第36話

 ブイヤベースが人気の少し贅沢なレストランにミュリエルとフィンは入った。


 店内の装飾はインディゴブルーで統一され、案内された席からはマリーナが一望でき、ガス灯のほの暗い明かりが夜の海を照らした。


 遠くの真っ暗な海をミュリエルは少し不気味に思った。


 せっかくのディナーなので、いつもは後頭部で無造作に束ねているだけの腰まである髪を下ろして、シャンパンゴールドのシフォンのワンピースに身を包んだ。


 このワンピースを買う時に、女性店員から流行は肩を出したノースリーブのデザインだと言われたが、流石に恥ずかしかったので肩からレースが落ちるデザインのものにした。


 ワンピースの袖とイブニンググローブまでの僅かな部分しか肌は見えていないが、シフォンやレースの布地はミュリエルの肌を薄らと浮かび上がらせ、滑らかに輝く肌にフィンは吸い込まれるように魅入られた。


 いつもは控えめすぎるほど控えめな白衣を着ているミュリエルからは想像もつかないほど艶かしい姿に生唾を飲み込んだ。

 フィンは湧き上がってくる男の欲望を心惜しくも抑え込んだ。


「男たちが無遠慮に君をジロジロ見ることは気に入らないが、今日のミュリエルはすごく綺麗だ。本物の天使が舞い降りたのかと思うほどだよ」


 自分にはこの服が似合っていないような気がして、不安に思っていたミュリエルは嬉しそうに微笑んだ。「ありがとうございます——フィンさんも素敵です」


 いつもは首が苦しいと言ってシャツの第2ボタンまでを外し、邪魔だからとシャツの袖を適当に捲り上げた格好ではなく、ネクタイを締めた凛々しい姿は、フィンの整った容姿を一層引き立てていた。


「マルセル最初の夜を完璧にしたくてね、頑張ってみた。どう?貴族の令息って感じだろう?」


「ええ、昼間のオートゥイユ邸でも普段見られないあなたが見れました。誰もが立派な貴族令息だと認めるに足る十分な受け答えでした」


「まあね、この性格では貴族が向かなかったってだけで20年以上貴族やってれば、演じることくらい簡単だ」


「一朝一夕で身につけた技ではないと?」


「5男だから家のことを考える必要はないんだけど、それでも馬鹿にされるのが嫌でね、物心ついた頃から得意な語学と対人対応力を磨いてきたんだ」


「そういったフィンさんの努力を尊敬します。私は早々に貴族としての努力を辞めてしまいましたから」


「それはミュリエルを取り巻く環境がそうさせたんだろう?ミュリエルは悪くないさ。酷い仕打ちを受けてきたんだ、少しくらい怒ったっていいし、これからの人生我儘に生きたって誰も文句は言わないさ」フィンはミュリエルの手を握った。


 オートゥイユは味方になってくれるのか、自分にカルヴァンの悪事を止めることが出来るのか、母と乳母のために最後まで戦えるのか、どれも確信が無くもどかしかったが、今は何を考えても仕方がないと諦めて、テーブルに運ばれてきた料理をミュリエルは堪能することにした。


「ジゼルさんのお料理も美味しいですが、これはまた違った感じがして美味しいです」

 ミュリエルは屋台のホットドッグやスープを食べたことはあったが、レストランで食事をするのは初めてだった。


「ジゼルさんの料理は、家庭的だからね」


「家庭的な料理とレストランの料理は違うものなのですか?」


「ジゼルさんはモーリスさんやミュリエルのことを考えて、美味しい物をお腹いっぱい食べさせたいと思いながら作ってると思うんだ。でも、レストランのシェフは食材をいかに美味しくするかとか、食べに来てくれた客が、味も見た目も、そしてこの雰囲気も全て満足できるようにって考えて作ってる。誰に対して、どんな思いで作っているかによって味は変わるんじゃないかな」


「なるほど、グライナー家の料理はどうですか?」


「もちろん美味しいよ。シュニッツェルやヴルスト、クニップにマウルタッシェ、考えただけでヨダレが出そうだ。いつか一緒にニーブールへ行こう。街を案内するよ」


「はい、行きたいです」


「カルヴァン家の料理は?」


「——美味しくはなかったです。継母の嫌がらせで、あまり料理は出て来ませんでした。時々食べられるジゼルさんの料理が私の唯一の楽しみでした」


「まあそんなことだろうと思ったよ。本当にカルヴァン家には腹が立つな」


 子供の頃は料理が出てこないことを不思議には思わなかったし、それが普通だと思っていた。


 硬いパンとくず野菜のスープ、ただ茹でただけの味の無い豆。幼いミュリエルにとって食事はただお腹を満たすだけの作業だった。


 今はもう作業だとは思わない、美味しい食べ物をお腹いっぱい食べられることはこの上ない幸福だと知っている。


 ミュリエルとフィンは食事を終えてホテルまで、石畳の道をゆっくりと一頭の馬に乗って歩いた。夜気を纏った潮風が心地よく吹いている。


「当たりのレストランだったね。教えてくれたホテルの人に感謝しよう。また来ても良さそうだ」


「ブイヤベースは初めて食べましたが、とても気に入りました。モーリスさんやジゼルさんにも食べさせてあげたいです」


「一緒にマルセルまで来て食べるのも良いけど、日頃の感謝を込めてミュリエルと俺で料理するってのはどうかな?」


「とても良い案です。私に料理が出来るかは分かりませんが、お2人に喜んでもらいたいです。フィンさんは料理が出来るのですか?」


「出来るって言えるほどではないけど、フランクールに来てからは時々自分でも作ったよ。下宿先は一応朝と晩は飯つきだけど、決められた時間に帰って来れない場合は無しだし、昼食は自分で何とかしなきゃならないから、サンドイッチとかスープ、肉を焼くくらいなら、したことあるよ」


「こちらにいる間にブイヤベースの作り方を誰かに習わなければなりませんね」


「ああ、そうだね」ミュリエルの耳を指でなぞる。「楽しそうにしているミュリエルが何より愛おしい。君が望むならどこへでもついて行く、君が俺を必要としてくれるならどんなことでもすると誓うよ。ミュリエル、好きだ。俺は心からミュリエルを愛してる。ずっと隣にいさせてくれないか?」


 予想していなかった愛の言葉に、顔を真っ赤にしたミュリエルは小さく頷いた。「……はい」


「恥ずかしそうにしているミュリエルは可愛いな。ミュリエルも俺のこと好き?」


「……はい」


 好きという言葉が聞きたかったけれど、恥ずかしくて言えないのかなとフィンは思った。


 俯いたミュリエルの顔をそっと引き寄せてミュリエルの唇に、唇を重ねた。


 震えるミュリエルの肩をギュッと抱きしめ、何度も唇を重ねた。

 これ以上はミュリエルの心臓がもたないかもしれないと心配になったフィンは、名残惜しかったが唇を離した。


 ミュリエルの潤んだ瞳と甘く蕩けた顔にフィンは耐えなければならなかった。もちそうにないのは自分の方だったと悟った。心臓ではなく下半身だが。


 跳ね上がりそうな自身を落ち着かせるために、ポーションのレシピを頭の中で唱えた。

 不思議そうに見つめてくるミュリエルにフィンは言った。

「ごめん、ミュリエルが可愛すぎて理性をかき集めてた」フィンは愉快そうに笑った。


 ミュリエルとフィンはマリーナから20分ほどでホテルに戻ってきた。


 昼に通った時は商店が立ち並び活気に満ち溢れている通りだったが——フルーツやオリーブ、香辛料から織物まで何でも揃っていそうだった——今は静まり返っている。ミュリエルとフィンの足音が通りに響いているだけだ。馬留めに馬をつなぎフィンはミュリエルの手を引いてホテルの中に入った。



この続きは、『大魔術師は庶民の味方です〜ラブシーン〜』へお進み下さい。


⚫︎本編全体をレイティング設定にするほどラブシーンが無い

⚫︎全ての年齢の方に本編を引き続き楽しくお読み頂きたい

この2点からラブシーンだけ別途記載することに致しました。


読み難いとは思いますが、ご了承ください。


また、ラブシーンは本編のストーリーに影響を及ぼさないよう配慮しておりますので、読めない方にも安心して本編を引き続きお楽しみ頂きたく思います。

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