帝の都(五)

 私は、恋愛というものがあまりよくわかっていない。

 同性でも異性でも、素敵な人だなという感情が湧くことはある。でも私のそれは、あくまで人としての好意の範疇にあるらしい。


 かっこいい人を見てかっこいいと思うし、綺麗な人を見て綺麗だとは思う。

 好きだと思う、好ましいと思う、でもそれ以上のもっと踏み込んだ何かが、恋愛には不可欠らしい。


 好意を示されて嬉しいと思う気持ちもある。それなのに、どうやら私では同じ気持ちを返すことができない。

 返ってくる当てのない一方通行の想いを与えるのは、きっと永遠に続けられるものではないんだと思う。

 返すことのできない一方通行の想いを与えられ続けるのもまた、苦しいだけだ。

 だから私は、その先には至れない。


 最近、同年代の人たちが次々と結婚やら出産やらという話を始めた。

 そういう年頃なんだろう。

 実家に帰れば彼氏は的なことを聞かれるようにもなった。


 社会人に出て働き始めると、友人関係はどうしても学生時代に比べ希薄になっていく。

 恋愛という要素を排除してしまうと、人間関係自体が薄くなっていくのかもしれないと、最近感じるようになってきた。

 それが少しだけ、寂しい。


 もし私が普通に人を好きになって、恋愛できたとしたら。


 そんなことを考えながら左の手首を見る。


 白い糸をベースにして、藍色の糸と金糸が編み込まれている。複雑に編み込まれた繊細な編目模様、美しい光沢の組紐は、職人の手仕事による作品である。


 昼間お爺さんに貰ったものである。

 正確に言えば、トキヒト様がお爺さんに貰って、その場ですぐに私に与えられたもの。


 綺麗なものは好きだ。絵画、工芸品、刺繍に織物。美しい作品を見ると心躍る。

 その中でも特に精緻で緻密なものに心惹かれる。


 この組紐も、一本一本丁寧に編み込まれたのだろう。その作り手が掛けた時間と手間、思いの深さに魅せられる。


 でも、きっとそれだけじゃない。


 トキヒト様が手首に結んでくれた組紐。その色に見たもの。


 たぶん、私は興味があるのだと思う。

 それが、どういう意味だったとしても。




 ジャリ、という音がした。砂利を踏む音だ。

 その音に意識が浮上した。


 辺りは暗い。

 なかなか寝付けなくて、布団に入って時折まどろみながら、手首を眺め、つらつらと考え事をしていたが、周囲は夜特有の静寂に包まれている。

 明け方は遠い、夜中。


 部屋は角部屋で、御所の外れ。庭に片隅には古びた井戸がぽつんとあるだけ。


 今までトキヒト様以外にここにやってきた人はいないし、庭から回ってくる人もいなかった。

 何よりもこんな真夜中に。


 どなたですか、と起きて様子を伺えばいい。

 そう思うのに、なぜか身体が動かない。


 誰かが庭を歩いている。足音がこちらに近付いてくる。


 嫌な感じがする。なぜかすごく怖い。


 いっそ眠ってしまいたかったけど、逆に目が冴えた。背中を汗が伝うのが分かった。自分の鼓動が煩いような気がする。


 足音がぴたりと止まった。

 この部屋の、前で。


 私の背後には、衝立がある。その先には縁側とあとは庭があるだけ。

 こんな時間だ。女房にょうぼうの人たちは、いないと思う。


 衣擦れの音がする。

 絶対に、誰かが、何かがいる。


 ガタン、と音がした。木と木が触れ合う音。

 井戸の蓋が開いたのだ、と。なぜか確信した。


 呼吸の音で気付かれるような気がして息を止める。自分の口元を抑える手が、恐怖で震えている。


 ギシ……と、床板を踏みしめる音が響いた。


 水滴が落ちる音がした。

 濡れたものが、床を打つ。

 まるで、井戸から這い出してきた何かが近付いてきているようだ。


 衝立に、何かが触れた。ギィ……と、床を擦り動く音が聴こえた。

 水滴が落ちる音が聴こえる。


 頭上に影がかかった。

 何かが、私を背後から覗き込んでいる。


 頬に、水滴が落ちてきた。


 見開いた目、視界の端に黒い影が蠢いている。

 そこから滴る、生臭い液体が――――――




 自分の悲鳴で目が覚めた。

 そう思ったけど、悲鳴はどうやら夢の中で上げただけで、現実の声にはなっていなかったらしい。


 衝立の向こう側には青い空が広がり、雀が飛んでいる。

 すでに陽が高い。


「あまりにもホラー……」


 声に出すとちょっと怖さが薄れた気がする。


 どこか感じる倦怠感は、寝不足によるものだろう。

 慣れない環境による疲れと緊張もあるのかもしれない。


 伸びをした左手首には白い組紐が巻いてある。昨日貰ったものである。

 なんとも形容し難い気持ちを抱き、布団から這い出し縁側に出た。

 良い天気だ。井戸の蓋もぴっちり閉じてるし。


「……」


 蓋は、閉じてはいる。


 たまたまだろうけど、このタイミングで井戸の前に花が落ちてるのはいただけない。




 朝食を取り、茶碗を片手に庭に向かい縁側に座り込む。

 三日目ともなると着物にもちょっとは慣れてきた。

 

 暑くもなく寒くもなく、たまに吹く風は気分がいい。


 この都という場所はとても過ごしやすい。

 元居た現実世界は春先だったはずだが、と気候から何かを読み解こうと試みるも、過ごしやすい、という現実を脳内で再確認しただけで終わった。

 

 風に吹かれ、井戸の前に落ちていた花に付いている葉が揺れた。


 井戸の前に落ちているのは、白い花が一輪。

 花のことは詳しくないのでよくわからないけど、菊じゃないかな、あれ。すごく立派な菊。


 見ようによっては井戸の前に仏花が供えられているかのようにも見える。やめて欲しい。


 犬や猫が咥えてきて置いていったとか、大型の鳥とか、たまたま通った誰かがうっかり落としていったとか、それっぽい仮説は色々浮かぶ。


 気が付けば、部屋にやってきた女房にょうぼうさんが食べ終えた御前を片付けていくところだった。

 廊下を静々と行くその後ろ姿を眺めながら、茶碗の中身をちびりと舐める。


 やはり、甘い。


 甘茶、というものなのだろう。ここで出されるお茶はなぜか甘い味がする。

 大抵白湯さゆも一緒に出してくれるので助かっている。お茶は好きだけど、甘いお茶はちょっと苦手だ。


 というより、甘い物全般が得意ではない。甘味は果物で十分。

 身体がカフェインを欲しているけど、甘い飲み物を摂取するぐらいならお湯か水でいいと思ってしまう。


 一番最初に出された時は普通に飲んでしまったけど、いきなり好き嫌いを述べるような場面でもなかったし。

 顔に感情が出にくい質でよかったと本気で思った。


 他の茶にしてくれ、と言うのもどうかと思うし、なんとなく言い出しにくさを感じて今に至る。


 それに、昨晩思い出したこともある。


『茶は、飲むな』


 この世界に来て最初に出会った人物。あの人、夢二は、そう言わなかっただろうか。

 それを言われた時、私は色んなことがあって混乱していたと思う。落ち着いて聞き返すこともしなかったし、きちんとその意味を考えることもしなかった。

 でも、いまいち記憶に自信はないながらも、確かそう言っていたような気がする。


 どういう、意味だろう。


 このお茶のことを言っているのか、それとも別の意味があるのか、そもそも聞き間違いか。

 あの人を、信用していいのか。


 お茶を飲んでいけない理由があるとしたら、考え付く理由はひとつしかない。

 どれだけ考えても、私にはひとつしか思い浮かばなかった。


 何かが、混ぜられている。


 もしそうだとしたら、混ぜているのは誰だろう。

 女房にょうぼうのどちらかだろうか、それとも見ず知らずの誰かだろうか。


 それとも。


 茶碗の中身を傾ける。

 地面に零れて吸い込まれていくお茶を、私はよくわからない気持ちで眺めていた。

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