魔獣に食わせてやりたい
「踊りたいと思える程の知性は欠片も感じられない」
宿敵オズロの口から出た心無い言葉に、さすがのお義母様も私の手をぎゅっと握ってくれた。ジリアムは顔色が雪のように白くなっている。
「お父様、私、あいつを魔獣に食わせてやりたいわ」
ユリアが低い静かな声で言った。私はひどい侮辱を受けた事は理解出来たものの、耳から入った言葉を上手く飲み込めなかった。
(これって、私の事よね。一言も言葉を交わさずに、知性の欠片も感じられないって言われてしまったわ)
不幸な事に周りには他の招待客もいる。私に投げられる同情の視線がとても辛い。何度か深呼吸して平常心を取り戻そうとして、ふとジリアムを見ると、顔色が真っ白になったまま少し震えていた。
「ジリアム?」
彼の顔には、何か恐ろしい物でも見たかのように恐怖の色が浮かんでいる。私は自分が受けた侮辱よりもジリアムの受けている衝撃の方が気になった。
「ジリアム、大丈夫?」
私の再びの問いかけに、苦しそうに答えた。
「すまない。あいつは、まだ俺の事を憎んでいるのかもしれない。妹の心を奪った事を未だに許せないのだろう。俺の婚約者というだけで、大切な君にあんな侮辱を許してしまった」
ジリアムは私をじっと見つめた。
「宮廷の権威を笠に着て傲岸不遜な態度を取るあいつが許せない。でも、俺が楯突けば領地全体が咎を受ける。――不甲斐ない俺を許してくれ」
すまない、とジリアムが辛そうな顔で私に許しを請う。
「私は平気よ。大丈夫。そんな事であなたが気に病む事は無いわ」
ジリアムが私の手をぎゅっと握った。お義母様はそれを見ても何も言わない。
「今日は俺とだけ踊ろう」
私はジリアムをしっかり見つめて頷いた。私より彼が傷ついた事の方が許せない。
(宿敵オズロ、本当に大嫌い。明日、森の中に置き去りにしてやろうかしら)
一人の人と踊り続けるのは行儀が悪い事とされている。でも今はお義母様も咎める事なく『リリイナは明るい曲が好きだったわよね』と演奏者達に指示を出しに行った。
私はジリアムとダンスをするのが好きだ。手袋越しに握った手からぬくもりを感じ、彼の力強いリードに自分が守られていると感じられる。ダンスの時だけは、私だけに向けられた優しい瞳をどれだけ眺めても叱られる事はない。
ジリアムは踊りながら、『好きだよ』『綺麗だよ』熱い言葉を囁いてくれる。私はその言葉の甘さに溶けそうになる。『凍てつく冬の花』なんて言われているけれど、きっと私は炎のように真っ赤になってしまっているはずだ。
ジリアムと数曲踊った後は、ユリアが『お兄様、独り占めは許さないわよ』と踊ってくれた。長身のユリアは舞踏会ではいつも男性役を好む。女の子たちは他の男性に見向きもせずにユリアと踊りたがる。
ユリアとも数曲踊った頃には、宿敵オズロの失礼な態度を心の奥底に押し込める事に成功した。宿敵は⋯⋯と目で探すと領地の内外の有力者達に囲まれていた。不愉快なので見なかった事にする。
「お義姉様と領主様が来るって聞いていたんだけどな」
私の両親は早くに亡くなった。兄が後を継いで義姉と結婚したのだが、不幸な事に兄も早逝してしまった。忘れ形見の息子が幼いながらに領地と爵位を継ぎ、義姉と親戚が幼き領主を補佐して領地の運営を行っている。
今日は義姉と甥が来ると聞いていた。招待客の状況を把握している使用人を探して城の奥を歩いていると、柱の影から逢引き中の男女らしき声が聞こえた。
「ねえ、ジル。いいじゃない」
「今夜は駄目だ」
「お願い、少しだけ」
艶やかな甘い声と⋯⋯聞こえるのはジリアムの声。
(ジル?)
ジリアムの幼い頃の愛称だ。大人になってからは皆、遠慮してその名を呼ばない。
「本当に今夜は駄目なんだ。近いうちにあなたの所に行くから我慢してくれ」
心臓が早鐘を討つ。
(違う、ジリアムは誰かに『ジル』なんて呼ばせたりしない。これは招待客の誰かが逢引きしているだけだわ)
私は急いで広間に戻った。途中、使用人に行き会い義姉と甥について尋ねたところ、二人はつい先ほどまでここにいたとのこと。甥の調子が悪いなどの理由で、もう引き上げたのではないかと使用人は言う。
(挨拶くらいしたかったのにな)
甥は体が弱い。人が多いこういう場は体に障るのかもしれない。
「見つけた、リリイナ。もうユリアは君を解放してくれたみたいだね」
ジリアムが私の手をそっと握る。見上げるといつもの優しい瞳が私に向けられていた。様子におかしなところは無い。
(さっきのはやはり別人よ。声が似ていただけだわ)
「さあ、もう一度俺と踊ろう」
私はジリアムとのダンスを楽しんだ。彼からはさっき踊った時には感じなかった、少し甘い香水の香りがする。
(ジリアムはこんなに素敵だからな)
ジリアムはここで、他の女性のダンスのお相手をしていたのだろう。やっぱり、先ほど廊下で逢引きをしていたのはジリアムではない。
私はもう一度、手袋越しのジリアムの体温を確かめ美しい瞳を眺める。こんな素敵な彼が自分の婚約者だということに、いつも面映ゆさを感じる。
◇
(いやだ、いやだ、いやだー)
塔の階段を登りながら、ずっと同じ事を頭の中で言い続けた。朝の鐘を鳴らし、6か所全ての灯りを消した後も、まだ嫌だという気持ちを切り替えられない。
今日は朝食後にオズロ・ハインクライスの所へ行って、指示を仰がなければならない。昨晩、私にひどい侮辱の言葉を浴びせた、あの宿敵オズロに。
(ユリアが毒虫を本当に放り込んでいて顔中腫れ上がってたら、少しは気が晴れるのに)
朝食の間、皆しんと静まり返って会話が無かった。お義母様さえ今朝の私には一言も小言を言わない。さすがに昨日の侮辱の後にオズロの元に行かなければならない私の心情は想像出来るのだろう。
「では、私、行って参りますね!」
皆の心配そうな視線を背中に浴びながら私はオズロ・ハインクライスが滞在する家に向かった。
扉の前で何度か深呼吸をし、覚悟を決めてから扉を叩いた。ややあって中から声がする。
「開いているので入ってくれ」
入ってくれと言われても案内も無しで入るなんて不躾すぎる。困った私は迷った末にもう一度扉を叩いた。しばらくして静かに扉が開いた。扉の向こうに見えた顔は、もちろん毒虫にさされて腫れ上がったりしていなかった。
「申し訳ない、使用人かと思いました。⋯⋯あなたは?」
(昨日侮辱した相手を忘れたらしいわね。この人こそ知性の欠片も無いんじゃないの)
かなり腹が立ったけれど懸命に無表情を作り答える。
「リリイナ・フィルハムと申します。ゴドブゥールの森の番人です。調査のお手伝いに参りました」
「あなたが森の番人? 失礼しました。こちらへどうぞ」
オズロ・ハインクライスは少しだけ驚いた顔をした後に、扉を大きく開いて私を中に通した。この家は玄関の奥に広い居間が続いている。家主だった老人は広い居間を中心に暮らしていたようで、応接部屋は無く2階に生活する部屋が少しあるだけだ。
オズロ・ハインクライスも同じように暮らすことにしたらしく、居間には本が積み上がり書類が散らばっていた。
「いらっしゃるのは数日先だと思っていたので、まだ準備をしておりませんでした。でも、一度森を見ておいた方が良さそうだ。申し訳ありませんが少しだけお待ち頂きたい」
オズロ・ハインクライスは丁寧に言うと、私を居間の隅の椅子に座るよう促した。
(昨日とは別人みたい)
口調も態度も柔らかい。昨日の触れるだけで身を切られそうな冷たさは感じない。
(これは確実に、私を昨日侮辱した相手だって気づいていないわね)
今日の私は森で動きやすい恰好をしている。昨日の着飾った姿とは違うはずだ。同一人物だと思っていないのだろう。また侮辱されるかと身構えていた私は少しだけ安心した。
「森の番人だと聞いていたので、屈強な男性だと思っていました。あなたのような若いお嬢さんだと思わなかったので少し驚きました」
私が国からオドブゥールの森への立ち入り許可をもらっているのは役目があるからだ。定期的に森の中を見回って、特定の魔獣が異常に増えていたり、森の中で醸成される魔力が異常に増える、逆に減るなど常とは明らかに違う事があった場合に報告をする。
それは『森の番人』と呼ばれていて、大抵の魔獣に襲われないだけの魔力が必要だ。魔獣に襲われないという印象が、屈強な男性を想像させたのだろう。
(襲われないのと、戦うのは違うんだけどな)
「お待たせしました」
準備が出来たというオズロ・ハインクライスは記録用の道具を入れた鞄と大き目のかごを肩から掛けている。かごを肩に掛ける事は思いつかなかった。私の熱心な視線に気が付いたのか説明してくれる。
「不格好だとは思いますが森の中では両手を空けたいので、全て肩に掛けられるようにしています」
「無作法に眺めるような真似を致しまして申し訳ありません。かごを肩に掛けるのは良い考えだと思ったものですから。安全を考えて両手を空けるというのは賢明なご判断だと思います」
私はオズロ・ハインクライスを森に案内した。城から森に繋がる入り口を監視する兵はいない。城内の誰も、進んで命を落とそうとは思わないからだ。
鬱蒼とした森を進む。ゴドブゥールの森は人が通るように整備されていないので気を付けていないと転びそうになる。両手を空けておくのは理にかなっている。
(あの、かごに紐を付ける考えはいいわね。後で、私も真似して付けてみようっと)
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