宿敵と交わす秘密の約束

「ご承知かとは思いますが、この森には魔獣が多くいます。魔獣は魔力が強い人間には寄って来ません。森の中では私から離れないようにして下さい」


 私の注意に、オズロ・ハインクライスは神妙な顔で頷いた。


「ギードやウリオンのような魔獣もいますか?」


 ギードは熊のような大型の魔獣で、人間や獣を襲い弱らせてから巣に持ち帰る。死なない程度に獲物を生かしたまま、魔力を長期間に渡って吸い続ける恐ろしい魔獣だ。私ですら気配を感じたらすぐにその場を離れる。


「ギードはいます。一番注意を払うべき魔獣です。ウリオンは見た事がありません。いないとは言い切れないので分からないというのが正確な答えになります」


 ウリオンは狼のような魔獣だ。群れを作らず単独で行動する。遠吠えもしないので実際に遭遇しないと存在を確かめられない。ただし気位の高いウリオンの縄張りに入ったものは例外なく命を落とすと言われている。今の私が無事なのは、魔力が強いせいなのか縄張りに立ち入っていないのか判断できない。


「それは、十分に注意が必要ですね」


 オズロ・ハインクライスは少し緊張しているようだ。無理もない。魔獣に襲われる心配の無い私とは違う。例えば私が彼を置いて走り去ったとしたら、彼が生きて森の外に出られるかどうか分からない。


(今朝も昨日みたいな失礼な態度だったら、考えたかもしれないわね)


 残念ながら今日のオズロ・ハインクライスは感じが良く、命を脅かすほどの嫌がらせをする気分にはなれない。


 私は森の中をざっと案内し、オズロ・ハインクライスはこまめに何かを書き記していた。案内する間に売れそうな香草を数種類摘んだ。それも珍しそうに見て何かを書き記していた。


「始めの数日は、森の全容を理解したいと考えています。後で結構ですから、手持ちの地図とあなたが把握されている実際の地形に違いがないか確認させて頂けないでしょうか」

「承知致しました」


 オズロ・ハインクライスの命令ではなく依頼する、という態度と昨日の態度がどうにも結びつかない。


「あなたは、この地方で一番魔力が強いのですか?」

「はい、そう聞いております」


 へえ、と私を見る視線は意外そうだ。さっきも案内人は男性だと思っていたと言っていた。ここに来る準備もしただろうし王都からここまで馬車で30日もかかる。いくらでも情報を得る時間はあっただろうに、自分が世話になる案内人の事すら把握していないようだ。


(所詮、案内人なんて道具の1つくらいに思ってるんでしょう)


 私なら、魔獣の森で命を預ける相手なのだから、ちゃんと情報を得ておく。そんな思いが顔に出てしまったようだ。オズロ・ハインクライスは目を伏せた。


「あなたが推察されている通り、色々と準備が足りていません。言い訳するとこちらに着いてから落ち着いて状況を掴むつもりでした。1年という長期を予定しているので急がなくても良いと思っていたのです」


 季節ごとの植物の調査であれば確かに急ぐ事はない。夏の調査を急いだからといって早く秋や冬の調査に入れるわけでは無いのだから。


「でも、あなたのお時間を頂く立場としては、事前にもっと準備をして手を煩わせないようにするべきでした。大変申し訳ない」


 この場に置いていかれたら困るとか、私の協力無しでは森に入れない、など弱みがあるから口先だけで取り繕っているのか。疑ったけれど、そういう様子ではない。


「お調べになるより、私に直接聞いた方が早い事も多いと思います。気になる事は遠慮なくお尋ね下さい」


(このくらいは親切にしてあげてもいいだろう)


 オズロ・ハインクライスは、少しだけほっとした顔になった。あまり表情を顔に出さないようだけど、目元を観察していると感情が読み取れそうだ。


「この地方では生まれてすぐに魔力量を測ると聞いています。あなたは魔力が強かったからあの城に引き取られたのですか?」


(引き取る⋯⋯?)


 答え方が難しい。足元が少しぬかるんでいる。滑らないように気を付けながら少し考えをまとめた。


「私がこの城に来たのは生まれてすぐではなく7年前です。兄が亡くなって甥が家を継ぐ時に私の処遇に困った実家が、婚約先であるグーデルト家に結婚に先んじて預けました。ご質問にお答え出来ているでしょうか」


 私が11歳の時に兄が急逝した。幼い甥が後を継ぐ事が決まると、義姉は私の存在が目障りになったようだった。行き所の無くなった私を、ジリアムと婚約中という理由でグーデルト家が引き取ってくれた。その時点ではまだジリアムは王都で学校に通っていたのに義両親が私の面倒を見てくれた。それについてはとても感謝している。


 ジリアムが王都を払われた事については触れたくない。違う方向に話題を持って行きたい。一生懸命に話題を考える。


 ぬかるんだ足元と考えに集中していて、オズロ・ハインクライスが後を付いて来ていない事に気づくのに遅れた。慌てて振り返ると、彼は青い顔をして地面の一点を見つめて考え込んでいた。


「どうかなさいましたか? 危険なので私から離れないで頂きたいのですが」


 彼はゆっくりと顔を上げた。


「もしかしてあなたは、ジリアム・グーデルトの婚約者ですか」


(やっぱり分かって無かったのね)


 私は少し意地悪な気持ちになる。昨日の屈辱を少しだけでも晴らしたい。


「おっしゃる通りです。知性の欠片も無い私が案内人だなんて、お腹立ちも当然だとは存じますが、この領地には他に森に入れるものがおりませんのでご容赦頂けないでしょうか」


 さすがに昨日の自分の言葉を思い出したのだろう。眉間にしわを寄せて俯いてしまった。


 遠くで獣が草木を踏む音が聞こえる。魔力は感じないから魔獣ではないだろう。この沈黙をどう処理して良いか分からず、私はただぼんやりと彼が動くのを待つ。


「昨日は大変申し訳ない事をしました」


 驚くべきことに、オズロ・ハインクライスは深く頭を下げた。身分が高い人に頭を下げさせている事に慌ててしまう。


「頭を上げて下さい。そのようなお気遣いは必要ございません」


 しかし彼は頭を上げない。


「本当に、困りますから」


 数度繰り返すと、やっと頭を上げてくれた。見せたその顔には、かろうじて後悔が読み取れそうな表情が浮かんでいる。


「あれはジリアム・グーデルトに向けた言葉で、あなたを侮辱するつもりはありませんでした。頭に血が上っていたので、あんな振る舞いをしてしまいましたが冷静になった今は後悔しています。いくら言い訳をしても、あなたに不快な思いをさせた事には変わりありません。申し訳ない」


 ジリアムの婚約者だと言っているのに。下々の人間は婚約者への侮辱なんか気にしないとでも思っているだろうか。むしろ不快さは増している。


「あれがジリアム・グーデルトに向けた侮辱だと言うなら彼の婚約者として、私に向けた物以上に許す事が出来ません」


 オズロ・ハインクライスの顔に一瞬怒りが浮かぶ。注意して観察しなければ分からないものではなく、誰が見てもはっきりと分かるほどの怒り。


「あなたが、どの程度の事をご存知なのか知りませんが、私は生涯何があってもジリアム・グーデルトを許すことは出来無い」


 彼は深く呼吸をして、浮かんだ怒りを消すと元の無表情に戻った。


「ただし今はこの地で調査をさせて頂く身だ。今後もあなたの助力を得る必要がある。1年を通してお互いに不愉快なまま過ごすのは避けたい。あなたには難しいかもしれないが、ジリアム・グーデルトは抜きにして、あなたと私の間で信頼関係を築きたい」


 この人と私の間の信頼関係。私が愛するジリアムを憎み、またジリアムに憎まれるこの人と。平気で目下の者を蔑むこの人と。


 私は感情を抑える為に何度も深呼吸をした。


 冷静に考える。この人が言う通り憎み合っても仲良くしても、1年を一緒に過ごさなければならない事に変わりはない。調査が上手く行かないと、もう1年滞在する事になってしまうかもしれない。良好な関係を築いて不快さを最低限に留めて最短で去ってもらうのが誰にとっても良い事だ。もちろんジリアムにとっても。


(ジリアムにとっても?)


 いや違う。完全に私の都合だ。この人がいる1年間を快適に過ごし、早く解放されたい。私は今、ジリアムの婚約者として意地を張り通すよりも、私が1年を快適に過ごす道を選ぼうとしている。


「あなたは私に命令出来ますが、そうではなく自発的な助力を得る事を望んでいるという事でしょうか?」

「はい、その通りです。ただ命令に従うだけの人を求めていない。協力して調査を行う事を望んでいます」


 私はもう一度、深く呼吸をした。浮かんだ答えは私の罪悪感をひどく刺激する。


(ごめんね、ジリアム)


「この森の中では、私とあなたは対等な関係。その約束が出来るのでしたらジリアム・グーデルトの婚約者としてではなく、ただのリリイナとしてあなたに協力する事にします。どうしますか?」


 生涯許さないとまで言う相手の婚約者であり、身分が低く知性が無いと蔑むこの私と信頼関係など築けると本気で思っているのか。


 もし傲慢なこの男が私と対等な関係を築く努力をするなら、命令に従って最低限の事をするのではなく誠実に協力してあげてもいい。


(あなたに出来るの?)


 オズロ・ハインクライスの瞳を見据えた。


 オズロ・ハインクライスは少しだけ表情を緩めると、私に手を差し出した。


「この森では、あなたと私は対等だ。⋯⋯よろしく頼む、リリイナ」


 彼の瞳に挑戦的な光を感じるのは気のせいだろうか。出来ないとでも思っているのか、そう言っているように見える。


「分かったわ、オズロ」


 差し出された手を取り、私たちは握手をした。魔力あふれる森で交わした約束。ジリアムには言えない秘密の約束。私は魔獣にでもなった気分だ。

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