第46話

 ミュリエルとフィンは家宅捜索の邪魔にならないよう、ペルティエ男爵邸のゲストルームを使わせてもらうことになり、フィンはミュリエルをソファに横たえて、バスタブに湯を張った。


 アンドレは男爵邸へやってくると真っ先にゲストルームを訪ねた。「フィンのピストルは少しの間預かることになるが、検証が済んだら返せると思う」


「返してくれると助かる。人からの借り物なんだ」


「ミュリエルはどうだ?」


「まだ眠ってる。泣き疲れたのもあるだろうけど、魔法を連発したから魔力切れを起こしてるのかもしれない」


「ミュリエルはエクスカリバーのような魔道具を使っているわけではないのか?」


「ミュリエル自身が魔法を使えるんだ」


 今後アンドレの協力を必要とした時のことを考えると、今打ち明けておいた方が得策だろうとフィンは判断した。


「ミュリエルはやはり大魔術師だということか——」アンドレは知らされていなかったことにがっかりしたが、ミュリエルと毎日会える口実を見つけて嬉しそうに言った。「それならば早急に国で保護しなければ。陛下に進言して王城にミュリエルの宮殿を用意させよう」


「あんた本当に何も分かってないんだな」フィンは呆れて言った。


「何がだ、何が分かっていないというんだ」


「ミュリエルが初めて魔法を覚えたのは7歳の時だ。なのにあんたに黙っていたのはどうしてだと思う?囚われるのが嫌だったからだ」


「囚えるつもりはない。いい暮らしができるように取り計らうだけだ」


「王城に閉じ込められることがいい暮らしなのか?ミュリエルは薬師になりたくてカルヴァン邸を出たんだぞ、また閉じ込めるつもりか?」


「そうじゃない、私はただミュリエルが金に困らないようにと」


「ミュリエルが金に困っているように見えるか?あんたはいつもそうだ、自分の考えを押し付けるばかりでミュリエルが何を感じて何を考えているのか、何を望んでいるのか理解しようともしない」


「私にはミュリエルの微小な表情を読み取ることは難しいが、ミュリエルが望むなら何でも与えてやれる。君よりもミュリエルの役に立てる」アンドレは肩を怒らせて虚勢を張った。


 フィンは大きなため息をついた。「ミュリエルの望みは薬師だ。モーリスさんやジゼルさんたちとの穏やかな生活だ」アンドレがミュリエルを理解することは永遠にないのかもしれないと思うと、今まで抱いていた嫉妬心が薄れていくのを感じた。「あんたはこう考えたんだろう、大好きなミュリエルが大魔術師ならば平民だとしても王族と結婚できる。自分以外と接触しないよう囲っておいて、ミュリエルが頼ってくるよう仕向けたいというのが本音だろう。だがそれはミュリエルの望みなのか?」


「——まだ分からないだろう、ミュリエルが決めることだ」


 フィンの言い分が正しいと頭では分かっているが、ミュリエルを欲する心が強すぎて、2人が恋愛関係にあると知ってもアンドレは諦めがつかなかった。


 この身勝手な男のせいでミュリエルは長い間、助けを得られず傷ついてきたのだと思うと、フィンは沸々と怒りが湧き上がるのを感じた。「そうだな、あんたの言う通りだ。これはミュリエルが決めることだ。ミュリエルは出会って半年の俺に魔法が使えることを打ち明けてくれた。モーリスさんもジゼルさんも知ってる。でも10年以上婚約者だったあんたには黙っていた。これが何を意味するか分かるか?ミュリエルはあんたを信用していない。どちらを選ぶか明らかだと思うがな」


 紛れもない事実を突きつけられて、アンドレの顔が暗く沈んだ。


 ミュリエルは未だアンドレに心を開いていない。他の人たちのように親しげに話しかけてもくれない、王子という立場を重んじてくれているだけだと誤魔化してきたが、ただ一線を引かれているだけだと分かっていた。アンドレはミュリエルに頼って欲しかった。でも、ミュリエルが選んだのはフィンだという事実がアンドレの心に重くのしかかった。


 フィンはミュリエルを抱え上げてバスルームに向かった。「ミュリエルを風呂に入れるから席を外してくれ」


「ならば侍女を呼んでくる。君が風呂に入れるわけにはいかないだろう。いくら恋人だからって結婚前なんだ」


「血だらけだぞ、侍女が目にしたら失神してしまうんじゃないか?それに、こんな状態のミュリエルを知らない人間に触らせる気はない」フィンはバスルームのドアを荒々しく閉めた。


 ミュリエルをバスタブに浸けて髪の毛についた——乾き始めていてこびりついている——血を丁寧に洗い流した。


 ミュリエルお気に入りのローズ石鹸をマルセルのホテルに置いてきてしまったことをフィンは悔やんだ。戸棚を探って石鹸を探したが無かった。


 ミュリエルをバスタオルに包み水気を拭きながらフィンは思った、ミュリエルのように魔法が使えて、あっという間に髪を乾かすことができれば冷たい思いをさせずに済むと。フィンは自分の無能さが悔しかった。


 ミュリエルが寒くないようバスローブをきっちりと着せて、ベッドに運び横たえた。


 フィンは椅子に腰掛けたままのアンドレをちらりと見て言った。「席を外してくれと言ったはずだが?」


 アンドレは2人が戻ってくるのを椅子に座って待っていた。


「若い男女が2人きりで過ごすのは問題があるだろう、俺がここに居れば問題ない、外にはエクトルも待機している」気恥ずかしさから声がうわずり、バスローブ姿のミュリエルを直視できずアンドレは視線を逸らした。


「ミュリエルは気にしないと思うぞ、一緒に住んでるんだから」


 フィンの言葉が飲み込めずアンドレが訊いた。「は?どういうことだ?一緒に住んでるって誰と誰が」


「俺とミュリエルが、薬店の上で同棲してるんだ。要するに一緒に風呂に入って、一緒のベッドで寝る、そういう関係だってことだ」最後まではしていないが、そんな細かく教えてやる必要はない。


 ミュリエルの純潔を奪い、天使のように清らかな身体を穢したフィンに激しい怒りを感じ、アンドレは顔を赤くして憤慨した。「まだ婚約もしていないのだろう?それを彼女の尊厳を傷つけるような行為に及ぶとは、君は心が痛まないのか!」


「別にいいだろう?俺たちは愛し合っているんだし、どのみち俺と結婚するんだから、時間の問題だ。それにモーリスさんもジゼルさんも祝福してくれてるしな」フィンはベッドに腰掛け、大切な物を扱うようにミュリエルの髪を優しく撫でた。


 寒さに震えていない、緊張で体を硬直させてもいない、穏やかな顔で眠るミュリエルにフィンは安堵し、いい夢を見て欲しいと願った。


「伯爵家はどうするのだ。薬師と結婚となれば反対されるぞ」アンドレはフィンを憎々しく睨め付け、怒りをぶつけた。


 愛しいミュリエルが穢されてしまったという現実に耳鳴りが鳴り止まない。自分の物にするためにミュリエルへ尽くしてきたのに、ミュリエルはアンドレではなくフィンに身体を捧げた、その事がアンドレの心を掻き乱し絶望に突き落とした。


「俺は伯爵家の5男だ、爵位の継承も無いし気ままなものだ。今はミュリエルの役に立ってるからグライナーを名乗っているけど邪魔になるなら捨てればいいだけだ」


「そんな無責任なこと許されない、貴族に生まれたからには、責任を全うするべきだ」フィンを責めるように指を突きつけて言った。


「長男と次男と三男がしっかり責任を全うしてくれてるからいいんだ。そもそも4男はすでにグライナーを捨ててるしな。音楽家になりたいんだそうだ。そういうわけで、俺がいなくなったところで家は困らない。俺には貴族への未練も無いし、ミュリエルと生涯一緒にいられればそれでいい。俺たちはもう寝るから、いい加減出て行ってくれ」フィンはミュリエルの隣に横たわった。


 アンドレは拳が白くなるほど握りしめ無言で部屋を出た。ミュリエルの夫のように振る舞うフィンを殴り倒し、ミュリエルを奪い返したかったが、ミュリエルがそれを望まないだろうことも分かっていた。


 アンドレは激しい後悔に押し潰された。婚約者であるミュリエルをもっと大事にしていれば、こうはならなかっただろうか、今ミュリエルの隣にいるのは自分だっただろうか、全て違う気がした。ミュリエルはそもそもアンドレを異性として見ていない、その事実がアンドレの胸を突き刺した。



 朝になってミュリエルが目を覚ますと、フィンと目があった。


「おはよう、ミュリエル」


「おはようございます。フィンさん」自分がバスローブを着て寝ていることに気づき、昨晩何があったのかを思い出した。


 昨晩よりはマシになったが、まだ少し青い顔をしたミュリエルの顔からフィンは髪の毛を払った。「アンドレ王子には魔法を使えることがバレてしまったけど、ミュリエルがエクスカリバーみたいな魔道具を使ったってことにしたら誤魔化せると思うんだ。魔道具って作れる?」


「作り方は知っていますし、作れると思います。しかし、昔あった魔道具は全て消失したと聞いています。無くなった理由があるのではないでしょうか。魔法も語り継がれなかった理由があるのだと思います。魔道具を無闇に作ってはいけないのだと感じるのです」


「そうか、じゃあこういうのはどうかな、一度しか使えない魔道具だったからミュリエルが使っちゃってガラクタになってしまったって言うんだ」


「それならクリスタルリングはどうでしょうか。私の魔力をほんの少しですが帯びていますし、これをブリヨン侯爵邸から持ってきた魔道具だと言えば誤魔化せます」


「ミュリエルはいつもそのクリスタルリングをはめているし代用できそうだね」フィンはミュリエルの髪を愛おしそうに撫でた。「ミュリエル。今はどうしたい?」


 フィンに撫でられたところがとても心地よく、ミュリエルはフィンの胸に顔を埋めた。「——家に帰りたいです」消え入りそうなほど小さくてか細い声でミュリエルは言った。


「それじゃあ帰ろう。俺たちの家に」フィンはミュリエルの頭にキスをした。


 ミュリエルは魔力を使い過ぎてしまったようで、ポータルを開くことができず、フィンと一緒に汽車を乗り継ぎパトリーまで戻ってきた。


 8日の捕縛が滞りなく進めば、ミュリエルは吉報を手紙に書いてよこすだろうと思っていたが、この4日間、何の音沙汰も無かった。初めてできた恋人とのデートで手が離せないだけだとジゼルは自分に言い聞かせていたが、帰ってきた娘の憔悴した姿を見てジゼルは涙を流し、ミュリエルを優しく抱きしめた。体の大きなモーリスはその2人をまとめて包み込んだ。


「おかえり、ミュリエル」モーリスが言った。


「ただいま帰りました」ミュリエルが震える声で答えた。

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