第6話

 放課後、図書室で課題を終えてから部室へと向かった。


 都立東池袋高校の校舎はH型になっている。

 文芸部の部室は一年の教室や図書室のある西棟と逆の東棟にある。だから渡り廊下を突っ切って向かうことになる。

 

 三階の廊下を奥に向かって進む。すると、段々とお経のような単調で一定のリズムを刻む旋律が聞こえてきた。


 何か一抹の不安が頭をよぎったが、すぐにそれを打ち消そうとする。


 それでも明らかに部室に近づくにつれて大きくなる音量は、彼女の存在を大きく主張するかのように思えてならない。


 三階突き当りの文学部と書かれたプレートの掛けられた教室で立ち止まる。

 こぼれ落ちたため息と共に部室の扉を引いた。


「先輩、この変な音楽は何ですか。廊下まで響いていますから」

「……ん、変な音楽とは、ひどいよ」


 先輩――水無葵は、ノートに何かを一心不乱に書いていた手を止めて、顔を挙げた。ムッとした表情とは不釣り合いなアニメ声は、童顔の先輩をさらに幼い印象にしていた。


「この音楽はピタゴラス音律を使用して演奏したものなの。ちなみに楽曲は、ネイピア数である2.71828を繰り返したものなの」


「確かピタゴラスを中心とする宗教集団でしたか?」

「ちがう。彼らは、数学に対して少し熱狂的なだけ」


 これだから数学の分からない者は、とぶつぶつと先輩はくちごもった。

 

 開けられたままの窓からはグランドから響く体育会系の掛け声が聞こえる。


 何度目かわからないため息をついて先輩の向かい側の席へと座った。

 この席は僕が部活動の見学に来たときに先輩に案内された席であった。以来、いつの間にか僕の指定席になっていた。


 無機質で大きな会議用テーブルの上には、先輩が何か数式を書いていたノートしか置かれていない。


 文芸部の部室は一〇畳ほどの広さだ。しかし、そのスペースに存在感を主張してやまないのがこの会議用のテーブルだ。部屋の中心に置かれたそれはもはやただの置物であり、隅にはほこりが少し積もっていた。


「それで、ほかの部員は今日も来ないのですか?」

「それで、仮入部期間は今日までだけど誘った?」


 なぜか強引に話題をそらされた気がする。それに心なしか少し先輩の視線も斜め上を向いたような気がする。


 明らかに何かを隠している雰囲気だが、埒が明かないから無視して答える。


「一応、声をかけましたけど、手ごたえはないですかね」

「春斗くん顔は良いから、誰かは引っかかると思ったのに……やっぱり、背が低いからだよ。一八〇センチはないとダメだよ」


 にっこりとした笑顔で先輩は、毒舌というか悪口を吐いた。


 確かに一六五センチだから低い方だけど……人の気にしていることを口にするか?

 

 しかし僕は寛容、寛大、慈悲深い。

 

 だから極悪非道な小さな先輩には決して言い返したりはしない。


 そう……言い返したりはしないが、ほんの少し恨みを晴らすことはするのだ。


 ……決して器も小さくかつ背も小さいからではないのだ。


 僕は咳払いをして、先ほど先輩が誤魔化そうとした質問を再度する。


「それで、話を戻しますけど……他の部員は?」


 先輩は部屋の隅の壁に掛けられた時計に視線を向けてから、またアーモンド色の瞳を僕へと戻した。手持無沙汰を持て余したかのように、ミディアムボブの髪の毛先をくるくると触り始めた。


 そんな光景を僕は威嚇の意味を込めて凝視し続けた。すると先輩は観念したかのようにため息をついてから口を切った。


「言い忘れていたけど、私以外、幽霊部員」

「え?」

「ん?」


 いや、可愛く首をかしげても何も誤魔化せてないだろう。


 そもそもなぜ一か月も経ってから打ち明けたのか……。


 四月に仮入部してから、そして本入部してから今まで先輩以外の上級生と会わなかったからおかしいなとは思った。それでも部活の説明会の時や仮入部初日には、ほかにも部員がいた。


 いや、いたのだ。あのグラマーでセクシーな黒髪の乙女が。


 彼女はどこへと消えたというのだろうか。神隠しにでもあったのか。まさか僕にしか見えない妖精ではなかろう。


 いやいや僕がいることに照れてしまって来ていないということかもしれない。


 なんてシャイで奥ゆかしい人なのだろう。

 一歩引いた大和撫子とは、名も知らぬ彼女のことではないだろうか。


 などとくだらない妄想している場合ではない。


 本題に入ろうではないか。


「あの、先輩……確か、僕が幻覚を見ていないことが正しければ……部活の説明会の時にいた人たちはどうしたんですかね。それに本入部初日にいた綺麗な先輩は?」


「あー、あれは演劇部の人たち。演技の練習として、文芸部の人たちらしく振る舞ってもらったの。それに、二年でトップクラスの美人さん――アイナちゃんがいたら、きっと文芸部にも入部希望者が増えるはずだった。それなのに……」


 春斗くんしか引っかからないとは思わなかった、と先輩は残念そうな表情で言った。


 いろいろと引っかかる発言があったのだが、どこからツッコめば良いのかわからない。しかし、これだけは言いたい。


「おい、先輩」

「なに、後輩」


「とりあえず、部員希望者はほかにもいたけれど、それを明らかに先輩が冷たくあしらっていましたよね⁉︎特に、先週に来た一年一組の男子は積極的に何度も先輩に話しかけていたのにそれを無視していましよね!最後、帰り際には、トラウマでも抱えかねないほどの女嫌いになっていた気がする……違いますか?」


「そうね。入部希望者には選ぶ権利があると同時に選ばれない権利もあるのよ」


 先輩は何の迷いもなく屈託のない笑顔で肯定した。


 なんだその権利は。偏屈にも程があるというものだ。

 確かに仮入部に来た男子のほとんどが文芸に興味を持つどころか、先輩たちの可愛らしく端正な顔立ちに騙されて口説こうとする下心満載なやからばかりだった。


 しかし、それでも最後の二組の田中君は純粋に好きな作家の作品についての話題だったのだ。


 それにもかかわらず、先輩のあの冷たい態度……。


「そりゃ、誰も入りたいとは思わないわ‼」

「春斗くんが、怒った……」


 先輩はなぜか口を押えて驚いている。まるで長年帰らぬ想い人を待っていて、ついに帰ってきたことが信じられないといったような感動を抑えきれない表情をしていた。


「そこ問題ではないですから……」


 先輩のずれた反応に気が抜けてしまった。

 そんな他愛もないやり取りをしていると、控えめなそしてどこか嫌にノックの音がこだました。


 どうしてだろうか。不協和音のような気がした。


「どーぞ」という先輩の気の抜けた声とともに、引き扉が静かに音を立てて開いた。

「失礼します。入部希望の者です」


 少し緊張した声色で足を踏み入れた人物は、拝島さんだった。

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