第7話

 いったい誰がこの展開を予想できただろうか。


 まさか我が女神さまが降臨なさるとは思ってもいなかった。それは先輩も同様だったみたいだ。驚きの表情で数秒固まったままだった。


 僕がとっさに「いらっしゃい」というと、先輩もつられて「ようこそ」と言って、僕の隣の席へと案内した。「ありがとうございます」と言った拝島さんは先輩のスクールバックと同じパイプ椅子の上へと置いて席に着いた。


 僕はすぐに立ち上がって先輩の隣の席へと移動して先輩に溢れんばかりの想いをできるだけ小さい声で話した。


「拝島さんが、入部希望とは、奇蹟に違いありません。先輩、国賓級のおもてなしの必要があります。はやく、harry up‼」


「春斗くん、耳元でうるさい」と先輩はめちゃくちゃ低い声で応戦してきた。


「はっ?何かっこつけているのですか。ここは和菓子とお茶を用意して、おもてなしをしなければならない場面ですよ‼お茶菓子と抹茶をすぐにここへと‼」


 僕はあくまで冷静沈着を装って先輩へと耳打ちをし続けた。


 すると先輩は射貫くような鋭い視線を僕へと返したのだった。


「そんなものあるわけないでしょっ‼」

「なんだと……では、どうすれば……」

「しらないわよ。なんで、よりによって拝島舞さんがうちらの部活に入りたがるのよ」

「え、いや、それは……どうしてだろ?」


 言えない。拝島さんの本心を軽々しく言えるわけがない。あの陰りを持った拝島さんの姿がフラッシュバックした。それを咄嗟に打ち消して、少し戸惑いながらも僕は、お茶を濁すことしかできなかった。


「あの……お話し中すみませんでした。何度かノックしたのですが、返事がなくて……それで、強くノックしたのですけど……出直して来た方がいいですよね。アポイントなしで伺ってしまいすみません」


 拝島さんはわずかに震えた声で申し訳なさそうに謝った。


「いやいや、これっぽちも少しも拝島さんは悪くないから!先輩、そうですよね⁉」


 先輩にアイコンタクトを送り、何とか拝島さんをフォローするように先輩に援護射撃を頼む。そんな僕の思惑をすぐに感じ取った先輩は、阿吽の呼吸だった。


「全く持って春斗くんの言う通り‼むしろ拝島さんはベストタイミングでの登場だったのよ!!満を持しての期待の新入部員登場‼」


「よっ、明眸皓歯、才色兼備の期待の新入部員‼」

「よっ、山紫水明、白砂青松の華麗な新人部員‼」


 その後、数分の間、僕も先輩も謎のテンションでとにかく、拝島さんのフォローになる言葉を口に出した。


 何か根本的に方向性が違う気がしなくもない。

 しかし思いつく限りの賛辞の嵐を拝島さんへと浴びせて、どことなくやり切ったという満足感と少しの疲労感を漂わせた文芸部二人の姿がそこにはあった。

 まさしく黒田春斗と水無葵だった。


「その……二人とも私を褒めてくださっていてくれたことはわかりますが……」


 拝島さんは、少し頬がひきつった苦笑いをこぼした。その拝島さんの芳しくない反応から結論付けられることはただ一つ。


 僕たちは致命的で絶体絶命なミスを犯してしまったという事実だった。


 完全に文芸部の第一印象は、奈落の底に突き落とされたようだ。


 このままではいけない。


 この際、文芸部は置いておくにしても、ぼく自身の印象を良い方向へとシフトチェンジする必要がある。昨日のような上履きのまま中庭の掃き掃除をするような不可思議系男子からは脱却しなければならない。


 ここはガツンと男前で頼りがいのある所をアピールするしかない。


 などと今後の方針変更を決意したときだった。


 そんな僕の決意の表情や先輩の蒼白になった表情を感じ取った拝島さんは、小さくこぶしを作って言った。


「気にしないで下さい。私はうれしかったですから!それに――少し面白かったです。最後のほうは何とか言葉を無理やりひねり出そうとする必死なお二人の姿が面白くて」


 拝島さんは口元を隠すように小さく笑った。少し目を細めて上品に微笑み、僕と先輩を慈しみ、慈悲深い眼差しを向けた。


 ……何と可憐で麗しい光景であろうか。


 この時、この瞬間を心に銘記するように聖母のような拝島さんを見つめ続けた。正確には目を奪われてしまったというべきだろうか。


 心臓の鼓動が少し速くなった気がする。


 いつまでもだんまりではいられない。

 何とか乾いた笑顔作って、僕は反応した。


「拝島さんが喜んでくれたなら僕も嬉しいよ」

「うん、ありがとう、黒田くん」


「それで……文芸部に入部するというのは本当……?」

「うん」


「本当にいいの?ここは文芸部だよ?変な先輩もいるし、地味だし、つまらないかもしれないよ?」


「ちょっと、待ちなさい。『変な先輩』というのは私のことを言っているのかしら」


 先輩は、噛みつくような勢いで僕の言葉を否定した。


 え、他に誰がいると思いますか?という言葉を何とか飲み込んで、先輩を無視して拝島さんと話をつづける。


「それに、僕とその変な先輩以外幽霊部員しかいない部活だよ?」

「うん」

「それでも、いいの?」

「いいよ」


 拝島さんはちっともこれっぽちも迷いのない表情でうなずいた。


 何ということか、この女神は地味な文芸部をご所望している。にわかには信じがたい状況である。何かのドッキリであると言われた方が納得できる。


 しかし、昨日の拝島さんの本音かどうかは判然とはしないけど、少なくとも心情の一部分に触れた時の言葉には嘘偽りはなかった。


 だからきっと文芸部に入部することは揺るぎないことかもしれない。


 そうであるならば、僕にできることはただ拝島さんの考えを尊重するのみである。


「そっか。ならば……改めて、文芸部へようこそ」

「それは先輩である私の台詞でしょ‼」


 小さな先輩による大きな抗議の声が室内に響いた。その声を追うかのように、ピタゴラス音階で演奏されたクラシック音楽の単調なリズムの旋律が流れている。


 それを打ち消すかのように部活動の終了時間を知らせるチャイムが鳴った。それを合図に、先輩はブツブツと僕への不満を口にしながら帰宅する準備を始めた。


 拝島さんは立ち上がり、僕へと近づいてくる。どこか強者感さえ感じさせるではないか。


 顔を近づけて耳元で吐息を吐くように甘い声で囁いた。


「今朝のこと言っていないわよね?」


 その言葉で頬が引きつった。

 

 ……もう現実逃避は終わりにしようと思う。


 今朝以降、時々拝島さんから視線を感じていた。

 それは授業中も休み時間の間も感じていた。部室に向かう前、図書室で課題レポートを作成しているときも感じていた。いや違う。


 拝島さんは隣の席に座っていたのだから……。

 

 この時からいやな予感はしていたのだ。

 

 しかし自意識過剰だと思って受け流していた。

 忘れようと頭の中から一切の記憶を消去しようとした。

 

 でも、ダメだ。

 

 美辞麗句も歓迎の言葉も嘘だ。

 必死に自分を誤魔化そうとした。

 けれども……今朝見た拝島さんの冷たい表情が脳裏に想起されてしまう。その光景を何とか押し戻して、冷静沈着を装って答える。


「……もちろん」

「ふーん、そっか……それとこの後、勝手に帰ろうとしないでね」


 拝島さんは、そう呟くと僕から離れて先輩へと近づいて話し始めた。


 ああ、今日は厄日に違いない。最悪な一日だ、そう思わずにはいられない。


 何といっても拝島舞という疫病神か悪魔かはたまた堕天使が降臨なさったのだから。頭の中では、ゴッド・ファーザーのテーマが流れ始めていた。


 いや気分はドナドナの方が相応しいかもしれない。


 溜息がこぼれてしまった。


 一瞬、拝島さんの視線がこちらに向けられた気がした。


 はあ、帰り支度をしよう。


 部室の窓を閉めようと立ち上がる。窓の外はいつの間にか暗くなっていた。梅雨の季節に入るからだろうか。微かに湿った冷気が頬にあたった。


 先輩は部室に施錠をすると「じゃ、また来週」と言って、カギを職員室へと戻しに行った。


「さようなら」と拝島さんは笑顔で先輩に挨拶をしてから、先輩が振り返らないことを確認した。すると先ほどまでの笑顔が嘘のように雲散霧消した。


 冷徹な視線と凍えるような低い声で言った。


「それでは、私たちも一緒に帰りましょう」

「……はい」


 有無も言わせない拝島さんの一方的な宣言に屈して、僕は渋々と頷いて歩き始めた。心なしか肩に掛けたスクールバックが重くなったように重圧を感じる。


 拝島さんと一緒にいては碌なことにならないと直感が告げている。

 

 どうにかして早くこの危機的状況から脱出を試みたい。

 

 急かすように歩幅を広くして歩こうとする。しかし、それを拒むかのように拝島さんがとてもゆっくりと歩き続ける。


「ねえ、春斗くん」


「はい……なんでしょうか」


「……まずは、その敬語を使うのやめてくれるかな?」と拝島さんは、先ほどよりも柔らかな口調で言った後、すぐに「私のこの姿を知っている人から敬語を使われると、馬鹿にされているようでイラッとするから」とぞっとするような低い声に戻って言った。


「わ、わかった」


 からからに乾いた喉から言葉を絞り出して、拝島さんの様子をそっとうかがう。

 そんな僕の姿を見た拝島さんは、乾いた笑顔とともに言う。


「そんなに怯えないでよ。私はただ春斗くんと本当の友達になりたいだけなのだから」


「……どういう意味かよくわからないんだけど」


「文字通りの意味。私たち『仲の良い友達になりましょう』ということ」


「仲の良い……友達?」


 全く嬉しくない申し出だった。


 昨日までの僕ならば、喜びのあまり踊りだしてしまうかもしれない。しかし、今朝の拝島さんの姿を見知ってしまったこの状況では有難迷惑だ。


 それに拝島さんが発する殺伐とした雰囲気からは一ミリも仲の良い友達になりたいという想いが伝わってこなかった。


 むしろ長年の親の仇を目の前にして、いつでもあなたを殺す覚悟ができていることをほのめかしているような、そんな雰囲気だった。


「そう、友達。春斗くん……もちろん、なってくれるわよね?」

「……」


 とりあえずのところ、肯定も否定もしなかった。


 曖昧に誤魔化して時間を稼ごうと微笑んだ。この隙に打開策を思案しようとした。しかし……そんな考えは甘かったようだ。


 拝島さんは立ち止まって、唇を噛みしめて、小さくつぶやいた。


「なってくれないというのなら……こうするしかない」

「え?」


 とっさのことで避けることができなかった。


 ドンという衝撃がわき腹に入って、バランスを崩してしまった。一瞬、視界がぶれた。サッカーの試合中に相手選手からファール寸前のショルダーチャージを受けた時のようだった。


 だからかもしれない。


 倒れないように廊下の壁に手を伸ばして、背中に壁が来るように身を受け流すことが精一杯だった。


 背中が壁に接触して軽い衝撃を受けて、「うっ」と肺にある空気が押し出された。視界の隅に、右肩に掛けていたスクールバックが、窓際に吹っ飛んでいったのが見えた。


 続けて、拝島さんがドンと壁に手をついて僕を見上げた。


 生気のかけらも感じさせない視線を向けた。

 僕は拝島さんと壁に挟まれるような格好になった。


「……」

「……」


 何だこの状況。


 まるで安いラブコメのようなシチュエーションではないだろうか。

 いや、それにしても壁ドンは男が女にするのではなかったか?

 

 男女の位置が逆ならば、胸躍る場面かもしれないが……全然、これっぽっちも嬉しくなかった。むしろ、怖い。恐怖心で動悸が速くなった気がする。


 いずれにせよ、僕はどうやら反応を間違えたらしい。

 それは明らかだった。


「それで……これが、仲の良い友達にすることなの?」

「さあ、どうかしら」

「どいてくれないかな」


 僕は強引に抜け出そうと動いた。拝島さんのなまめかしく色白の太ももが、僕の股下に絡みつくように押し付けられた。僕はおとなしくそのままの体勢でいることにした。


 ……決して下心に支配されてしまい、もう少しこのままでもいいか、などとどぎまぎしてしまったわけでは断じてない。


 なんとか冷静を装ってまま問いかける。


「も……目的は?」


「私は私自身の学校生活を平穏なままにしておきたいの。波風立てたくないの。わかるでしょ?だから私の醜態を知ってしまった黒田春斗くん――あなたを監視することにしたの。嬉しいでしょ?私のような美少女に監視されて。学校ではいつでもどこでもついて行ってあげる。もちろん、来週からは、一緒にお昼ご飯だって食べてあげる。なんならお弁当でも作ってあげようかしら?」


 口元をわずかに上げて、挑発するような――サディスティックな表情とも読み取れる微笑みとともに、僕に一方的に宣言というか、脅迫をした。


 ……それにしても自分自身の容姿を美少女と形容する人物が存在するとは、思ってもいなかった。美少女であることは事実だから認めるけど……。


 ただしストーカー宣言された上に、人格が容姿を打ち消すほどに中身が狂っていることは拒否したい現実だ。それに器と中身が伴っていないことに、何とも言えない残念さがあるように思う。


 いや綺麗なバラには棘があるように綺麗な容姿には裏があるということなのか……?


「なるほど……完璧超人だと思っていたけど、やはり人は完璧な存在でいないことがよくわかった」


「当たり前じゃない。完璧な人間なんかいない。いるのは、不完全で不安定な存在だけよ。誰だってそうでしょ?」


「……そうかもしれない」


「それでは、問題です。次に物わかりの良い春斗くんが取るべき行動は――」


 拝島さんが、わずかに目を細めて最後の言葉を言いかける。

 しかし、その言葉を打ち消すかのように地学室の扉が開かれた。

 その途端、とっさに拝島さんは僕から距離を置いていた。そして今までそうであったかのように、ニコニコと笑顔を浮かべていた。


 あまりの変わり身の早さに脱帽というか、驚嘆してしまった。いや、驚嘆している場合ではなかった。僕もとっさに壁から離れた。


「……あれ、拝島さんだ。それと、黒田くんもいる。こんなところでなにやっているの?」と同じクラスメイトである橘さんが、僕と拝島さんを交互に見て、不思議そうに首をかしげた。


「こんばんは、橘さん」と優しそうな声で拝島さんが挨拶をした。


「お疲れ」と僕も挨拶をした。


「うん。それにしても珍しい組み合わせだね。教室ではあまり一緒にいないよね」


 橘さんは、少しつりあがった猫目で、僕と拝島さんを交互に見た。


「そうかな?実は今日から文芸部で一緒になったの。だから、これからは一緒にいることも増える――」


 ね?、と拝島さんは、屈託のない笑顔で僕に同意を求めた。


 危うく、その純真無垢そうな瞳に一瞬頷きかけてしまった。しかし、僕は彼女の腹黒さを垣間見てしまっている。拝島さんの笑顔は虚構だ。内心では何を考えているかわかったものじゃない。


 だから、素直に同意したくなかった。その結果、数秒返答に躊躇してしまい、どもってしまった。


「……そ、そうだね?」


 顔の筋肉が引きつるのを自覚しながら、ぎこちない声で答えた。


 そんな僕の姿が気に入らなかったのか、拝島さんは一瞬、目を細めた。しかし、そのことに気が付いていない橘さんはクスクスと控えに笑った。


「なぜ疑問形?黒田くんって、反応面白いね」

「あー、さっきそこで転んじゃって……頭が混乱しているみたい。そのとき……バックが飛んで行ったみたい……ほら、あそこ」


 なんとか乾いた笑顔を浮かべて、二メートルほど先の窓際に横たっわていたバックを指さしことができた。拝島さんは心を痛めたかのように、僕の手をそっと握りしめた。


 温かく色白くて小さな手だ。


「ほんと、びっくりしちゃった。黒田くん、急に転んじゃうから……でも、怪我がなくてよかった」


「……ありがとう、拝島さん。でも、もう平気だから、手を放してくれ」


「あっ、ごめんなさい。私なんかに触ってほしくなかったよね……」


 拝島さんは悲痛そうに顔を伏せた。それをフォローするように、とっさに橘さんが拝島さんの手を取って慰めの言葉を掛けた。それから僕に向き直って、少し頬を膨らました。


「黒田くん!拝島さんに手を握られて、照れちゃうのはわかるよ。けど、今の態度は、傷つくよ」


 何だ、このリアクション。いや、何だこの茶番は。

 まるで僕が悪いことをしてしまったかのようなそんな罪悪感が生じた。


「……ごめん」

「もういいよ。拝島さん……帰ろ?」


 橘さんは僕のことを軽くあしらって、拝島さんと歩き始めた。拝島さんは、一瞬、僕の方を振り向いて、口元をわずかにほころばせた。


 僕は一人、ぽつんと廊下に取り残された。


 ……悪魔か、いや堕天使みたいな女だ。


 橘さんに対して墓穴を掘ったが、それは仕方がない。いや寧ろ僥倖かもしれなかった。なぜならばあの悪魔いや堕天使から物理的に離れることができたのだから。


 その対価としてクラスメイトからの僕の印象が多少落ちて心的距離が離れてしまうが……それは渋々受け入れようではないか。


 そう。これは言ってしまえば、これからの高校生活における投資――尊い犠牲なのだ。


 ……いずれにしても僕の高校生活は前途多難になりそうな気がした。


 そう思うと自然とため息がこぼれた。


 バックを拾い上げて、廊下を進む。窓の外を覗くと、すでに校庭では運動部がグランドの片づけを終えようとしていた。

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