第37話

 翌朝早くに目を覚ましたミュリエルは、ぐっすり眠ったせいか、体が軽くなったと感じた。


 昨晩何があったのかを思い出して、布団に顔を埋めて声にならない悲鳴をあげた。


(キスだけでも失神しそうだったのに、あんな恥ずかしいことまでしてしまうなんて!)


 心臓がドクドクと早鐘を打っている。恥ずかしいし穴があったら入りたい気分だけど、胸が弾んでソワソワしてしまう。踊りたいような叫びたいような、これが浮かれるという感情なのだろうかとミュリエルは初めての感情に戸惑った。


 この後どんな顔をして会えばいいのか分からなくてミュリエルは途方に暮れた。普通のカップルは皆が皆こんな恥ずかしいことをしているのだろうか、子供の作り方は知っているし、男女の夜の営みも薬師なのだから当然知っているが、でも、具体的にどんなことをするのかは知らなかった。


 昨晩何をされたのか鮮明に思い出してしまい、ミュリエルは顔から火が出るほど真っ赤になった。本当に熱があるのではないだろうかと不安になったミュリエルは頬に手を当てた。


 昨晩フィンは朝になったら迎えに来ると言っていたのではなかっただろうか?確か朝ごはんを食べに行くと言っていた。きっとホテルの1階のカフェに行くのだろう。それまでに準備を整えておかなければと思い、バスタブに湯を溜め、ミュリエルは深く沈み込んだ。


 ミュリエルは初めてのことで戸惑うばかりだったのに、昨日のフィンはとても手慣れていた。経験があるということなのだろうと思うとミュリエルの心が沈んだ。


 人としてこんな醜い感情を抱いてはいけないのに、ミュリエルは見ず知らずの女性に嫌悪した。そんな自分がすごく嫌だった。


 もやもやとした気持ちを振り切るように、自分で作ったローズの香りがする石鹸でミュリエルは体を擦った。


 流感の対応に追われていたため、ずっとZEROの活動は延期していたのだが、最近になってようやく再開した。再開すると待ってましたと言わんばかりに貴族たちは金を積んだ。


 フランクールの人は滅多に入浴をしない。貴族といえども多くて月に2度だろう。フランクールより北に位置していて気温が低いザイドリッツでは、暖を取るために貴族ならばほぼ毎日湯に浸かるというのに——そのせいでフィンは半狂乱になりかけた。


 夏場は水を浴びればよかったが冬になって風呂が恋しくなり、対価として薪割りを手伝うことで冬の間、モーリス家の風呂に入らせてもらっていた——浴槽のあるホテルで良かったと思うほど、浴槽というもの事態フランクールには浸透していない。


 過去に湯や水に浸かることで病気になると信じられていたということと、浴槽が高価だということも普及が遅れている原因だ。


 モーリス家の浴槽だって冷え性のジゼルのために、カルヴァン邸の図書室でミュリエルが見つけてきた東洋の木の板で作った浴槽を参考にミュリエルとモーリス2人で作ったものだ。


 清拭が一般的なフランクールに石鹸が受け入れてもらえるだろうかという課題もあったが、香りをつけることによって、香水のように使ってもらえるのではないかと考え、香りはもともと人気があるローズとラベンダーとシトラスにした。


 お風呂に入り、汚れを洗い流し、体を清潔に保つことで病は防げるといった概念をフランクールに定着させるために、まずは、流行りに敏感な貴族たちに入浴の習慣を根付かせ、公衆衛生の向上を図ろうとミュリエルは考えたのだ。


 肌がスベスベになる体用と髪の毛がサラサラになる毛髪用の2種類をZEROの商品として近々販売するつもりだ。


 風呂から上がって髪を乾かしているとフィンが訪ねてきた。結局ミュリエルはどんな顔をするのが正解なのか答えが出せず少しだけドアを開いた。


「どうしたの?入れてくれないの?」


「……どうぞ」ミュリエルはフィンを部屋の中へ通した。


 恥ずかしさのあまり少し不機嫌になってしまったミュリエルをフィンは愛おしそうに見つめ、ミュリエルを椅子に座らせ、髪の毛の水分をタオルで拭ってやった。


「いい香りだ。ギャビーが騒いでた髪の毛用の石鹸か?」


「はい、ローズの香りと、ラベンダーの香りと、シトラスの香りを作りました。髪が滑らかになるのです」


「これはローズだな。すごく綺麗だ」フィンはミュリエルの頭のてっぺんにキスをした。


 体が縮こまってしまったミュリエルの顔をこちらへ向かせて、そっと唇を指でなぞり、抵抗が無いと分かると、唇で唇に触れた。


 ミュリエルの上気した頬と潤んだ瞳を隠すようにフィンはミュリエルを抱きしめた。


「フィンさんは慣れているのですね」


「そんなことは無いよ。すごくドキドキしてるよ。俺の心臓の音が聞こえないか?」


「でも経験があるのでしょう?」


「あれ?もしかして嫉妬してくれてる?嬉しいな」フィンはミュリエルの唇に軽くキスをした。「朝ごはんを食べにホテルの1階のカフェへ行こう。朝は少し冷えるからショールを肩にかけておいた方がいいだろう」


 フィンはミュリエルの肩にショールをかけて、ミュリエルの腰に手を回して促した。


「誤魔化された気がします」


 ムスッとしているミュリエルにフィンは気まずそうな笑い声をあげ、話を逸らそうと必死に話題を作った。


 何故手慣れているのかその理由を言えるわけがない、既婚女性が集う如何わしいパーティーに参加したことがあるなんてこと、しかも開催される度にいそいそと出かけていたなんて口が裂けても言えない。


 決して口外しないよう兄や友人たちに口止め料を払っておいた方がいいだろう。このことがモーリスやジゼルの耳に入ったら自分は去勢されるどころかぶつ切りにされてしまう。


 クロワッサンを食べているミュリエルをじっと見つめてくるフィンを不思議に思いミュリエルが訊いた。「どうかしましたか?」


「何でもないよ、今日もミュリエルが可愛いなと思っただけ」


 嫌な想像をしてしまい危うく食欲が無くなりかけたが、頬をほんのり赤く染めたミュリエルの美しい顔を眺めてフィンは正気を取り戻した。


 朝ごはんを食べ終える頃、ミュリエルたちの席にウェイターが手紙を届けに来た。


「今しがた、マルセル子爵様の従者が来られて、お手紙をお預かり致しました。お返事を頂くまでロビーで待たれるそうです」


「分かりました。手紙を読んですぐにお返事を書きますとお伝え下さい。それから、お手数をおかけしますが、その侍従の方にコーヒーをお出ししていただけませんか?」


「畏まりました。すぐに手配いたします」


 大抵の貴族は手紙を届けに来た侍従なんて気にも留めない。それなのに、コーヒーを出してあげてほしいだなんて、彼はそんなことを言われるとは思わず驚いたが、このホテルに勤めて約20年が経った、おかしな事は沢山経験してきた。こんなこともあるのかもしれないと思った。


 手紙を読むミュリエルの横からフィンは覗き込んで言った。「オートゥイユは決心したかな?」


「どうでしょうか、まだ分かりません。食事に誘われただけです」ミュリエルは手紙の一部分を読み上げた。「『お食事をしながら歓談したいと思い、晩餐をご用意致しました。今晩は拙宅でディナーをご一緒にいかがでしょうか、足をお運びいただければ幸いです』だそうです」


「行かない選択肢は無いな」フィンはミュリエルの手を取り椅子から立ち上がらせた。


「はい、そうですね。部屋に戻って手紙を書きます」


「それが終わったらマルセル見物をしよう。昨日はどこにも行く時間が無かったから、今日はカフェから見えた大聖堂を見学に行こう。港には立派な要塞もあるらしいから、それも見てみたいな」


「遊びで来たのではありませんよ」


「それじゃあ昨日みたいにベッドで時間を潰そうか?」フィンが意地悪く笑った。


「——マルセル見物に行きます」


 フィンは膨れっ面のミュリエルの口にちゅっとキスをした。

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