ダイヤルM

 長編ストックの公開や短編の脱稿、それにともなうもろもろの方針転換を経て、またこうやってまめまめしくエッセイもどきを書いてみたりして――疲れはするけれどもやっぱり楽しいものですね。PVは石のように動きませんが(にっこり)

 でもまあ、いつかどなたか読んでくださるかもしれない状態にあることにこそ意味があると思っておりますので、それはそれ、いたしかたなきこと。〈営業〉もしませんからね。もっとも、〈営業〉なんかしなくても人気作は人気作なので(それ以上いけない)


 私のなかの謎の確信といいますか、積極的にそう信じていることのひとつとして、「評価されていないけれどおもしろい」などないっ! というアレがあります。スコップされていないだけとかね、そりゃもう甘い毒ですよ。そういうことはありえないのです。みんなが素通りするということは誰からも求められていないということです。まったくもって価値を見いだしがたいのです(私はマゾヒストなのでしょうか?///)


 そして、「評価されているけれどつまらない」もないっ! とくにこっちを私は信じています。なむなむ。☆三桁、☆四桁、☆五桁は必ずおもしろい作品なのです。それらの作品をくさす人たちも大勢いらっしゃるようですが、それはその人たちに合わなかっただけのこと。本当にただそれだけのことなのです。それは、多くの人びとを楽しませています。傍点に悪意はありません。これもまた事実(語りすぎると危険な領域)


 ぜんぜん関係ない(わけでもない)んですが、なにかしら〈伝えたいこと〉があって小説をこしらえる作家、あるいは小説を読み終わって「この作品の伝えたいことは?」と考える読者、相性にじゅうまるでございますね。よきと思います。嘲弄のニュアンスを汲み取る方もいらっしゃるかもしれませんが、ここもガチでニュートラルです。お好きにでございます。ただ、私はそうではない、ということ。書き手としても読み手としても。最近とみにそうですね。


 もちろん――ある出来事がある出来事へと連関していく、総体としての出来事が立体化していく、それらに関わる登場人物たち、彼らの人格、彼らの声、それらの対立ないし融和……全体の構造、そこに立ちあらわれる高度に抽象化された観念、そこへと向かう創意は作者にあったはずだろうと詰められますと、そうかもねとは思います。が、作者が自身のモノローグに収斂しない配慮を徹底するのなら、物語の結末、出来事のピリオドは仮のものとなり、そこから感取されるものは現実さながら複雑で多様なものになるでしょう。私はその方向性を志してしまいますね。少なくとも、全体から取り出しうる意味が単一的なものであるような出来事を語ろうとは思わない……といえるのかなあ。うまくあらわせているとは思いませんが、そんな感じ。だからダメなんですっ(泣きまね)


 はい。まとまりませんでソーリーです。脱兎っ!

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