第30話

 アンドレは国王陛下であり父のオーギュスト・ルフェーブルの個人オフィスに呼ばれ、緊張しながら向かった。


 何をどう説明しようか、どうすれば失望させずに済むのか、どうすれば力を貸してもらえるのか、歩きながら頭の中で父との問答を想定した。


 武術に長けた人で、威光があり人から恐れられることの多い剛毅ごうきな男ではあるが、子に対してはどうしても甘くなってしまうようで、国王陛下と言えども例に漏れず父親だった。


 母である王妃の方が余程に恐ろしいとアンドレは思っていた。城で働く女たちは皆、王妃の手先だとアンドレは信じて疑わなかった。


 王妃の逆鱗に触れたなら城内で完全に孤立する覚悟をしなければならない。食事の質を落とされるだけならまだしも量まで減らされる始末だ。それが王妃の怒りの度合いで何日続くかが決まる。アンドレの最長は5ヶ月で、あの時、決して王妃を怒らせてはならないと12歳の少年アンドレは心に刻んだ。


 もしも、ミュリエルとの婚約解消が仕組まれたことだと知られたら、自分は城を追い出されるかもしれないと考え身震いした。


 オフィスの前で一度深呼吸し、心を落ち着かせてからドアをノックした。執事が中からドアを開けてくれるものと思っていたが、ドアを開けたのはオーギュスト本人だった。


 アンドレが内密にと言った意味を理解して人払いをしてくれていたようだ。ここで話した内容が王妃の耳に入る可能性は限りなく低いだろうとアンドレは胸を撫で下ろした。


「陛下、お時間をいただきありがとうございます」


「かまわん、話せ」


「現在流感が市井で猛威を振るっています。例年の流感とは違い、新型のウイルスだと薬師ミュリエルが突き止めました。早急に——」


 アンドレの発言をオーギュストは手振り一つで止めた。

「ミュリエル・カルヴァンか?」


「——はい、そうです。彼女は今、カルヴァンの名を捨て平民として市井で薬師をしています」


 ミュリエルに気づかないでくれと願ったが、やはり無駄だった。オーギュストの目を欺くことなど出来ないのだ。婚約破棄の真相が全て知られ叱責されたとしても甘んじて受け入れようミュリエルの為だとアンドレは覚悟をきめた。


「よいだろう、続けろ」アンドレが来た理由は婚約者をいつ発表するかといった話だろうと思っていたが違ったようだ。オーギュストの最大の気がかりは、アンドレが結婚について確と考えているのだろうかということだ。


「新型のウイルスが発見されてひと月、既に死者が2万人を超えています。日に日に感染者は増加しており、放っておけば国が傾くほどの被害をもたらすでしょう」


「何故ひと月も経って報告があったのだ?」


「保健所はいつもの流感で春には終息すると安易な予想をしていたようです」


「使えん奴らだ。保健所の所長を処罰するとしよう。それでお前はどうしたいのだ」


「ミュリエルが野戦病院を開いて、平民に治療を施しています。それでも場所の確保が困難なことや人手が足りていないせいで、満足に治療が受けられていない現状を鑑み、国から土地や人材の提供を行ってはいかがでしょうか」


「毒を盛るような女を信じるのか?」


 アンドレの指がぴくりと動いた。「ミュリエルは優秀な薬師です。必ずやこの国を救ってくれると信じています」


「手放してようやく彼女と向き合う気になったのか?お前たちが何か画策していることは知っていた。大方婚約を解消したくて一芝居うったのだろう?」


 アンドレがミュリエルの身分証や銀行口座を代わりに作ってやり、自分の個人口座から300万トレールもの大金を送金したこと、加えて煩雑な手続きが必要な薬師の営業許可を、裏から手を回し関係各省への諸々の手続きを省かせ、保健所の職員を急かして取得させた。


 そして、今までミュリエルとの時間を煩わしいと思っていたようなのに、朝食を共にしていたこと、わざわざ市井へ出向き会いに行っていたことなどの報告を受けていたオーギュストには全てが筒抜けだった。


 アンドレは愛する恋人に毒を盛った女に、あれこれと手を尽くし面倒を見てやるほど阿呆な男か?いいや、違う。


 そもそも、ミュリエルはアンドレに関心が無かったようなのに今更恋人が出来たところで、毒を盛るといった過激な手段に出るとは思えず、オーギュストは違和感を覚えた。

 

 実害が無かったのだから1年間の謹慎程度で済むところを、侯爵令嬢の身分を取り上げるよう進言するなどアンドレにしてはいささか手酷い。これにも何かしらの理由があるのだろうと思っていたが、ミュリエルが薬師になるために2人で仕組んだことだったのだとオーギュストは理解した。


 王家がカルヴァン家の財を国に留めておくために結ばれた政略結婚だとはいえ、2人には幸せな結婚生活を送って欲しいとオーギュストは憂慮ゆうりょしていた。


 結婚して共に暮らせば互いに関心を寄せるようになるかもしれないが、あまりにも不仲が続くようなら何かしらの手助けをしてやろうとオーギュストは考えていた。


 婚約解消は痛手だが、それで2人が幸せになれるのならやむを得ないとオーギュストは見逃すことにしていた。


「……申し訳ありません。彼女の薬師になりたいという願いを叶えてあげたかったのです」


 オーギュストに我々の画策を知られていないと思っていたなんて、自分はなんて馬鹿なんだろうか、この城の中のことでオーギュストが知らないことなんてあるはずがないではないかと、アンドレは愚かな自分を嘲った。


「お前はそれで好いた女と結婚できる。そう思ったのだろう。なのに何故マドゥレーヌとの婚約を進めないのだ?私は許可したぞ」


「——婚約を破棄した直後なので、まだその時では無いと。もう少し日が経ってからにしようと思います」


「そうか、まあいいだろう。お前にも考えがあるのだろうから、好きにするといい」マドゥレーヌと婚約したいと言ってきた時は本気のように見えた。だからこそ許可を出したのだが、今はどうだろうか?アンドレに迷いが出ているようだ。


 来年21歳の成人を迎えると同時に結婚をとオーギュストは考えていたが、王太子は既にトルドー公国の姫を娶り、一男一女を儲けている。第2王子は今まで科学に没頭していたが、ザイドリッツで恋人を見つけたようで仲良くやっているらしいから大学卒業と共に結婚するのだろう。


 そうなればアンドレの結婚は少しくらい先延ばしにしてやってもいいだろうとオーギュストは恋に悩んでいる我が子を見守ることにした。


「ご厚情に深謝いたします」


「王太子は私の補佐で忙しい、第2王子は留学先であるザイドリッツからまだ戻らない、よってアンドレ、お前を疫病対策の責任者に任命する。被害を最小限に速やかに解決するように」


「ご期待に添えるよう力を尽くします」


 アンドレはミュリエルがきっと大喜びしてくれるに違いないと思うと心が浮き立った。早く知らせてやりたいと、駆け出したいのを堪えて廊下を大股で歩いた。


 自身のオフィスに戻ってきたアンドレはエクトルに命令した。

「陛下から疫病対策の責任者に任命された。これでミュリエルを手伝ってやれるぞ。エクトル、ミュリエルに朗報を知らせに行くとしよう。第3王子として行くから変装の必要はない。急いで支度をしてくれ」


「本日はマドゥレーヌ嬢が登城される日でございます」ケクランが言った。


「キャンセルだ。悠長にアフタヌーンティーなんかしてられるか。2万人も人が死んでいるんだぞ。陛下からも速やかに解決するよう言われているんだ。ケクラン、悪いがマドゥレーヌが来たら、この事が解決するまでアフタヌーンティーはキャンセルだと伝えてくれ」


「承知いたしました」


 アンドレは足早に城を出た。自分が喜び勇んでいることを自覚していた。これから数ヶ月はミュリエルと一緒に過ごせる。誠心誠意尽くそう、そうすればフィンやエクトルのようにミュリエルと仲良くなれるかもしれないとアンドレは期待した。

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