最悪

 仰向けにされ腹部に刃を突き立てられたところで、郁野いくの 美佳みかは飛び起きた。


 しばし呼吸を繰り返し、今まで見てきたものが夢だったことを理解する。


 理解しても、5秒ほどは動揺して他のことができなかった。


 最悪だ。

 何だったのだ、今のは――前髪をかき上げてうつむき、

 「悪夢」以外に呼び方などないであろう体験を振り返る。


 夜の公園のような場所で、子猫を殺害する人がいた。

 自分は、その人物の視点と思考をなぞるように認識していた。

 そして途中から――では、子猫の感覚と思考まで加わってきた。


 強く首を絞められた経験などないにも関わらず、の窒息感はひどく現実味があったように思う。吐き気が込み上げてきた。


 どうして、あんな夢を見たのだろうか?

 何かの暗示?


 ……そんな訳ないか――


 今まで見た夢がそうであるように、現実とは何の関わりもない、脳が記憶を整理する際に生まれる、常識も空想もまぜこぜにした映像、音、感覚……。

 それが日なたのような幸せでも、はたまた闇の底のような絶望であったとしても、それは脳の気紛れだ。自分自身も、時間が経てば忘れてしまう。

 それだけのものだ。


 判断すると、カーテンの閉められた薄暗い部屋の中、少女は枕もとの目覚まし時計を手に取る。時刻は6時を回った頃。

 学校へ行く支度をするにはまだ早いが、睡魔よりも喉の渇きが勝った。


 ベッドから出ようとシーツに手をつく。

 と、柔らかい生地が異常に濡れていることを知った。


「え」思わず声を出してベッドを飛び出す。カーテンを開けた。

 振り返り、今まで自分のいた場所を見下ろす。本来は全面が淡いピンク色であるはずのベッドシーツは、美佳みかの寝姿を教えるように、人の形に濃くなっている。


 汗?

 汗だよね?


 恐るおそる匂いなど確認してから、彼女は部屋を後にする。本当に最悪だ。

 1階に降りると、リビングでは母 浩美ひろみが朝食を作っているところだった。父と兄の姿はない。父の出勤にも兄の登校にもまだ早いからだ。


 調理中のふくよかな体型の後ろ姿に声を掛ける。「おはよう」

 相手は包丁でダイコンを切る手を止めて振り返った。「あら、おはよう。早いわね」

 コンロには水の張られた鍋。みそ汁を作っているようだ。


 普段であれば朝ご飯が楽しみになる光景だが、今日は違う。

 美佳みかは母に報告する。

「お母さん、ごめん。すごい汗かいて、シーツびしゃびしゃになった」


 と、浩美ひろみはけげんな顔をした。「あら、風邪? ダイジョブ?」

「わかんない。なんか、すごくダルい……」


 母は包丁をまな板に置きエプロンで手を拭くと、片手を差し出してくる。美佳みかは片手で前髪を上げ、額を差し出した。

「熱は……ちょっとあるね」母は空いている方の手で、娘のぶら下げている手を握る。「手も熱い。あら、やだ! パジャマべたべたじゃない!」

 険しい顔をした大人は、子供のパジャマの袖から肩までをなであげてから背中も確かめる。と、言葉が見つからないようで「あらあら」と声を漏らした。

 美佳みか自身も冷たい感触から、パジャマの背面が最も濡れているのがわかった。


「まずは、お水飲んで。着替えてから薬も飲んで、今日は学校お休みしなさい」

「うん……」


「寝てても楽にならないようなら、病院に行きましょう」

「ん~」

「嫌がっても駄目よ! 中学生にもなってあんたは、もう!」


 これは、郁野いくの 美佳みかが霊感探偵と出会う少し前の出来事。

 「ただ体調が悪かっただけ」の、ある朝の一幕。

 母と会話する内に、悪夢のことなど忘れてしまっていた。


 それが彼女と猫の関係を示すの1つであるとは、知る由もなかった。

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