1―14 天罰というものがあるのなら

 その日、あかねは朝から苛ついていた。

 ――否、最近はいつも苛ついていた。


 毎日家事をして、日用品や食材の買い物をして、子供2人の面倒を見て、真仁まさとの小学校入学にともないPTAの集まりにも行くようになった。

 自分は休む暇もなく動いているのに、夫のたかしは大して手伝ってくれない。それどころか、少し子供の相手をしただけで「俺、頼りになるだろう」と言うかのような自信に満ちた眼差しをこちらに送ってきた。


 「何を考えているのだ」と怒鳴ってやりたいが、やることが多過ぎて夫に構っている余裕などなかった。


 付き合っている頃は毎日がドキドキして楽しかった。能天気で抜けているところがあっても、こちらを喜ばせようと精一杯に頑張る姿を何度も見て、プロポーズされた時には、天にも昇るような心地を得た。ケンカをしても、この人とずっと一緒にいたいという想いは揺るがなかった。

 真仁まさとの産声を聞いた時、それまでの壮絶な、本当に壮絶な苦しみがすべて吹き飛んだ。これからは、この子とも一緒に、明るい未来を築いていけるのだ――そう思って疑わなかった。


 ところがどうだ、子供のわがままは増していくばかり。どう叱っても言うことを聞かない。本当に静かにしてほしい時に限って、こちらをあおるようにやかましくなる。

 それだけならまだ良い。子供だから。困ることやムカつくことがあっても、どうしようもなく愛おしく感じる瞬間が、今にも爆発しそうな自分の感情をなだめ落ち着かせてくれた。


 しかし夫の無能さは許せなかった。

 お前は平日働くだけで、こちらに休みはないのか。お前は仕事だけすれば良くて、こちらのやることは日々増えていくのか。お前は少し手伝うだけで褒められて、こちらは何もかもやって当たり前なのか!


 何故、こちらが指摘するまで荷物を運ばない。

 なんで、駐車場で子供を放置する。

 どうして、危険も気遣いも想像できない。


 日頃から消極的なクセに、少し真仁まさとの相手をしたぐらいで「トイレ」などと言って臆面もなく逃げた。しかも堂々と、タバコの匂いをふんだんにまとわせて戻ってきたではないか。

 何をしているのだ。歯止めのきかない子供を、身動きできない女が食い止められると本当に思っていたのか。


 こちらが限界だとわからないか。

 考えられないか。


 こっちは子育ても近所付き合いも必死に勉強して変わろうとしてきた。外見のことで悪口を言われても、負けずに愛想を振りまき続けた。

 だが、お前はいつまでも能天気で、我慢もしない。何一つ変わりやしない。


 こっちの身になってほしい。考えてほしい。

 何度も助けを求めてきたのに!

 本当に、バカな奴。うんざりだ。


 夫への怒りを募らせたのもあって、真仁まさとは夫に連れ戻させようと考えた。

 そう、だったのだ。


「早く帰ろうよ! ゲームしたい!」

「お父さん待たなきゃでしょう」

「はーやーく! はーやーく!」

「うるさい! 待てないなら、一人で帰りなさい!」

「じゃあ帰る! もう、帰るから!」


 その時のあかねは、歩き疲れたと愚図って泣き出した真衣まいをあやすので精一杯だった。

 お願いだから大人しくしてくれ――

 お兄ちゃんなら、妹を置いていったりしないよね?


 そんな願いも虚しく、リュックサックに隠れた小さな背中は人波の中へ消えてしまった。

 駄目だったか――母はため息をつく。

 日々の中で真仁まさとが頑固なのは知っていた。言い出したら止まらない子なのだ。


 目を離すのは親としては不安だが、飛び出しなどするような子ではない。

 あるいは自分で戻ってくるだろうという期待もあった。

 やんちゃで元気でも、心細くなるとすり寄ってくる甘えたところもあるのを知っていたから。


 ある日、昼間にテレビのホラー特集を観ていた時、あかねが大げさに怖がって見せると、真衣まいが釣られたように泣き出したことがあった。

 その時に真仁まさとは「お兄ちゃんが守る」と言って真衣まいからテレビが見えないようにずっと壁になってくれた。チャンネルを変えればよいだけなのだが、頑なに恐怖映像をにらみ付けながらあかね真衣まいの手を握る姿が可愛くてそのままにしてしまった。


 そんな、良い兄だったのだ。

 言うことを聞かないことがしょっちゅうあっても、思い遣りのある良い子だったのだ。


 もし天罰というものがあるのなら、それは別の人間に下されるべきなのだ。

 それなのに。

 それなのに、あの子は命を奪われてしまった。

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