第39話

 カウンターテーブルの上に様々なお酒が並べられ、華やかな家具と高価な白熱電球のシャンデリアが天井から贅沢にぶら下がっている。


 昨日通された部屋とは違うようだ。ディナーの前や後にお酒を飲み、来客と語らうために作られた部屋だろうとミュリエルは推察した。


 貴族の邸宅には様々な用途の部屋がいくつも存在する。来客に応対するドローイングルーム、客と語らうためのパーラールーム、夫人がアフタヌーンティーを開くサロン、夕食のためのダイニングルーム、朝食のためのブレックファーストルーム、家族が語らうシッティングルームなどなど、とにかく無駄な部屋が多い。


 ブリヨン侯爵邸も迷いそうなほど部屋が多くサロンが邸内に3部屋、屋外のガーデンハウスに2部屋もあるらしい——ミュリエルはどの部屋も足を踏み入れたことが無い。ミュリエルに許されていたのは自室と図書室だけ——何故そんなに部屋が必要なのかミュリエルには理解ができなかった。


 フィンとギャスパーはスコッチを、ミュリエルとマドゥレーヌは紅茶を飲んだ。

 徐にギャスパーが使用人を手振りで下がらせた。


「それで、昨日のことなんだが本当に出来るのですか?」


「試したことはありませんが理論上は可能です」


「社交界で噂になっている効果覿てき面のポーションを売り出している謎の人物、ZEROはあなたなのですかな?」ギャスパーは訝しそうにミュリエルを見た。


 警戒したのかフィンが身じろぎしたのでミュリエルは、ちらりとフィンを見て大丈夫だと微かに頷いた。


「何のことでしょう?貴族ではない私には社交界のことなど知る由もありません」


「なるほど、まあ良いでしょう。名前を偽っているということは知られたくないのでしょうから追求はいたしませんよ。しかし、マドゥレーヌはあなたの婚約者を奪った女だ。それなのに娘を助けると言う。その目的は答えてもらいますよ」


「情報」


「お嬢さん、情報というのはそう簡単に渡せる物ではないのですよ」


 ミュリエルを小娘だと軽んじ鼻であしらい、有利な条件を引き出そうとしているのだろうことが態度に現れていた。


 この時点で自分の方が優位な立場にあると思っているのだろうから早々に鼻っ柱を折ってやろうとミュリエルは考えた。


「フェリシアン・オートゥイユ男爵、ペルティエ、密輸船」ギャスパーの顔色がさっと変わった。「ペルティエ男爵はあなたの弟君ですね、私は密輸船について見逃すつもりはありません。それにはカルヴァン侯への私怨も含まれています」


「ブリヨン侯爵を国に売るおつもりかな」


「そうです。このことをアンドレ王子殿下が知ったらどうされるでしょうか、カルヴァンは元婚約、オートゥイユは元恋人、自分は無関係だと証明するため、捜査に積極的になるでしょうね。その時あなたはどちらに連座したいですか?」


「その口ぶりだとアンドレ王子はまだ何も知らないのでは?」


「私たちを始末しようとしても無駄ですよ、オートゥイユ子爵。私は命を落とす時のことを想定せずにここへ来るほど愚かではありません」


「手は打ってあるということですか、ならば、それらも始末すれば済むのではないですかな?」


「オートゥイユ子爵はどのようにしてフランクール全土に広がる私のスパイたちを探し出すおつもりですか?私がマドゥレーヌ嬢の秘密を知り得たのはどうしてだと思いますか?」


「この屋敷にスパイを潜り込ませているのか!」ギャスパーはカッとなり声を荒げた。

 フィンは咄嗟にミュリエルを庇うよう手を前に出したが、ミュリエルはその手を下ろすよう促した。


 今すぐここからミュリエルを連れ出したかったが、そうすればミュリエルは怒るだろう。見守るしかないことに焦ったさを感じたが、ミュリエルを信じることが支えになるのだとフィンは自分に言い聞かせた。


「お気づきにならなかったでしょう?彼らは優秀ですからね、誰にも気づかれず聞き耳を立てることができます。あなたの今朝の朝食も知っていますよ。バターとジャムをたっぷり塗ったタルティーヌがお好きのようですね」


 形勢が変わったとギャスパーは感じ苦い顔をした。「——君の側につけば、私の罪は問われないということか?」


 タルティーヌが好物なのは屋敷の誰もが知っている。しかし、この少女を侮ってはいけないとギャスパーの直感が告げている。救国の乙女で今や全国民を味方につけたも同然だ。彼女を敵に回すことは即ち全国民を敵に回すということ。それに、若くてもあのカルヴァンの娘だ。慈愛の天使と呼ばれているがそれは表の顔で、冷酷にもなれるのだろう。敵に回すのは得策ではないと判断した。


「いいえ、罪を問うのは私ではありません。裁判所です。ただ過去を清算する時間はあげられるでしょうね。死刑台に連座しなくて済むかもしれませんよ。それどころか悪事を暴いたことで国から褒賞が出るかもしれませんね。それに娘の名誉も守れる。私にはこの提案を断る理由がないように思えますが、いかがですか?」ミュリエルはギャスパーを視線で捉え圧力をかけた。


 ギャスパーの兄であるトリスタンがトゥルニエ伯爵の爵位を継いでいるが、奴を引き摺り下ろすことができれば、自分がトゥルニエ伯爵になれるとギャスパーは考えた。


「良いでしょう。私が損をすることもないだろうし、そちら側につくと約束しましょう」


「それでは、まず診察をしなければなりませんから、マドゥレーヌ子爵令嬢、お部屋に案内していただけますか?」フィンがミュリエルの手を取り心配そうに見つめてきた。「大丈夫です。少しだけ待っていてください」


 フィンとギャスパーを部屋に残してミュリエルはマドゥレーヌに案内されマドゥレーヌのベッドルームに向かった。


 ずっと押し黙っていたマドゥレーヌが部屋に入るなり言った。「馬鹿だと思ってるんでしょう?処女を捧げた相手に逃げられて、アンドレにも捨てられて」


「馬鹿だなんて思っていません。恋をしたのでしょう?」


「そうよ、弟のチューターだった。賢くて物知りで落ち着いた大人の男性。すぐに好きになったわ。結婚しようって言ってくれたの、だから体を捧げた。それなのに私が妊娠すると怖気付いて逃げたのよ、あのクズは私を置いて逃げたのよ!」マドゥレーヌはクッションや花瓶を手当たり次第床に叩きつけた。


「アンドレ王子殿下と一緒にいるあなたはとても楽しそうでした。表情豊かで、可愛いらしい人だと思いました。きっと本来のあなたはそちらなのでしょう。愛を求めすぎないで、愛を与えることにしてみてはどうでしょうか。与えた物はいずれ自分に返ってきます」


「あなたはフィンって人と恋仲なのでしょう?随分と大事にされているみたいじゃない。それで勝った気にでもなってるのかしら、伯爵家の5男だっていうじゃない、何者にもなれない男に好かれてるからって勝ち誇った顔しないでよ」マドゥレーヌは嘲笑うように言った。


 何故勝負の話になるのかミュリエルにはまるで理解ができなかった。ミュリエルはマドゥレーヌと勝負したつもりはなく、きょとんとした。


「勝ったつもりはありませんが、幸運なことにフィンさんからは過分なお心を頂いています。私はずっとカルヴァン邸で息を潜めて生きてきました。父とは話をしたこともなく、継母からは暴力を振るわれ、家を出ることだけを考えていました」


「そうなの、気の毒にね。だけど私には関係ない話だわ」ミュリエルが言い返してくるだろうと思い身構えていたマドゥレーヌは唐突な身の上話に毒気を抜かれた。


「私を可愛い娘だと言ってくれるご夫婦に出会い、助けてもらいました。愛とは何かを教えてくれたのです。私は彼らの愛に救われました。傷ついた心を治せるのは家族や友人だけだそうです。助けて欲しいと言ってみてはどうですか?——横になってください、診察します」


 ミュリエルはマドゥレーヌの体にマジックワンドを当てた。


「あなたって変わってるわね、普通は婚約者を奪った女を助けようなんて思わないものよ。今は幸せ?」


「はい、大切だと言ってくれる家族と、力になってくれる友人たちがいます。とても幸せです」


「フィンさんと結婚するの?」


「——まだ分かりません。私に妻が務まるかどうかも」


「あなたでも顔が赤くなるのね、鉄仮面みたいな女だと思ってたけど違うのね。ねえ、アンドレ様のことはどう思っていたの?」


「アンドレ王子殿下は優しい方です」


「それだけ?好きとか思わなかったの?剣術に優れてて、男らしくて、素敵じゃない」


「眉目秀麗で顔立ちは良いですね」


「それだけなんだ、なんだかアンドレ様が気の毒、でも自業自得よね」何のことか分からないといった顔をしたミュリエルをマドゥレーヌは笑った。「気づいてないのねアンドレ様の気持ちに。気にしないで、ちょっと独り言を言っただけよ」


 教えてやる義理もないし、あんなにも甘い視線で見つめてきたくせに、あっという間にミュリエルに乗り換えたアンドレに腹も立つし、アンドレがミュリエルに恋愛感情を抱いていることは黙っておくことにした。


 ミュリエルとフィンの結婚式を悔しそうに眺めるアンドレを想像したらマドゥレーヌの心が少しばかり晴れた。


「体は健康なようです。強力なポーションですから飲めば2、3日寝込むことになると思いますが、丁度良いでしょう。私が診察した言い訳ができます。使用人の皆さんはこのことを知らないのでしょう?」


 使用人たちが知っていれば噂はあっという間に広がり、パトリーまで届いていただろうとミュリエルは思った。


「当然よ、執事しか知らないわ。子供は修道院で産んだの。娘は父の落とし子ってことになってる」


「では、晩餐の最中気分を悪くしたマドゥレーヌ子爵令嬢を私が診察したことにいたしましょう」ミュリエルはマドゥレーヌに小瓶を差し出した。


「それ飲むと痛むの?」


「失った物を再生するのですから、激しい痛みに襲われると思います」


「でも、これで私も普通の結婚ができるのよね」


「幸せな結婚ができます」ミュリエルは微笑んだ。


「ありがとう——あなたの希望もあったとは言え婚約者を奪ってごめんなさい。私を捨てた男を見返してやりたかったの、王子の妃になれば見返せると思った私が馬鹿だったわ。おかげで王子に捨てられた女になっちゃった」


「家族は見捨てないものです。親を誰よりも愛せるのは子だと思うのです。妹を可愛がったところで誰が疑問に思うでしょうか、あなたの心に傷を残してしまった恋だけれど、生まれてきた子供はあなたの血を分けた子です。それにクズの父親がいなくても、あなたも子も幸せだと言ってやれば復讐になるのではないでしょうか」


「ええ、そうね」マドゥレーヌの頬を涙が伝った。「あなたの口からクズなんて言葉が聞けるとは思わなかったわ。私のことは子爵令嬢なんて畏まって呼ばなくていいわよ」


 マドゥレーヌはミュリエルから小瓶を受け取り、一息に飲み干した。


「私は下がらせていただきます。ゆっくり眠ってください」


 ミュリエルはマドゥレーヌの侍女に案内されフィンのいるところへ戻ってきた。


 フィンは怪我をしていないミュリエルの姿を見てそばに近寄り、顔に憂いも恐れも出ていないことに安堵した。


「診察は問題ありませんでした。健康そのものです。ポーションを飲んでいただきましたので、2、3日は寝込むことになりますが、ご希望の結果が得られると思います」


「感謝します。これで少し肩の荷が降りました。あの子をどうするか決めかねていたのですよ、事実を打ち明けて後妻に貰ってもらうしかないと思っていたのですが、親としては醜聞から守ってやりたいと思っていたのです」


 2人で何の話をしていたのか分からないが、ギャスパーの態度が軟化したようだとミュリエルは思った。


「心を痛めているようです。家族との時間を設けてあげてください」


「そうですな、マドゥレーヌが21歳の成人を迎えるまでは家族と過ごさせましょう。幼いジュリエットも姉を恋しがっているようですからな」


「私はオートゥイユ子爵の願いを叶えました。今度はオートゥイユ子爵が私の願いを叶える番です。ペルティエ領から近々密輸船が出航するという情報を得ています。その密輸船を押さえるつもりです」


「分かりました。協力しましょう。密輸船の積荷はアヘンです。呉国に輸出するのですが、フランクールに帰ってくる時は呉国の見目麗しい若い男女を乗せてきます。そしてフランクールやザイドリッツ、スルエタに奴隷として売り捌きます」


「奴隷か、胸糞悪いな」フィンは眉間に皺を寄せ残りのスコッチを一気に喉へ流し込んだ。


 空いたグラスにギャスパーはスコッチを継ぎ足した。


 大枚をはたいて買った上物のスコッチで客に見せびらかすために取っておいたが、万が一監獄に入ることになれば飲めなくなる、それならば飲める時に飲んでおこうと開けることにした。


「最初こそアヘンの輸出だけでしたし、密輸船の出航を見逃すだけで良かったですから、ブリヨン侯爵に逆らうよりはと思い協力していたのですが、奴隷を連れて来ていると知って手を引こうとしたら、物流を阻害されてしまい協力せざるを得なくなったのです」


 ブリヨン侯爵領がパトリーよりも南に位置しているためマルセル領の商人たちはブリヨン侯爵領を通らなければパトリーへ行けない。


「国に訴えようとは思わなかったのですか?」フィンが訊いた。


「ブリヨン侯爵の仲間がどこにいるかも分かりませんからな、有力者は皆、東方貿易会社に出資している。王室も例外ではありません。加担していないと言い切れるだけの証拠がなかったのです、そうこうしているうちに、兄や弟は見て見ぬふりをするだけではなく、金のために手を貸すようになってしまった」


「あなたは手を貸していないと?」フィンは訝しそうにギャスパーを見た。


「同じ年頃の娘がいますからな、私は傍観しているだけです。助けないのなら同罪なのかもしれませんがね」


「娘のために思い止まったのなら、マドゥレーヌ嬢にとっては大きな意味になると思います」ギャスパーは我が子を愛しているようなので、彼の助けがあればマドゥレーヌも立ち直るだろうとミュリエルは安堵した。


「アンドレ王子にはいつ伝えるつもりですかな?」


「証拠は全て揃っています。明日の朝、ここを立つ予定です。パトリーに戻り次第協力を申し出ます」


「あの侯爵から証拠を握るとは、あなたには余程に優秀なスパイがついているのですね、逆らわない方が身のためでしょうな。知りうる限りの加担者と出航の日にちは分かり次第お知らせしますよ」悪魔に育てられた天使は悪魔よりも怜悧で抜け目ない少女に育ったようだとギャスパーは思った。


「ブリヨン侯爵は密輸船の存在を徹底的に隠していました。それは密輸品がアヘンだったからでしょうか、それとも奴隷を隠したかったのでしょうか」ミュリエルが訊いた。


「アヘンも奴隷も他人に知られたいようなことではありませんが、どちらも違うと思います。密輸船が海賊船だからでしょうな」ギャスパーは誰にも聞かれてはならないといった風に声を落として答えた。


「海賊……」


「はい、海賊と内通していたとなると、密輸の罪など可愛いものです。この事実が明るみに出れば、一族郎党処刑されてしまう。それでもあなたは罪を暴きますかな?」


「はい、カルヴァン家が途絶えたとしてもそれが何だと言うのでしょう。私にカルヴァン家を守る義理はありません。そして、私は既にカルヴァンではありません」


 やはりこの少女は抜け目ない、海賊が関わっていることを知らなかったのに、身を守ることを怠らなかった。


 貴族でいれば特権を得られたのに、先を読んで潔く平民になりカルヴァン家から遠くに身を置いた。そして、涼しい顔で一族郎党破滅に追いやろうとしている。


 何があったか知らないが私怨と言っていた。余程の恨みなのだろう。「なるほど、このために家を出たのですか」


「薬師になりたかったというのが本当の理由ですが、家を出るきっかけを作ったのはカルヴァン侯の悪事です」


 話は終わりだとミュリエルとフィンは席を立った。

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