笑顔は、童心に帰ったかのように屈託がなかった。
私には一生涯かかっても生み出せないであろう笑顔に、私の意識は持って行かれそうになった。
「別に……名前で呼ばれることくらい、よくあるんじゃないですか」
「名前は仕事で毎日呼ばれるけどね。興味ない相手から機械的に呼ばれるよりさ、自分が気になる子に呼ばれた方が嬉しくない?」
詩ちゃんに呼んでもらえるのを心待ちにしてた、と小戸森さんは付け足した。
その心理は分からないでもない。自分が一番に想い、また一番に想ってくれる人から呼ばれたらそれが理想だ。
そう、あくまで理想。現実的ではなく、もう幾度と失敗していることだった。
「なんなら下の名前で呼んでくれてもいいんだよ?」
「それはちょっと、早い気がしますけど」
小戸森さんは舌をペロっと出して、茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。
あぁもう、なんでこの人はこんなに笑顔が似合うんだろう。
相手に合わせてメッセージを毎日送ったり、遊ぶ予定を立てたりするのは体力も気力もいることだと私は考えている。
これまで接してきたかつての友達も、恋人として一緒にいた彩里ちゃんも、そうだったから。
求めることしかできない私に、小戸森さんのような笑顔を作ることは一生できないだろう。
「詩ちゃん」
「……はい?」
突如、小戸森さんに腕を引っ張られた。
負のループから引っ張り上げるように、小戸森さんは私の腕を掴んでいた。
そしてそのまま背中に両腕を回され、上半身がそっと包み込まれる。
「こ、えっ!」
「詩ちゃん。私といる時は悲しむの禁止だからね」
耳元で囁かれた。
硬直した背骨が良い具合にほぐれ、私は小戸森さんに体重を預けた。
確かな柔らかさが私を受け止め、しばらく感じられることのなかった他者の温もりが私を惹きつけて離さない。
私から小戸森さんの背中に両腕を回してしまいそうなほどに。
「私と2人でいる間は歓を尽くしてもらわないと」
小戸森さんはウィンクしながら言った。
5月の陽気が私と小戸森さんの間を吹き抜ける。
「歓を尽くすって、どういう意味ですか」
「楽しむってこと♪」
本日何度目かの笑顔に、私は吸い寄せられるようにして歩き出した。
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