第5話 駆け込み乗船

「船に乗りたい?」


 驚いたように聞き返してきたエクロズに、シャニィはにっこりと笑って頷いた。


「実は私、一度も帆船に乗ったことがなくて……」

「ああ、そうなのか。確かにリーリア領は内陸にあるものな……それではなかなか乗る機会もないか」


 並んで腰掛けたベンチで、冷やした果実水を飲みながら彼は納得したような顔になる。


「確かファスクータ号が豪華クルーズを予定していたと思うから、予約に空きがあるかを……」

「いえあの、もしできるなら客船ではなく軍艦がいいんです。中で皆様がどのように働いているのかを、見てみたくて」


 シャニィがそう言うと、エクロズは目を丸くする。


「軍艦でいいのか?あいつらは君が来てくれれば、さぞ喜んでやる気を出すだろうが……そうだな、では三日後に私の隊が当番に当たっている近海警邏についてくるかい?ほんの数日のものだし、時折外部の人間を乗せることもあるから、申請をすれば問題ないと思う」

「ありがとう、ロズ。ぜひそれでお願いします」


 シャニィがガララタンの町にやってきて、すでに十日ほど経とうとしていた。当初考えていたものとはまるで違う、あまりにも平和な日々が続いている。


 このところシャニィがすることといえば、町を見て回るか、砦の部屋でもできる花嫁修行をするか、古本屋で手に入れた本を繰り返し読むことくらいしかなかった。食事は居住者用の食堂で食べることができるため、料理を作る必要もないのだ。そもそも部屋に台所がなく、したくてもできない。通りがかった魚市場のピチピチした魚や貝を前に、何度歯を食いしばったことか。


 エクロズとは仕事終わりや非番の時に一緒に町をめぐり、すっかり距離が縮まっていた。ただ、彼は仕事ができるだけでなく、貴族としての振る舞いにもそつがなく、シャニィに対してもに接するように、至れり尽くせりでエスコートしてくれる。ひとつ問題があるとすれば、そのようにされるとシャニィ自身も模範令嬢的な対応をしなければどうにも罪悪感を感じることだった。


 どんなに振り切ったつもりでいても、根は深いらしい。今のシャニィの振る舞いは、ひどく中途半端なところでふらふら揺れていた。


 彼と結婚するかどうかは、まだわからない。だがもしこのまま縁が繋がるのであれば、なおのこと全てを隠したままではいられないと思う。少なくともそれをしたら、シャニィは死ぬまで息がしづらい状態で生きなくてはならなくなるのだ。それではこれまで決断してきた全てのことに、背を向けることになってしまう。


 だからこそ、船に乗りたいと言った。乗ったところでその機会が実際におとずれるかはわからないが、彼にまだ見せていないシャニィの一面を見せるために。もしそれで引かれたら、そこまでの縁だったということだ。


 もちろん、この町に来てから感じたのはそんな煩悶はんもんばかりではなく、嬉しいこともあった。まず、エクロズとブラド商会のユーシスはプライベートでも関わりがあったので、ノンノも含めて一緒にお茶をすることになり、歳も近い彼女と意気投合してすっかり仲良くなれたのである。ガララタンの見晴らしの良い丘陵から、町や港を見下ろしながら一緒にしたピクニックはたまらなく解放的で楽しかった。


 そしてもうひとつの大いなる喜びが、鮮度抜群の美味しい海の幸だ。シャニィのお気に入りは魚を生で食べる刺身と、イカにタレを塗って豪快に焼いたイカ焼きである。領地でも海産物は取り寄せて食べたりしていたが、距離があるためさすがに生で食べられるほどの鮮度ではなかったし、そもそもイカという生き物をガララタンに来てから初めて知ったのだった。

  


 * *


  

 船に乗る前日の夜、荷物の確認をしていると、ふいにエクロズが部屋を訪ねて来た。


「こんな夜に申し訳ない」


 これまで夜にやって来たことはなかったので、何かあったのだろうかとシャニィは内心首を傾げながら迎え入れる。


「実はその……昔のものを整理していたら、こんなものが出てきたんだ」


 彼はそう言って、握っていた手のひらを開いてみせた。そこにあったのはルチェラ石のペンダントだ。


「これって……」


 シャニィはいつも身につけている金鎖を首もとから引っ張り出す。並べてみると、明らかに対になっているデザインだった。どちらも船の舵輪だりんと王冠がモチーフになっているが、シャニィの持っているものは王妃の冠で、エクロズが持っているものは王の冠だ。


「……ただその、申し訳ないんだがどういう状況でこれを買ったのかまでは、まだ思い出せていないんだ」


 彼はすまなそうにそう付け足す。


 もしかしたら、酔って口約束した時に露店で買って、その証明代わりに王妃の冠の方をカルジオに渡し、自分の分はそのまましまいこんで忘れてしまったのかもしれなかった。


「あの、この石が婚姻の印として渡されるようになった由来の伝承って、どんなものなんですか?」


 シャニィはふと気になり尋ねてみる。


「私もあまり詳しくは知らないんだが……ある国に、とても仲睦まじい王と王妃がいたそうだ。ところが美しく心優しい王妃に横恋慕した男がいて、ある時彼女をさらって船で逃げてしまった。臣下たちは止めたが、王は弟に王位を譲り、呼び石を頼りに自ら船に乗って王妃を追いかけ、数多の困難を乗り越えて旅時の果てに彼女を取り戻す、そういう話なんだ」


 指先で舵輪をなぞりながら、エクロズは言い添えた。


「たとえいくつの海を越えても、あなたと共に……そういう意味合いがあるのだそうだよ」

「確かに婚姻にふさわしい伝承ですね」


 そう頷きながら、シャニィはペンダントを首にかけ直して、いつものように服の下にしまった。ふとエクロズの方を見ると、彼は黙ったままぼぅ、と自分のペンダントを見つめている。


「……あの、どうかされました?」


 そもそも仕事が相当忙しい上に、このところ彼は空いた時間に町の案内役をかってでてくれていた。かなり疲れが溜まっていてもおかしくはない。心配になってきたところでエクロズは我にかえって首を振り、その言いようもなく整った顔に笑みを浮かべる。


「……あ、いや、買ったことも忘れていた作り物の石のペンダントが、本当にこうして君と私を縁づけてくれたかと思うと、何やら不思議な気持ちになって……」


 彼は照れたように呟き、それからシャニィと同じようにペンダントを首から下げて、自分の部屋へと戻っていった。

  


 * *

  

  

 翌朝、起き出したシャニィは、大きく伸びをしながら考えた。エクロズたちとは船で合流することになっているから、少し早めに町に出てまだあまり見ていない辺りを見て回り、イカ焼きを食べて、それから波止場に向かうことにしよう、と。


 ———いい天気。出航日和びよりねぇ……


 そんなことを思いながら歩いていると、薬草とすり鉢の看板が下がった薬屋から、ノンノが出てくるところにばったり鉢合わせた。


「どうしたの?」


 具合が良くないのかと思わず見つめてしまったが、ノンノは苦笑を滲ませて首を振る。


「違うの。これ、二日酔いの薬。兄さんのやつね」

「あら」


 口を尖らせて紙袋を振りながら、彼女は続ける。


「ロズさんと同じペースで飲むと翌日えらいことになるから、速度に気をつけてって言ったのに……大きな仕事が決まったから、気分が盛り上がっちゃってたのよね……代償として、今絶賛家でうなってるとこ」

「……ロズってお酒に強いの?」


 四人でお茶をしたことはあったが、酒を飲んだことはまだなかった。ノンノはシャニィよりひとつ歳下なので、まだ飲酒できないのだ。


「強いというか……あれはざる通り越して、わくね。酔ったのを見たことがないわ」

「枠って……」


 シャニィは木枠の中を酒が通り過ぎるのを思わず想像し、笑ってしまった。

  

 そのまますっかり話し込んでしまい、ハッと気づいた時にはイカ焼きを食べに寄る余裕どころか、出航時間に間に合うかさえ危ぶまれる時間になっていた。

  

「いけない!船が出ちゃう!!」

「え?船?」

  

 シャニィが青くなってエクロズの船に乗ることになっていると説明すると、ノンノも血相を変える。

  

「大変!こっち!こっちよ!!」

  

 彼女はシャニィの手を引っ張って走り出した。この辺りにまだ不案内なシャニィはいくつか角を曲がったところで自分の居場所を見失ってしまったが、ノンノは迷いなく路地を突き進んでいく。しかししばらくするとどうやら息が続かなくなってしまったようで、彼女はぜーぜーと荒い息をつきながら立ち止まって道の先を指差した。

  

「ごめん、シャニィ。私、走るの苦手で……でもこの通りをこのまま進めば、港の端のあたりに出るから……!!」

「ありがとう!行ってくるわ!!」

  

 ノンノに手を振った後、シャニィは石畳いしだたみを強く蹴り、一気に速度を上げた。荒々しい海風が髪を、服を激しくはためかせ、肩掛け鞄がガタガタと跳ねる。実家であれば「はしたないから走ってはなりません!」と、目を剥いた教育係に怒られたことだろう。だがここでは止めてくる者は誰もいない。今のシャニィは、むしろ時間が追い立ててくることを楽しんでさえいた。

  

 石畳に着地するたびに、身体中に振動が響く。人を避け、置かれた木箱を飛び越え、猫に飛び退かれた。全身から汗が吹き出す。心臓は船着場を目指すシャニィに応えるようにドンドンと激しく脈打ち、発火しそうなほど熱をもった身体を駆り立てて、走って、走って、走り続けた。

  

 そして波止場に駆け込んだ瞬間、シャニィは衝撃を受け、呆然と目の前を見上げる。

  

「……すごいわ」

  

 そこにはのけぞるような、立派な帆船が停まっていた。黒光りする力強い船体、空に向かって何本も太い帆柱マストが伸び上がり、それに寄り添うように美しく組まれた縄が張られている。船首では服のひだまで精巧につくられた海の女神が優美に微笑み、並んだ真っ白な帆は大きく風をはらんで、今にも走り出しそうな様子だった。

  

 次の瞬間、シャニィの目にその船の船べりに掛けられたオルトリス海軍の紋章が飛び込んでくる。

  

 ———あの船なのね……!こちら側に停泊してくれていてよかった……!

  

 ガララタンの波止場は広い。もし反対側の端の方に停留されていたなら、きっと間に合わなかっただろう。安堵あんどしたシャニィは一気にその船の乗降階段タラップを駆け上がり、出航間際の船に飛び乗ったのであった。

  


* *

  

  

 シャニィが駆け込み、すっかり上がりきった息を整えている間に、船はボォー!ボォー!と全てを揺さぶって響き渡る出航の雄叫びをあげ、動き出していた。

  

 間に合ったとほっとしたのも束の間、シャニィは今、言いようのない不安を抱えて船内を歩いている。エクロズに船に乗ったらすぐに来るように言われていたため、船長室へ向かおうとしたのだが、言われた場所に見当たらなかったのだ。船長室を探して船内を彷徨さまよい歩くうちに、いよいよ違和感は決定的になってきている。

  

 出航直後で慌ただしく動き回っている船員に鉢合わせるたびに、まるで珍獣でも見たように目を見張られた。シャニィが乗船するということは、エクロズから船員たちに伝令されているはずだ。それに彼の部下である士官たちや、見知った顔がひとつもない。何より誰も、海軍服を着ていないのだ。

  

「おい、そこのあんた。誰の許可を得てこの船に乗った?」

  

 しばらくして、鋭い目つきをした男たちに周りをぐるりと囲まれた。とても友好的とは言えない、なんとも不穏な空気だ。声をかけてきた剃髪ていはつの男は顔をしかめて、

  

「リッケル!またお前の仕業しわざか!?」

  

 と、ひょこひょこと歩み寄ってくる銀髪のひょろりとした男に向かって怒鳴る。

  

「違ぇよ!こんな可愛い子ちゃんが連れになってくれんなら、前もって船中に紹介して自慢しまくるに決まってんだろ!それによく見な。この子はどう見ても間諜とか侵入者の類じゃねぇよ。だからテメェらその顔面凶器をとっとと引っ込めて、もう少しマシな顔をしやがれ!怯えちまったら話せるものも話せねぇだろうが!……どうした、お嬢ちゃん。この船は生憎あいにく君のような可愛い子ちゃんの乗る船じゃないんだが、どうしてこんなところにいるんだ?」

  

 殺気立っていた男たちをなだめて話しかけてくれた彼に、

  

「あの、私……」

  

 と、シャニィが事情を説明しかけたところに、靴音がしてもう一人やって来た。取り囲んでいた船員たちがざぁと波のように身をひいて道を開けたところを見ると、どうやら上の立場にいる者のようだ。

  

「……そいつが大胆なる侵入者殿か?」

  

 雲が流れてきて日が遮られたため、その姿は黒い影のようにしか見えない。わかるのは、背が高くて体つきのがっしりした、びりびりと響くような低い声の男だということぐらいだ。

  

「一体何がどうしてこの船に乗ってんだ、お嬢さん?家族と喧嘩でもして、町を飛び出してきたのか?だが腹いせに心配させたいにしても、行き先もわからないような船に気安く乗るもんじゃないな。許可もなしに乗船すりゃ、その身に何が起こっても文句なんざ言えないぞ?」

  

 そう低く低く、影が笑う。その時かかっていた雲が晴れ、黒に塗り潰されていた姿があらわになった。深い青の船長服に身を包んだ黒髪の男が、目をすがめてシャニィを見下ろしている。そして彼はどこか意地悪げに唇の端を吊り上げると、こう付け足した。

  

「特にこんな———ではな」

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