第7話 チャラいヤツ

 幸い、廊下というのは真っ直ぐだった。100m走を走るようなものだ。

 人にぶつかるのを回避さえすれば、難しいことじゃない。

 廊下には、時間に神経質な教師と、時間にルーズな生徒がいた。そのうち僕がぶつかったのは、後者だった。


「おっと! 大丈夫?」

 顔を上げると、チャラいと有名な隣のクラスの櫻井だった。貴史は櫻井との接触を避けていたし、自然、僕も櫻井と交友はなかった。

「ごめんなさい。前、よく見てなくて」

 初めてじっくり目の前で見た、チャラいと噂の櫻井の顔は線がスッキリして、女のようにほっそり整っている。髪は整髪料で軽く仕上げてあり、確かにモテそう。

 前髪を持ち上げるのは癖なのか、パッチリした二重の目がよく見える。――貴史と、違う匂いがする。


「茅ヶ崎サン、だよね? クラス、隣でしょ? どこか行く予定?」

 明るい調子で話しかけられる。瞳が茶色い。不思議な感じ。

 鏑木とはまた違う、軽い感じ。なんて言うか、取っ付きやすい。

「ううん、落し物したかと思って焦ったけど、大丈夫だったみたい」

 冷や汗ものの、取って付けた言い訳をして、その場を繕う。櫻井もそれ以上、追求はしてこない。


 何もしたことがないような、白くて細い指。

 僕がぶつかった時、転ばないようにサッと助けてくれた。見た目と違って力強いんだな、と思う。

 気が付くと人はまばらで、出欠確認の始まったクラスもありそう。早く⋯⋯。


「ヤバい、急ごう! ボク、今日遅刻するとちょっとまずいんだ」


 急に手を掴まれて廊下を走る。

 他のクラスの子たちが驚いて、次々にこっちを見てる。

 えー!? ひとりで走れば良くない? その方が速いって。


「このお礼は後でするから!」

 じゃ、と言って、櫻井は隣の教室に入って行った。セーフだったらしい。焦っていたのは本当だったようで、教室に入る時には、せっかく調えた髪が乱れていた。

 なんなんだ⋯⋯。跳ね馬のようなヤツ。


 ◇


「純~」

 さゆりんから指でつつかれる。

「どれだけ『噂の中心』になれば気が済むのよ」

 にこにこしてるのが、怖い。

「な、なんのこと!?」

 真佑と芽依ちゃんが、わたしのことを無表情に見てる。

 今はお昼休みで、4人でさゆりんの席の近くに集まるところだった。


「お客様」

 え、と顔を上げると、そこには櫻井がいた。

 今朝、会ったばかりだから、間違えようがない。

「ああよかった。茅ヶ崎さん、呼び出してもらうところだった」

「櫻井、純は決まった人いるんだから、弄ばないでよ」

 珍しく芽依ちゃんが怖い声を出して、櫻井を睨んだ。これは本当に珍しい。いつもお淑やかな芽依ちゃんが、だ。

「そういうんじゃないよ、借りを返しに来ただけ」

「それならさっさと行って! ややこしいことになる前に!」


 さゆりんは僕を教室から締め出すと、皆からの不要な視線を遮断するように教室のドアを閉めた。


「貸し借りなんてないよ?」

「だってボクのせいで走らせちゃったからさ」

 購買の混雑を前にして、櫻井は「何が好き?」と訊いて、カフェオレを買ってきてくれた。

 そして今、僕たちは人通りの少ない特別棟にいた。

「律儀なんだな」

「それ程でもないよ。受けた恩は返すだけ」


 チャラいと思ってたけど、その言葉は本心のようで、別に普通の男のように思えた。

 櫻井は似合わないピンクのパックのイチゴオレを飲んでいる。似合わない? 似合うかも。ちょっと不貞腐れたような顔が、かわいくもある。


「イチゴオレが好きなの?」

「んー、茅ヶ崎さんの気が変わったらと思って。茅ヶ崎さんて、勝手なんだけど、ピンクのイメージ」

 かあっと頬がまた赤くなって、自分の部屋を思い出す。それは決して僕の趣味ではなかったけど、ピンクのベッドカバーに、ピンクのうさぎ。あながち間違いじゃない。


「あ、もしかして当たっちゃった?」

「⋯⋯嫌いではない」

 僕は持ってきたランチバッグを出して、中から弁当箱を出した。

 ふと、櫻井を見ると、ありがちなことだけど、コンビニの袋を持っていた。中身はハムチーズサンドひとつ。足りるのかなと、他人事ながらも心配になる。

 貴史ほどではないけど、櫻井はタッパがある。

「茅ヶ崎さんはお弁当派かぁ」

「いや、母親が持たせるから」

「ふーん、お母さん、やさしいんだね」

「そう? 普通じゃない?」

 そこで会話は止まる。

 僕はガチャガチャと弁当箱とカトラリーを出していた。


 ピンクのパックは、中身が入ってるようには見えなかった。ストローは咥えてるだけだ。


「あのさ、サンドイッチだけじゃ足りなくない?」

「心配させちゃった? いいんだよ、いつも通り」

「でもさ、僕よりずっと身体大きいし、食べた方がいいよ。弁当、交換しよう」


 櫻井は目を細めて「やさしいんだね。まるで少女マンガみたい」と微笑んだ。

 しょ、少女マンガ。なるほど、ありそうな展開だ。

 だとすると⋯⋯すげーマズくない!? これはそういうフラグ!!

「でもさ、それって東堂に怒られちゃうよ。勘違いさせることは相手の気を悪くさせるよ?」

「貴史は関係ない!」

 はっ! 思わず強く言ってしまい、これは失言だと下を向く。くぅっ、また耳まで赤いかもしれない。


「あのね、そういうこと言うと、男って期待しちゃうんだよ。だからやたらに言っちゃダメ。東堂は今だって気が気じゃないと思うよ?」

「そう思ってて、誘ったの?」

「んー、そういう訳でもないけど。でももしかしたら、そうかも。嫉妬されるって、そんなに悪くないし」

 なんだそれ? 理解不能。第一、貴史は本当に関係ない。

「貴史は僕の友だち関係に口を挟まない約束だから」

「⋯⋯へぇ。余裕なのかな」


 思わずサンドイッチの包みをペリペリ剥がす、櫻井の横顔を見る。何を考えてるのか、まるでわからない。

『余裕』ってなんだ?

 いろんなことがこの世界線では変わってて、順応しきれない。

 櫻井だって、元の世界線なら絶対、友だちにならなかっただろうに。


 僕の視線に気が付いた櫻井がこっちを向く。

 化学室の大きな机に横並びに座っていた僕と、櫻井の距離は近い。

、お弁当、机に置いて」

 何故か、なんの疑問も持たずにそうした。櫻井もサンドイッチを置いて、僕の方を向いて座った⋯⋯。

 さっきの、いわゆる白魚のような指が、大切なものを触る時のようにそっと、近づいてきて、それを目で追っているうちに耳の後に指が⋯⋯。

 ヒャッと、くすぐったくて飛び上がりそうになった瞬間。


 ⋯⋯?

 やわらかいものが、ふわっと頬に触れた。

 理解できず考えようとすると、目の前に⋯⋯というか、すぐそこに、櫻井の顔があった。手を伸ばさなくても触れられそうなほど。


「キャッ!!」


 僕は思い切り飛び退いて、イスは勢いよく音を立てて倒れた。


「だ、誰にでもこんなことしてるから⋯⋯」

「しないよ」

「嘘! 誰にでもするから『チャラい』って言われてるんじゃん」


 頭の中はパニックで。

 マジか!? 男によりによってされたぞ! 貴史の言う通り、男っていうのはマジでヤバい。ちょっと警戒を解いただけなのに――。


 キス、キス、キス、キス。

 今まで誰ともしたことがないぞ。

 付き合った彼女とさえ、しなかったし。

 うわぁ、どうしたらなかったことになるんだ!?


「本当に初めてだったんだ? ごめん。てっきり東堂と経験あるのかと思ってた。ファーストキスじゃあんまりだったね」

「ファ、ファーストキス!?」

「落ち着いて!! まだ唇じゃないし」

「でもまだ誰ともしたことないし、これが初めてなんだから、ファーストキス⋯⋯だよ」


 どうしよう⋯⋯。

 頭の中にはそれしかなかった。

 知り合ったばかりの男に、まさかファーストキスを奪われるとは?


「純ちゃん、本当にごめんね。ボク、責任取るよ。東堂と本当に付き合ってないならだけど」

「付き合ってないよ!」

「じゃあさ」

 櫻井はパニくる僕の背をそっと自分に寄せて⋯⋯それはすごく自然な流れで、僕はすっぽりその腕の中に包まれていた。

「行きがかりじゃないよ。ずっと、かわいいなって思ってたんだけど東堂がいるからダメかなって思ってた。そうじゃないなら、ボクと付き合ってみない? 絶対、大事にするから」


 ――はぁッ!?


 恐ろしく大きな声が出た。

 そりゃそうだ。今朝、知り合ったばかりだ。

 有り得ないだろう。そもそもコイツモテるんじゃないの?


「モテるでしょ?」

「うーん、それは主観的にはなんとも。でも純ちゃんも実はモテるでしょ?」

「ない! 主観的にも客観的にも」

「自覚無しってヤツか。東堂も大変だね」


 日本語が不自由なんじゃないかと耳を疑う。

 何故って櫻井の言うことはちんぷんかんぷんで、何一つ、通じなかったからだ。

「帰り、さっきみたいに迎えに行くよ」

 僕を離すと櫻井はそう言った。

「まだ返事してない」

「じゃあ、お試し期間だ」


 さっとサンドイッチを食べると、僕が食べているところを頬杖ついて、横から何故かうれしそうに見てる。

 僕はまだ途中だった弁当を、素早くしまった。

「ごちそうさま」

「まだ残ってるよ」

「食欲ない」

 そっか、と櫻井はふたつのジュースの空き箱をさっと持って立ち上がり「行こう」と促した。


 これからどうなるんだろう、と心の奥が震えた。

 アイツの触れた頬が、いつまでも熱を発してくらくらして、酸欠になりそうだった。

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