第4話

 年末。独り静かに家の中で過ごす私は、毛布にくるまって時が過ぎるのを感じていた。

 私の息遣いしか聞こえない家の中に、除夜の鐘の音が微かに響く。空っぽな私の心にも虚しく響いた。


『あけましておめでとう!今年もよろしく』


 新年、日付が変わってすぐにメッセージが送られた。

 内容は見慣れた新年の挨拶で、送り主は見慣れない人だった。


 名は小戸森風香。クリスマスイブの日に失恋した私の前に現れた、失恋ハンターを名乗る女。悪いお姉さんと自分で認識している通り法律を平気で破っているのに、どこか安心感すら与えてくる、存在自体が矛盾している謎の女。


 共に過ごした時間が2日にも満たないあの女との最大の出来事は、私の処女が奪われたこと。


 気持ち良くて心地良くて、頭だけじゃなくて身体でもそれを覚えている。うわぁ、忘れたい。いや忘れたくはない。

 あの時だけは彩里ちゃんのことを忘れることができたのだし……。

 人が弱っている所につけ込むのがどうかというだけで。


『あけましておめでとうございます』


 どう返信するか考えた末、短く、シンプルに返した。

 今年もよろしくお願いします、とまでは言う必要がない。大事にしていた処女を、しかも未成年のそれを奪うような奴と、よろしくされるほど長く付き合う気はないから。


『初詣に行かない?』


 数分と待たずして返信が来た。内容は、初詣のお誘い。


 さて行こうかどうしようか……。私としては行っても行かなくても、どっちでもいいというのが本音だ。行列に待たされてまで願いたいことなどなかったし、願ったところで神様が解決してくれるわけでもなし。


 ならば寒い空の下で待つことなんてない。つまり、行く必要がない。

 それに行こうと思えば1人でゆっくり行けるわけだし、毎年そうしていた。今年だけわざわざこの女に合わせる必要もない。


『別に行かなくてもいいかなって』


 行きたくなったら行こうとしか思わなかったので、とりあえず断った。

 そしたらまたしてもすぐに返信が来た。


『お正月といえば初詣だよ?行こうよ~』


 この女はスマホに張り付いているのだろうか。レスポンスが速いのは良い心掛けなんだろうけど。


『なんであなたと行かなきゃいけないんですか』

『詩ちゃんは私と行った方が楽しいと思うから』

『決めつけないでください』

『ご両親は?家に帰っているの?』


 初詣から話が飛んだ。

 ちなみに両親は帰宅していない。お母さんもお父さんも、晦日には帰ってきた。その後はまた慌ただしく他の国に旅立ってしまった。


 年末年始だというのに私より仕事の方を選ぶ両親の価値観は、どういう形を成しているのだろう。新年だから、節目だから、そういうことを一切考えないのだ。


 物心ついた時からそうだった気がする。どちらか片方を家で見かけることすら稀で、両親が揃って帰るのは1年に1回か2回あれば多い方だ。


『それ、関係ありますか?』

『帰ってないんだね。じゃあ私と初詣に行こう!今からでもいいよ、今日だけは一晩中電車も動いているわけだし』


 親がいないことを言い当てて、勝手に話を進める女。

 何が「じゃあ」なのか分からない。年末年始に終電はないけど、それは私が初詣に行かなければいけない理由としては不十分というか。


『午前中でもいいよ』

『1人で行けばいいじゃないですか』

『じゃあ他の子を誘って行こうかな』


 返信が表示された直後、心が暴れ狂いそうになった。

 ……は?今、私を誘ってたんだよね?1人で行けって私は言ったのに、その返しが他の子を誘うってどうなの?

 そんなこと、あってはならない。


 ただでさえ私は家で静かに、空虚な時間を過ごしているのに。お父さんもお母さんも彩里ちゃんも、誰もいなくて心が押し潰されそうなのに。

 机の上に立てかけた、彩里ちゃんとの写真が私の胸を深淵に突き落とす。

 恋人という心の支えを失い、この女までいなくなったら、私は――


「……そんなことない。あんな悪い女がいなくたって」


 思いかけて、頭を壁に叩きつけた。あの女に対して抱くはずもない感情を振り払い、言い聞かせる。

 日頃から寂しさを感じていたとて、あんな得体の知れない女がどこの誰といようと、無関係のことのはずだ。


 奴は私の大事なものを奪った仇で、法律的にも個人的にも許せない奴で、妙な安心感があって、大人のホテルで交わった中で。

 ……ダメだ、考えるのが億劫になってきた。


『行けばいいんでしょ、行けば』

『そうこなくちゃ』


 抵抗するのも面倒になった私は、折れて女と初詣に行くことにした。

 女が連投で時間やら待ち合わせ場所やら送ってくるのを横目に見つつ、私の意識は深い闇の中に落ちていった。

「あけましておめでとう、詩ちゃん!」

「……おめでとうございます」


 澄み切った空の下、待ち合わせ場所で私の顔を見るやいなや、この女は爽やかな笑顔と声で新年の挨拶をしてきた。

 アプリでもやった件なので返事は適当にした。

 新年早々これほど明るい気分でいられるのが羨ましい。


「浮かない顔だね?」

「そりゃ、年が明けて声を聞くのも顔を見るのもあんたが最初だなんて」


 両親からはメッセージも電話もなかった。

 小学校を卒業するくらいまでは電話してくれていたけど、中学に進学してからは一切連絡してくれなくなった。両親にとって、私と年を越すより仕事の方が大事なのだ。


 それでも今年は本当なら彩里ちゃんの声が聞けるはずだった。彩里ちゃんと一緒に初詣に来るはずだった。あの日、別れることになれなければ……必然的に、最初に聞く他人の声は小戸森風香という因縁の相手になって。


「その組み合わせ、可愛いね。緩やかなシルエットに淡い色合い、なかなかにセンスがあるね」

「あ……ありがとう、ございます」


 不意に服装を褒められて、反射的に礼を述べてしまった。

 こんな不信感しかない奴に可愛いと言われても、より胡散臭さが増すだけ。これはそう、誰かから良い評価を得るなんて久しぶりのことで、頭が正常に作動しなかっただけだ。


「でも詩ちゃんが選びそうな感じではないんだよねぇ」


 女は不躾に私を眺めながら独り言を呟いていた。

 そしてその独り言は、正解から中らずと雖も遠からずだった。


「さては彩里ちゃんって子の好みとか?」

「……っ」


 分かっているのなら言わずにいてもらいたい。

 そう、今着ている服装は基本的に彩里ちゃんが良いと言ってくれたものだった。というかこれ以外にも私のタンスに仕舞ってある衣服は、ほぼ彩里ちゃんのウケを狙ったものばかりだ。


 友達ですらない女との初詣に彩里ちゃん好みの服装で来たのは、事故だ。気合を入れたかったわけじゃないし、手持ちがそれしかなかっただけで、好んでやったことではない……。


「詩ちゃんの健気なところ、好きになりそう」

「それはどうも……」


 呼吸でもするかのようにサラッと言ってのける女。耳たぶが熱くなって、同時に不信感が増した。

 この人と過ごした時間は浅い。内容だけ見れば十分に濃いとは思うけど、今いるこの時を合わせてもせいぜい2日や3日といったことろだ。私の何をどう好きになるのか、さっぱり分からない。


「いつか2人で洋服でも見て回ろうか」

「不思議なことを言いますね。服を見て回る仲になるくらい長く付き合うつもりなんですか」


 この女は何を言い出すのか。その「いつか」なんて来るはずもないだろう。

 私とこの女を繋ぎとめるものは何一つなくて、いつ切れてもおかしくないのだから。


「ん~、新年初売りセールで買うこともできるね」

「私が言いたいのはそういうことではなく……」


 すっとぼけたように言う女。福袋にお目当ての品でもあるのだろうか。

 私はお正月特有の福袋争奪戦で揉みくちゃにされたくはないし、されていいと思えるほど欲しい物は初売りの中では売っていない。

 洋服など買わずに、参拝が終わったらすぐ帰宅するに決まっている。


「私はいいよ。詩ちゃんが望むなら」


 女は強く言い切った。私の迷いを断ち切るように、強く。


「だから洋服は要らないって――」

「詩ちゃんが望むなら、私は傍にいるよ。どれだけ長くなっても、1年でも2年でも」


 その刹那、心臓が実感を以って動き出した。

 心を覆っていた氷の殻に一筋の温かい光が差し込み、全身に血が通い始める。


「確か、立ち直るまでって言ってませんでした?」

「よく覚えてるね。すぐに立ち直る子もいれば、なかなか立ち直れない子もいるでしょう?例えばもし詩ちゃんが半年くださいって言うなら、喜んで詩ちゃんに半年捧げちゃうよ?」

「随分と気前がいいことで」


 女の言葉が荒涼とした胸の内に恵みをもたらす。

 しかしその内容は自分にとってあまりに都合が良すぎて、手放しで受け入れることができなかった。額面通りに受け取れるほど自分の性格と失敗を過小評価はしていない。


 口ではそう言いつつ、結局は離れていくのではないか?そんな不安は尽きない。

 過去にいた友達も、幼馴染にして恋人であった彩里ちゃんも、私から離れることを選んだ。いや、私がそうさせてしまった。


「ていうか早く神社に行きませんか」


 冷たい風に負けそうなので、早くお祈りを済ませて帰りたい。


「詩ちゃんからそう言ってくれるなんて……積極的になってくれて嬉しいよ」

「寒いから早いこと行きたいって思っただけですよ!」


 勘違い女にしっかりと訂正しておく。積極的になれるほどこの人を信用していないし、いちいち冗談に付き合っていたらキリがない。


「それもそっか。よし、目的の神社まで出発!」


 ようやく女の無駄話が終わった。思い出したくないことを掘り起こされて、新年初日だというのに分厚い雨雲に覆われているように気分が優れない。

 私の歩幅に合わせて歩く女は、改めて見ると私より頭一つ分は背が高かった。

 背筋がピンと伸びている分、さらに高い印象を受ける。


「どうかした?」

「……なんでもないです」


 彩里ちゃんが隣にいないのは今でも違和感がある。この場合、違和感というより喪失感と表現するのが正しいのか。

 私と彩里ちゃんの背丈はほとんど変わらなくて、目線の高さが合わないことはなかった。

 

 しかし目線が変わらなくても、世界の見え方まで同じとは限らない。

 この女は私のことをどう見ているのか。長く付き合うつもりなんてないのに、それが気になって仕方なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る