「魂のエンジニア」じゃないんだよ

《私はルルフォが悲惨な現実をただ写し取る画家ではなく、それを解釈してくれることを望む。なぜなら作家は出来事の奴隷であってはならないからだ。私の考えでは、偉大な文学とは、その現実を生きながらもそれをよい方向に変えていくために役に立つものだ。だから私にとって作家のもっとも名誉な称号は「魂のエンジニア」というものである。『ペドロ・パラモ』の著者はまだ人間の魂の残骸の収集家にすぎない。》


 これは『ペドロ・パラモ』上梓初期の批判で、メキシコ国立自治大学の教授だったホセ・ルイス・ゴンザレスの言ですが、私の感覚ではナンセンスの極みでございますね。

《出来事の奴隷》とか《人間の魂の残骸の収集家》とか、ちょっとうまいこというなと思いつつも、『ペドロ・パラモ』への批判としてはまったくあたりません。あの物語を即物的にしか咀嚼していないことを露呈しているようにさえ感じられます。

 現実と幻想がにじみあいながら独特の円環構造をなし、それがまた読者の想像力を一層はげまし、イメージを飛躍させる、そういう力が横溢している作品だと思いますし、《悲惨な現実》として描かれる生々しさの断片は、逆に、読む者に活力すら与える言葉の不思議に満ちていると確言できます(ドロテアの〈血の糸〉のところとか)。

《出来事の奴隷》という言葉にしても、なにか《よい方向》を提示するために登場人物や出来事を解釈=操作すべし的なところを底意そこいとして諷示ふうじしているように感じられますね。バフチンの言を借りるなら、登場人物たちの意識を客体化・モノ化する方向性といいますか(それはそれでべつにいいんだけど、私は創作のスタンスとして好みません)


 どうやらホセ・ルイス・ゴンザレス教授は《人々を励まし、導き、変えていくものが文学である》と考えていたようであります。まあ、広義においてはそうかもしれないけれど、『ペドロ・パラモ』がそうではないと感じるのであれば(表層的解釈に基づく)《出来事の奴隷》はむしろあなたですよ、と。


《文化活動が政府の援助のもとで発展してきた》当時のメキシコにおいて、《小説に教育的意義や社会貢献を求めようとする態度》は珍しいものではなかったようです。最高につまらないスタンスでございますね。体制におもねって〈わかりやすくてよいおはなし〉を書くの? ありえまてん。


 それじゃアンタにとっての小説はどんなもんなんやオラ、言ってみんかいってところでしょうけれども、いまのところ私はやっぱり異化の方向性かもしれません。いち側面ですが、つぎつぎと無意識の領域に飲まれていくわたしたちのあれこれを更新して取り戻していくためのものとして芸術はあろうと思います。恢復をうながすものといってもいいかも。そういう感じ。永遠に修行中の身の上でございます……


 今回の内容は『もうひとつの風景 フアン・ルルフォの創作と技法』仁平ふくみ(著)[春風社]の第二章あたりを読んで思ったことのなぐり書きでございます。ほとんど覚書ですね。


 んじゃまた!

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