第5話

 昇降口に掛けられている時計を見上げると、七時三十分を過ぎていた。


 夏目優衣に呼び出された時間に数分遅刻をしてしまった。


 若干の心苦しさを抱きつつも教室へと向かう。


 僕のクラスである一年一組の教室はH型の校舎の西側三階に位置している。


 入学してから二か月程しか経過していないからかもしれない。

 三階まで階段を昇ることに慣れない。

 

 中学時代は三年間一階に教室が割り振られていたから階段を昇る時間を考慮して登校することに慣れていなかった。


 階段を上がっていく最中に窓から校庭を見下ろすと、運動部の人たちが朝練を行っていた。朝から気合の入った姿に尊敬の念を抱きつつも、上級生の顔色を窺わなければならない同級生たち哀れな姿を見るのは、残念でならない。


 そのような元気溌剌な運動部の朝練姿とは違い校内は薄暗い静けさが支配している。


 階段を昇り終えて廊下を進む。

 時々、コツコツと真新しい上履きがワックスの掛けられた廊下に擦れる音が響く。それほどまでに静かで、どこか厳かな雰囲気を醸し出している。


 だからだろう。


 教室の前に近づくにつれて、教室内からくぐもった話し声がわずかに聞こえてきた。教室の前に着くときには段々と言い争う女の子の声だとわかった。


 一方の声はどこか苛立たし気で怒気を含んでいた。

 もう一方の声は、落ち着いて返事をしているみたいだ。


 教室のドアに嵌められた丸いガラス窓から室内を覗いた。

 

 すると視界が捉えたのは――黒い髪を逆立たせるかのような勢いで、夏目優衣に詰め寄る拝島舞の姿だった。


 あの清楚で可憐な姿を身に纏い、あの誰にでも優しい拝島さんがものすごい勢いで夏目優衣に向かって何か声を荒げている。


 いつも優しい笑顔で困っているクラスメイトを見つけては手伝い、そして、友達と笑いあう時に口元を隠して上品に笑顔を浮かべる拝島舞の姿がヒトカケラも見えない。


「え……?」


 開いた口が塞がらなかった。


 あまりの衝撃に肩にかけていたスクールバックを落としてしまった。大量の教科書の入ったバックはかなりの重量になる。それが早朝の静かな廊下に落ちたらどうなるか……。


 まずい、と思った時にはすでに遅かった。

 バタンと大きな音が轟いた。


「誰⁉」


 怒気の含んだ声で振り向いた拝島さんと窓越しで目が合った。鬼の形相のように、殺気を放つ姿だった。


 僕は少し後ずさった。


「……入ってきなさい」


 めちゃくちゃ低い声で拝島さんは、僕を睨みつけたまま言う。

 ここは普段通りに振る舞って何も見なかったことにしよう。

 うん、それが吉だ。触らぬ神に祟りなし。

 

 僕は覚悟して一歩踏み込む。


 ドアを引くとガラガラという音がたった。そのまま教室に入り、席替えしたばかりの窓際、前から二番目の席へと向かいバックを下す。


 教室の中心で取っ組み合ったままの二人に向かって、極めて冷静にいつも通りみたいに言う。


「おはよう、拝島さん。それと夏目優衣もおはよう。六月に入ったのに今日は少し肌寒い――」

「そういうのいいから」

「あ、はい、すみません」


 あまりにも冷酷な視線を向けられ、反射的に謝罪してしまった。


「どこから聞いていたの?」

「なにもきいていないです」

「嘘はやめて」

「ほんとに、これっぽちも、少しも、なにも、聞いてないです‼」

「もういい。それで、なんでこんな早い時間に来たの?」

「それは――」

「私が呼んだからだよ」


 夏目優衣はニコニコとした笑顔で僕の言葉に被せて言った。その言葉を聞いた瞬間に、拝島さんは夏目優衣に舌打ちをした。


「コワーイ」とわざとらしく声を上げて、夏目優衣は僕に向かってウィンクをした。


「優衣さん……あなた、何が目的?」

「うーん、秘密の共有?」

「は?そんな意味不明な理由で私を怒らせた挙句、黒田くんを巻き込もうとしているの?……呆れた。それにしても――」


 拝島さんは夏目優衣から離れて心底冷めた口調で言った。そして、僕の方へと歩いてきて――ネクタイを掴みぐっとッ引き寄せた。


 ふわっと微かに柑橘系のにおいが僕の鼻腔をくすぐった。

 大きなブラウンの瞳に僕の顔が映っているのが見える。


「黒田くん……黒田春斗くん。今見たこと、聞いたこと、すべてのこと、忘れてくれるよね?ねえ、黒田春斗くん?」


「……は、はい」


 僕はカラカラに乾いた口から、何とか声を絞り出した。しかし、拝島さんは、一瞬、よくわからないと言いたげそうな表情になり、優しい口調で言う。


「うん?よく聞こえなかった。だからもう一度聞くね。……忘れてくれるよね?」

「はい‼忘れます‼」


 僕は先ほどよりも大きな声で反射的に声を出した。

 それはもう運動部が朝練で出す掛け声よりも大きな声が教室内にこだました。


 いつ以来だろうか。

 こんなにも大声を上げたのは……。


 拝島さんは小さな唇をわずかに綻ばせた。


「……そう。ならば、もういいわ」


 拝島さんは僕のネクタイを離して、黒い髪を掻き揚げた。そして、回れ右をして、夏目優衣の横に戻って、何か耳打ちして教室から出て行った。


「……」


 訳が分からなかった。


 というよりもむしろ、今の状況に頭の処理が追い付いていかなかった。


 あの可憐で清楚――大和撫子のような奥ゆかしい女の子を体現したかのような完璧な存在だった拝島舞……。


 その幻想を見事に打ち砕いた。先ほどまでの拝島舞の姿。


 二面性を見てしまった。


 信じられない光景だ。


 空前絶後のその衝撃を受けたからかもしれない。


 唖然とした表情で動くことができなかった。そんな僕を現実へと引き戻したのは、夏目優衣の声だった。


 夏目優衣はいつの間にかニヤニヤとした表情で僕の目の前へ立っていた。


「これで、わかったでしょ?舞のこと」

「昨日言っていた、『気を付けろ』の意味?」

「違うよ。春斗が、舞に気を付けるのはこれからだよ」

「どういうことだ?」

「うーん、まあ、そのうちわかるよ」


 夏目優衣は、一瞬思案したあと、またニヤニヤとした。


 夏目優衣の何かを含むような言い方は気になる。


 しかし、とりあえず僕自身が拝島さんに近づかないのならば、それに越したことはないはずだ。


 少なくとも二次被害に遭わずに済む。


「……わかった。気を付ける」


 もう一切合切、金輪際、拝島さんに近づかまい、僕はそう強く心に誓った。


 しかし、この時、根本的に思い違いをしていた。


 なぜならば――僕が近づくことがなくても相手から近づいてこられたら、どうしようもないことなのに……。

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