第8話

 日曜日は、僕にとって幸福とも言うべき日だ。


 高校という半義務教育から逃れて、好きな教科を好きな時間に好きなだけ取り組めるからだ。もちろん、気分転換に映画を観て、読書だってするし、音楽も聴く。そんな自由ともいうべき時間が好きだ。いや、愛している。


 うん、休日は大切だ。至福の時だ。


 誰だってそう感じるに違いない。


 特に今週の休日はそう感じぜずにはいられない。


 もちろんそれは怒涛の一週間を過ごしたからに他ならない。いや地獄のような一週間と言った方が適切かもしれない。


 あの堕天使に会う必要がないと思うと、最高に心が安らぐ。


 ……そうなのだ。僕の学校生活は、あの拝島さんが文芸部に入部して以来、最悪と言っていいほどの学校生活を迎えていた。


 拝島さんは宣言通り、僕に事あるごとに絡み始めた。有言実行とは甚だ素晴らしいことである。彼女の美徳の一つかもしれない。けれども、この場合、有言不実となることを切に祈った。


 しかし、その幻想は儚くあっけなく打ち壊された。朝から休み時間も移動教室も、お昼休みも、放課後は部活まで僕についてきた。つまり、僕が行く先々で拝島さんは待ち受けていた。


 いや、クラスメイトであるから仕方ない部分もある。しかしそれを差し引いても、一緒に居る時間が増えた。


 それに伴ってというか、副次効果というか、二次災害というべき事態が発生した。


 水鳥勇樹や樽谷大や夏目優衣や柏崎嶺衣奈といった、拝島さんを取り巻く人間も僕の周りに集まり始めた。晴れてリア充メンバーに組み込まれてしまった。それまでよく教室で話していた山田君とは、話す時間さえ取れなくなった。


 全く僕の人間関係を無茶苦茶にしようと暗躍しているのではないか。そのような推測さえできるのではなかろうか。そう思わずにいはいられない。


 しかし、いずれにしても今日は、休日だ。

 そんな問題を棚に上げておいて休日を満喫しようではないか。誰にだって休眠と休息は必要なのだ。そんなことを夜寝る前に考えていた。


 そして迎えた日曜日。今日、本日、この日、僕は幸福になるはずだったのだ。

 

 少なくとも、今朝起きるまではそう信じていた。


 しかし、予想外というか、埒外というか、最悪の事態が生じた。いや、不幸と言っても過言ではない。それほどまでに忌避すべき事態だった。


 はあ……後悔するだけ時間の無駄かもしれない。過去は変えられないのだ。仕方がない。それならば受け入れるしかないのだから。


 やはり未来志向的に生きた方がよいに決まっている。


 僕はポジティブな人間なのだ。


 そうと決まったら、まずは、向き合おう。


 今の現実と……。


 アイスコーヒーを一口飲んでから顔を上げた。すると、向かい側に座る彼女――拝島舞の視線と重なった。瞬く間に拝島さんはわずかにこめかみに皺を寄せて顔をしかめた。


「春斗くん、私の話聞いていた?」

「もちろん――」と僕は、ためを作ると、拝島さんは「じゃ、言ってみなさい」と反射的に言う。僕は「――聞いてなかった」と小さく答えた。「……」と黙ったまま、拝島さんは鋭く僕をにらんだ。無言の圧力に屈して「ごめん」と謝った。「……もういいわ」と拝島さんは心底呆れかえったかのように、ため息をついた。


 拝島さんからの非難の視線から逃れるために、店内においてある古時計へと目を向けた。それから店内を見渡す。


 日曜日の九時半の梅田珈琲店内はそれほど混んでいない。

 落ち着いた雰囲気のジャズ音楽が流れている。店内の奥には大学生らしき若者がノートパソコンの画面に向かって何かを一生懸命にカチカチと打ち込んでいる。


 レポートに追われているのだろうか。先ほどから唸って頭をガシガシと掻いていた。


 カウンターでは白髪のマスターがコーヒー豆を挽いている。ほのかに甘くて苦いようなコーヒー豆の香りが流れてきて鼻腔をくすぐる。


 これまでの現実逃避を誤魔化すようにコホンと咳をついた。


「……それよりも、なによりも、僕の置かれた状況が分からないのだけど……夏目優衣に呼ばれたのに、なぜ拝島さんがいるの?」


 そう、僕は日曜日は九時まで惰眠をむさぼることを決めていた。

 まさに休日を満喫しようとしていた。でも今朝は目覚ましの鳴る遥か前――六時半に携帯の着信音によって起床した。


 相手は夏目優衣だった。

 

『九時半に東口の梅田珈琲に来て』と有無も言わせない一方的な電話だった。


 はじめ、僕は寝起きで思考が追いつかなかった。寝ぼけた眼をこすり、しばらくして思考が追い付いた。ため息をつきつつ、傍若無人、傲岸不遜な物言いに拒否の声を上げることなく、寛大に受け入れた。もちろん時間に遅れないように細心の注意を払って出向いた。


 こうのような経緯から導き出せる結論は……我ながらあっぱれであると褒めたいということだ。


 ……決して休日にクラスメイトの女の子からの誘いに舞い上がってしまい、ワックスで髪を整えて、デートスポットを検索して、待ちに待てず早く電車に乗って、九時十五分に到着してしまったからではないのだ。


 いずれにせよ、いざ待ち合わせ場所に行った。

 すると入り口付近の席で文庫本に目を落としている拝島さんがいた。まるで深窓の令嬢のようにゆっくりと本のページをめくる姿は可憐で少し見とれてしまった。

 とっさにガラス越しに店内を見渡しても夏目優衣の姿が一向に見えなかった。

 

 状況確認のためメッセージを夏目優衣に送ると、即座に『誰も、私自身が行くとは言っていない‼』と返信があった。そんな詐欺師のようなふるまいに憤りを抱いたが、僕は寛大な心でそれを受け入れた。

 

 決して拝島さんとガラス越しに視線が合い、無視して帰れなくなったからではないのだ。……ただコーヒーを無性に飲みたくなったから、ひとまずは店内で時間をつぶそうと思っただけなのだ。そんな優雅な休日もいいだろうとおもっただけだ。


 拝島さんは、優雅にティーカップに口を付けた後、僕を見つめた。


「そんなこと決まっているでしょ?私が、優衣さんに頼んであなたを呼んだからよ」

「……」


 拝島さんは、微塵も悪びれた表情など見せずに、すがすがしいほどの笑顔で言ったのだ。


 そんなことであることはうすうす感じていましたよ。しかし、どうにもわからないのはなぜ僕を呼び出したのかという理由である。小論文でも重要なのは主張とそれを支える根拠だ。その根拠、理由付けに説得力がない限り、人を納得させることは不可能だ。


 そうであるならば聞こうではないか、僕を呼び出した理由とやらを。もしもくだらない理由ならば即座に席を立つ覚悟はできているのだ。


「とりあえずは、目的を話してくれないかな、拝島さん?」

「春斗君に会いたかったからにきまっているじゃない」


 拝島さんは微笑み、甘えるような声で答えた。不覚にも一瞬ときめきそうになった。しかし、この女の本性を知っている身としては素直に喜べないのだ。むしろ恐怖で震える。


 兎に角、冷静にクールに振る舞うことが必要だ。この女のペースに乗せられないように気をつけなければならない。 


 活を入れて、男を惑わす魔女に立ち向かうしかない。


「そういう御託はいらないから話してくれ」

「つまらない、男ね。そんなことでは彼女の一人も作れないわよ」

「余計なお世話だ」

「図星みたいね。的確な意見でしょ?」

「…………こんな話をしに来たのか?」

「そうね……さてと、そろそろ時間かしら……出ましょうか」

 

 拝島さんは僕の言葉を無視して、スマホの時間を確認した。そして、早々に席を立った。

 

 なんと身勝手な振る舞いであろうか。全く呆れてしまう。自分中心で何もかもが動いているとでも思っているのだろうか。美少女だからと言って何でも許されると思ったら大間違いなのだ。

 

 こんな傲岸不遜で自己中心的なお嬢様には、きついお灸の一つや二つ据えることが必要ではないだろうか。

 

 僕はふつふつと湧き上がる抗議の声を上げずに、ゆっくりとコーヒーを口にした。すると僕を見下ろしたまま拝島さんが腐ったごみを観るような視線を向けてきた。


「何やっているのかしら、早くしなさい」


「……拒否する」


「何か言ったかしら……?よく聞き取れなかったの」

「耳鼻科に通院した方がよろしいのでは?」


「……今から、クラスのラインに私と春斗くんが一緒に居る写真でも送信しようかしら?それから、君に休日も言い寄られて困っていると相談でもしようかしら?」


 拝島さんは生き生きとした表情で宣言した。


 何という悪行……。いや、ハッタリに違いない。変な噂が立つことで困るのは拝島さんだって同じなのだ。しかし、この女は本当に行いそうでもある。廊下での脅しと言い、この一週間の学校での監視と言い、全て有言実行していた。


 ……悔しいが、心理戦では勝てそうにない。渋々従う以外の選択肢はない。決して、断じて中身はあれだが、可愛い子と休日を過ごせることに舞い上がってしまっているわけではない。


「……っく、わかったよ。行けばいいんだろ⁉」

 

 僕は残ったアイスコーヒーを飲み干してから、伝票を手に取り席を立ち上がる。


「それで、この後どこに向かうのかぐらいは、教えてくれませんかね?」

「映画を見に行きましょう」


 拝島さんは僕に振り返って、今までにない満面の笑みでそう宣言した。

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