井戸に沈む(一)

 四日目 曇り時々晴れ

 ちょっと体調を崩したけど前日から続く寝不足のせいだと思う。

 日中休んで夕方には回復した。夕食に出た魚がおいしかった。

 まだ帰れないんだろうか。

 

 五日目 薄曇

 トキヒト様が私の体調を気遣いのんびりまったり御所の中を案内してくれた。

 螺鈿細工の衣装箱とか漆器とか色々見せて貰った。さすが御所。何時間でも見ていられる逸品ばかりだった。

 他にも色々ありそうですね、って言ったらまた見せてくれると言っていた。

 夕方、庭に猫が迷い込んできた。かわいい。明日も来て欲しい。

 

 六日目

 六日も経ってしまった。

 私の気分を反映したかのような、曇り。雨が降りそうな空模様だ。


 私が帰るための儀式とやらはまだだろうか。

 まあ何も言ってこないってことはまだなんだろうけど。あんまり聞いてせっつくのも申し訳ない気がするし。


 ここに来てからずっと、自分の奥底に焦りがある。ここで長く過ごせば過ごすだけ、現実での私のその後の人生に支障をきたす気がしている。

 それでも、待つしかない。


 朝食を食べ終えて、茶碗を片手に日課になっている縁側でのぼんやりタイム。

 雨が降りそうな薄曇りの空を眺めていたら、庭の方から猫の鳴き声が聴こえてきた。昨日の猫だろうか。

 なんか、必死に鳴いている感じがする。


 庭に出て、鳴き声のする方を探す。

 ところどころに植えられている木はきちんと手入れされ、枝葉を綺麗に刈り揃えられている。結構な大木もあるけど、それもちゃんと手入れがされてるんだろう。

 その中の一本、立派な木の上から鳴き声がしていた。


 見上げると、小さな仔猫が枝の上で固まっている。どうやら、塀を伝って登ってしまったようだ。

 ちょっと悩ましい、微妙な高さがある。


 私に宛がわれた部屋の裏手、たぶん普段あまり人が来ないところだと思う。

 そもそも御所でトキヒト様と女御さん二人以外に人を見たことがないけど。

 いや、最初に私を迎えに来た帯刀した男性三人がいたか。私を案内してそれっきり全然見かけないけど。


 とにかく私以外、周囲に人の気配はない。

 助けを呼ぶこともできないけど、見られる心配もない。

 猫はにゃあにゃあと哀れっぽく鳴き続けている。


「よし」


 草履をその場に脱ぎ捨て、上に着ていた着物を脱いで近くにあった岩の上に置いた。


 猫がいる枝の下、目一杯背伸びをしてようやく指先が触れる届く位置にある太い枝にジャンプして両手をかける。幹に脚をかけつつ、反動をつけて身体を持ち上げれば、枝の上には簡単に乗ることができた。

 気を付けないと、私はノーパンと自分に言い聞かせる。あまり大胆な動きはさすがに慎まなければ。


「ほら、おいで」


 枝の上に乗り、片腕を猫に向かって伸ばす。ぜんぜん、こない。


「おーいーでー」


 太い枝だけど、さすがに先の方にいけば私の体重は支えきれないかもしれない。真ん中ぐらいまでなら大丈夫だろうか。


 でも、折れたらまずいと思うんだよ。こんだけきちんと手入れされた庭の木、折ったら絶対まずい。


 頭上の枝に手を添えて、精一杯手を伸ばすと、指先が猫に触れた。

 二度三度と触れると、猫がこちらを向いて、縮めていた身体をそろりと伸ばす。そのまま私の腕を伝い、首元に身を寄せてきた。


 うん、かわいい。あったかい。首に触れる温度感にほっこりする。


「木登りですか」


 足下から、笑い含みのそんな声が聞こえてきたのは、木から降りるために姿勢を変えたのとほぼ同時だった。


「げっ」


 思わず出た自分の素の声に驚いた、というのもある。

 崩れた体勢を整えられないまま、身体が落ちる。とっさに枝にしがみつこうと伸ばした腕は、驚いたらしい猫の踏み台にされ空を切った。


 このまま膝から落ちたら脚折れる……!


 衝撃に身構える隙もなく落ち……なかった。誰かに抱き止められた。


 なんか、良い匂いがする。


「お怪我はございませんか?」


 耳元で、声がした。

 がっちりと、自分の手が誰かの着物を掴んでいる。いや、誰かじゃない。わかる。わかってる。


 木の上の私に声を掛けたのも、落ちた私を抱き止めたのも、今私がしがみついている相手も全部、トキヒト様だ。


 ロマンスを感じるより早く、不敬すぎて心臓が止まりそうな相手だ。

 首に抱き着くこの格好はいただけない。


「ご、ごめ、んなさい。ちょっと、驚いて……」


 落ちてきた人ひとりを軽々と抱き止めた、ように見えるトキヒト様はそのまま普通に歩き出した。私を抱えたまま。


 その雅な雰囲気に依らず、意外とがっしりしてるとか思ってごめんなさい。


 そんなトキヒト様の足元を、私を踏み台にして安全に着地したらしい仔猫が駆けて行った。

 無事なら、まあいいんだけど。いいんだけど。


「仔猫を助けようとされたのでしょう。謝ることはございませんよ。ご無事であれば良いのです」


 耳元で、穏やかな声が聞こえる。これはさすがに、ちょっと緊張するかも。


 縁側にそっと下ろされる。その手付きは丁重そのもので、どきどきが止まらない。

 いや、そういう意味じゃないのか、これは。膝を粉砕骨折とかしなくてよかったっていうどきどきかもしれない。


 いつの間にか近くにいた女房にょうぼうさんが、さっき私が脱いで岩の上に置いた着物をトキヒト様に差し出した。


「体調はいかがですか? あまり無理はなさらないでください」


 その着物を、トキヒト様が私の肩に掛ける。


 私が恋愛不感症女でなければ、たぶん恋に落ちる場面だ。

 いや、これ以前にも恋に落ちて良さげな場面は多々あったかもしれないけど。組紐を手首に巻いてくれた時とか。


「体調は問題ありません。ただの寝不足ですから。昨日たくさん寝ましたし、もう元気です」


 木に登れるぐらいには元気です。お恥ずかしいことに。


「寝不足、ですか」


 私を見下ろすトキヒト様の表情が、僅かに不可解そうなものになった。本当に僅かな表情差分だけど、私の目は誤魔化せませんよ。

 トキヒト様の目から見て私は能天気そうに見えるんでしょうが、悩んで眠れない夜ぐらいあるんです。


「ちょっと、色々考えてしまって。ご心配おかけしてすみません。今も、ありがとうございました。トキヒト様がいなかったらたぶん足が危なかったと思います。おかげで助かりました」


 私の言葉に、トキヒト様は軽く微笑んだ。


「なるほど」


 頷いて、トキヒト様が身を屈めた。……なんだろう。顔が近い。


「では、お助けしたということで。ぜひ褒美をいただきませんと」


 至近距離で私を覗き込むその目は、まるで何かを探っているかのようだ。


「褒美?」


「ええ。お茶に付き合ってください」

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