幕間:何も変わらないあの男

 あいつは5年前から何も変わっていなかった。


 変っていて欲しかったのかどうか、俺自身にも分からない。


 ゴドブゥールの森の調査。兄が担当するはずだったが、致し方ない事情で俺に役目が回って来た。


「悪いな、オズロ。お前の他に頼める人がいないんだ」


 俺とジリアム・グーデルトの因縁については、兄も良く知っている。それを知っていても尚、俺に頼むしかないくらい、あの森の調査で得られる情報が必要とされていた。外交上の重大な切り札だと聞いている。


 魔力が強いゴドブゥールの森から得られる物は、恐ろしく高値で取引される。魔獣溢れるこの森への立ち入りを禁じても、恐ろしさを侮って入り込む輩が後を絶たない。それを防ぐため宮廷は森の詳細を秘匿し、厳しく立ち入りを制限している。


(調査といえども、人物を選ぶから仕方ないな)


 王家の人間もしくは、予め宮廷の許可を得た強い魔力を持つ者。森に立ち入る事が許されている者は限られていて、権威ある研究院の学者にすら容易に立ち入りの許可が出ない。


 第5王子として生を受けた以上、こういう雑事が自分に回って来るのは致し方ない事だと諦めている。王位継承権を持ってはいるが、余程の事が無い限りは自分が王位を継ぐ事はない。兄達に比べて気楽に過ごさせてもらっている分は働こうと思っている。


(しかしよりによって、ゴドブゥールの森か)


 ジリアム・グーデルトの領地。あの男の事は思い出すだけで虫唾が走る。


 同級だったあの男には初等部の頃から嫌悪感しか持てなかった。学問、運動、武術、いずれにおいても並み以上の能力を持ち、容姿にも恵まれていて級友からの人気も高い。しかし俺はあの男の性根には何かしらの卑しさを感じ、出来るだけ関わらないように気を付けて来た。


 オズロ・ハインクライス。これが学校での俺の名だ。王家の人間だと知られたくない場合に、俺達は架空のハインクライス公爵家の人間として振る舞う。


 しかし、学校には貴族の子弟しかいない。当然周りは王家の者だと知っていて、偽名はただの慣習になってしまっている。


 それに家柄におもねり媚びへつらう者には、どんな名を名乗ったとしても変わりはない。ジリアム・グーデルトも恐らく王子という立場に惹かれてだろう、初等部の頃はしきりに俺に近づこうとした。


 しかし中等部に入る頃には諦めたらしく、代わりに俺の双子の妹のアイラに狙いを定めた。


(あの時に気付いていれば、止められたかもしれない)


 もう幾千回と後悔した事だが、ジリアム・グーデルトがアイラに近寄ろうとしている事に俺は全く気付けなかった。


 双子の妹のアイラには幼い頃から決まった婚約者がいた。家同士が決めた縁だったが、当人同士も仲睦まじく相性が良さそうだった。3歳の年の差があった為、婚約者は学校を先に卒業した。将来要職に就く事を期待されていた彼は慣れない宮廷政治に苦労し、妹に構う時間が取れなくなっていた。


 その心の隙を突かれて、アイラはジリアムグーデルトの魔の手に落ちた。


 高等部2年の時、アイラはジリアム・グーデルトと駆け落ちをした。


 事の重大さに黙っていられなくなったアイラの友人が、兄である俺に助けを求めた事から、手遅れになる前に連れ戻す事が出来た。


「ごめんなさい」


 憔悴して泣き続けるアイラはジリアム・グーデルトを悪く言わず、全て自分のせいだと言った。そんなアイラの目の前でジリアム・グーデルトが言った言葉を俺は生涯忘れる事は無い。


「アイラが俺に駆け落ちを迫ったんだ。俺は巻き込まれただけで迷惑していたんだ。全てアイラが、意に沿わぬ婚約を破棄して俺を手に入れる為に仕組んだ事だ。


 俺には婚約者がいる。こんな、容姿は見られなくもないが、知性の欠片も感じられない女に誰が本気になるものか」


 俺のせいじゃない、俺は悪くない、繰り返しながら全てをアイラのせいにするあいつを見て、アイラも自らがどれだか愚かだったか悟ったようだった。


 王女の醜聞に対して、宮廷はジリアム・グーデルトが思うほど甘い対処をしなかった。周囲に対して厳しく聞き取りを行い、ジリアム・グーデルトの嘘はすぐに暴かれた。


 罪人さながらの厳しい取り調べに、ジリアム・グーデルトはあっさりと思惑を吐いた。辺境の領主になる事を潔しとせず、王女の夫となる事で宮廷政治に食い込もうとしたのだと。


 想い合って駆け落ちしたという既成事実さえ作れれば、周囲も王女の我儘を許して結婚を認める。既に決まっていたお互いの婚約も無効に出来ると考えての行動だった。


(浅はかな事だ。しかし、甘い言葉に酔ったアイラにも罪はある)


 アイラが非を認めた事から、ジリアム・グーデルトは退学と王都への出入り禁止という軽い罪で済んだ。王女の誘拐の主犯として死罪が濃厚だったのに、その程度で済んだのはアイラが必死にジリアムを庇ったからだ。


 同じ結果を迎えるにせよ、せめて本気で想い合った末の行動であれば、どんなに救われた事だろうか。心に深い傷を負ったアイラは自ら婚約を破棄して屋敷に閉じこもった。同じ屋敷で暮らす俺ですら滅多に顔を見れなかった。


 事件の詳細を知っても尚、アイラの元の婚約者は心から彼女を愛し続けた。彼は周囲の反対を押し切ってアイラを支える事を選び、激務の合間を縫って頻繁に彼女を訪問した。


 つい最近、5年の月日を経てやっと再びの婚約に至った。来年結婚する事も決まっている。


(これが無ければ、ジリアム・グーデルトを殺したくなっていただろうな)


 もう時効として扱える、そう判断されたから王宮はゴドブゥールの森の調査を俺に任せても支障ないと判断したのだろう。俺も引き受けられると判断した。


 グーデルト領までは馬車で30日もかかる。この期間に、俺はこの地方の動植物や地質、気候について、出来る限りを頭に叩き込んだ。得意分野とは言え、他の地域と違う特殊な事が多く、30日かけても全てを把握出来たとは言い難い。


(1年あるから、詳しい事は現地で把握できるか)


 そんな甘えもあり、調査の計画をする為に必要な知識を優先させ、調査に関わる人間についての情報はその場になってから知れば十分だと判断した。


 加えて今回は政治的な事への関わりの一切を避けるつもりだった。通常は、その領地の運営実態や領主とその周りの人間関係も調査して報告する事が多い。


 ただし今回は、領主とその周辺には一切関わるつもりが無かった。それは宮廷にも伝え、事情を知る宮廷側も了承した。


「俺が行ったとしたら、顔を見るなりジリアム・グーデルトを縊り殺すだろうな。冷静なお前の方が落ち着いて対処できるよ」


 兄は笑って言った。双子の俺ほどの絆は無くとも、アイラは兄弟全員に愛されている。ジリアム・グーデルトは全員から憎まれている。


 グーデルト領に到着して領主達の出迎えを受けた時に、5年ぶりにあいつの顔を見た。覚悟していた事とはいえ平静を保つには、かなりの精神力を要した。話をするつもりは無い。俺は領主にだけ挨拶をして、その場をやり過ごした。


 調査を滞りなく済ませる、その事だけに意識を集中しようとした。それでも出迎えた時の領主一家の視線に含まれる憎悪が俺を苛立たせた。


(あいつは、あの事件の事を自分に都合良く伝えているのだろう)


 想像は出来る。それでも、どう伝えているのか気になってしまった。心のどこかでジリアム・グーデルトがアイラへの仕打ちを悔いて、その後の人生をまっとうに生きていると思いたかったのかもしれない。


 俺は使用人に金を握らせて、現在のジリアム・グーデルトについて調べた。あいつの人望の無さは滑稽な程で、わずかな金で使用人達は何もかも話した。


(あいつは、5年前から何も変わっていない。いや、むしろ酷くなったか)


 事件について、自分は陥れられたと触れ回っている事は想像通りだった。しかし、宮廷への報告無しでゴドブゥールの森の恵みを売り払い、街に出て質の悪い連中とつるんで遊び回り、領内、領外、身分を問わず、大勢の女と浮名を流して心無い振る舞いをしている。もう性根が腐っているとしか思えない行状だった。


「何もご存じ無いリリイナ様が本当にお気の毒で」


 使用人達からのジリアム・グーデルトの評価は地に落ちていたが、彼の婚約者だという女性は同情を集めていた。凍てつく冬の花と称される美貌の女性で、冷たい外見とは裏腹に使用人達への心ある振る舞いから慕われている様子だった。


(だが所詮、平気であの屑の婚約者でいられるような人間だ。ろくな女じゃないだろう)


 聞けば伯爵家の令嬢であるにも関わらず、辺境の地に留まって王都の学校にも通学していなかったらしい。まともな教育すら受けていない世間知らずな娘だからこそ、あの屑と平気で一緒に居られるのだ。


 歓迎の舞踏会への参加は、お互いに不快でしか無いと分かっていても体裁を整える為には必要だった。それでも、この屑が平気で俺に笑顔を向ける事がどうしても許せない。


 アイラが苦しんだ5年間、こいつは好き放題楽しんで暮らしていた。あいつの罪を無かった事になど出来ない。


「容姿は見られなくもないが、踊りたいと思える程の知性は欠片も感じられないな。ダンスは遠慮させて頂こう」


 あいつの婚約者に対して俺が言った言葉は、確実にあいつの胸を刺し貫いた。


 あいつがアイラに言った言葉をそのまま使っている。俺は許していない、言葉の意図を正しく理解したのであろう、顔色を失ったあいつの顔を見て少しだけ溜飲が下がった。もう子供ではない。領主の仕事を手伝うようになって宮廷の権力が身に染みているのだろう。あいつは俺の機嫌を損ねる事は出来ない。


(それが理解出来るくらいの知恵はあるんだな)


 この後はもう、調査が終わるまで顔を合わせなくても問題ないだろう。俺は消化しきれない憎しみの上に、最近やっと笑うようになったアイラの幸せを重ねて、全てを忘れる事にした。


 この先は調査に専念する。俺はここに来てからジリアムへの憎しみに囚われて、何も準備していなかった事に気付き、持ち込んだ調査道具の整理を始めた。


 舞踏会の翌日、森の番人だという女性が来た時には、まだ全く準備が整っていなかった。誰かがその日から調査を開始すると伝えていたらしい。


(舞踏会を一区切りとして、気を利かせたのか)


 魔獣の森の番人という言葉から屈強な壮年の男性を想像していたから、華奢な女性であることに驚いた。案内人など務められるのか、という疑念はすぐに払拭された。


 俺の様子や質問から知りたい事を正しく察して過不足の無い案内や説明をする。動植物や地形、気候、歴史など一定以上の教養がある事も伺える。学者として振る舞う時には王家の名を使わない。俺の事を王都のそれなりの家の貴族だと思っていると思われ、それに適した礼儀も保てている。


(ただの街の娘ではないのか?)


 若い女性にしては化粧気もなく軽装なので、街の平民の娘だと思っていた。しかしよく考えれば、ゴドブゥールの森の番人に選ばれるくらいの魔力があるのだから、城でそれなりの扱いを受けていて当然だ。


 案内人についての資料もあったはずなのに、ちゃんと読んでおかなかったのは失礼だったか、そう思い気軽にした質問から、俺は女性の正体を知った。


(ジリアム・グーデルトの婚約者⋯⋯)


 しかも、彼女の口調から判断すると、彼女はあいつを信頼して敬愛している。


 知性も分別もありそうなこの女性が、あの性根の腐った屑を信じて愛していると言う事に、どうしても納得いかない。蓋をしたはずの憎しみがまた顔を出し、アイラの憔悴した顔が頭いっぱいに広がった。


(あいつに騙されているんだ)


 喉元まで出た言葉を飲み込む。彼女にとって俺は婚約者の敵だ。何を言っても信じてもらえないだろう。


(この女のことなど、放っておけばいい)


 しかしどうしても、憔悴したアイラの顔とこの女性の顔が重なる。アイラを守る事が出来なかった後悔が胸を焼く。


「ジリアム・グーデルトは抜きにして、あなたと私の間で信頼関係を築きたい」


 気が付けば、そんな提案をしてしまっていた。個人として信頼関係を築ければ、彼女に意見する機会も生まれるだろう。しかし婚約者に心酔している様子の彼女が受けるとは思わなかった。


「この森の中では、私とあなたは対等な関係。その約束が出来るのでしたらジリアム・グーデルトの婚約者としてではなく、ただのリリイナとしてあなたに協力する事にします。どうしますか?」


 ジリアム・グーデルトの美しい婚約者は、凍てつく冬の花という異名とは裏腹に、熱く挑戦的な視線を俺に向けて来た。


 敵対する自分と信頼関係など築けるものか、そう言いたいのか。俺には彼女との対等な関係など受け入れられないと思っているのか。


(面白い、その挑戦を受けよう)


 対等な関係を受け入れた、という意思表示を込めて『リリイナ』と呼んでみる。彼女は強い眼差しを俺に向けて『オズロ』と返してきた。


 この女は、ただジリアムに踏みつけられるだけの女ではないかもしれない。彼女を救いたいという気持ちだけでなく、少し興味が湧いた。

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