第20話

 ミュリエルとフィンは教会に一晩泊まり早朝から子供たちの様子を見に来ていた。

 8時には薬店に戻らなければ、診療時間が始まってしまう。今日も一息つく暇もないほどに予約が入っているので遅れるわけにはいかなかった。


「ミュリエル様、病気を治してくれてありがとうございました」


 ミュリエルが部屋に入ると子供たちが一斉にお礼を言った。


「みんな元気になってよかったですね」背後からフィンが言った。


「はい、本当に」ミュリエルは喜びを胸いっぱいに感じた。「皆さんの元気な声が聞けて嬉しいです。皆さんをもう一度診察させてください。上手に診察を受けられたらご褒美に飴を差し上げます」


 飴と聞いてあまりの嬉しさに子供たちはベッドの上で弾んだ。飴と言ってもただ甘いだけの飴とは違い、滋養にいいポーションを砂糖と水あめで固めたものだ。


 この飴を作る手伝いをしていたフィンは知っていた、この飴の中にマムシエキスが混ぜられていることを。無知は最大の罪であるとよく言うが知らないほうがいいことも往々にしてある。


 全員の診察を終えて、薬店へ帰ろうとしたときに、若い侍者——まだ10代と思しき男から呼び止められた。


「ミュリエル薬師、礼拝に訪れていた信者が倒れてしまって。診ていただけませんか」


「分かりました。案内してください」


「8時まで20分しかありません。今戻らなければ診療に間に合いませんが大丈夫ですか?」


「薬店にはモーリスさんがいますし、ポーションも用意してあります。それに、倒れた人を放っておけません。侍者さん案内してください」


 ミュリエルとフィンはミサが行われていた聖堂に足を踏み入れた。


 アレクサンドル神父の心配そうな顔を見つけて、ミュリエルは近づいていった。


「アレクサンドル神父、倒れた人がいると聞きました」


「エドガーさんです。ミサの途中に突然倒れてしまって、奥様のソーニャさんが言うには朝から調子が悪かったそうです」


「診てみましょう」ミュリエルはマジックワンドを患者の体にかざした。


 フィンは体温計をエドガーの脇に差し込んだ。


 症状を聞きたいが刺激に全く反応しない、意識障害を起こしていて昏睡しているようだ。話せる状態ではないと判断して、ミュリエルは妻から何か聞けるだろうかと思った。「奥様に話を聞きたいのですが」


「私です。妻のソーニャです」40代くらいの女が名乗り出た。


「薬師のミュリエルです。ソーニャさん、エドガーさんの熱が出始めたのはいつ頃ですか?」


「今朝からです。その時は微熱程度だったんですけど、ここに来てから悪化したみたいで」


 「熱は39度2分です」フィンが体温計の数値を見て言った。


 高熱が原因で意識障害を起こしているのだとしたら、かなり重篤な状態だ。


「関節痛や筋肉痛、頭痛などの症状はありましたか?」


「節々が痛んで体がだるいと言っていました」


「今朝食欲はありましたか?」


「今朝はあまり食欲がなかったようで、スープを少し飲んだだけです」


「エドガーさんの体調が悪かったのに何故わざわざ来られたのですか?」


「夫は昨日出張から戻ってきたばかりで、出張の間、無事に過ごせたことを神に感謝しに来たのです」


「出張はどこへどのくらいの期間行かれていましたか?」


「スルエタに3ヶ月ほど行っていました」


 ユーグの時は意識が回復するのを待ってからポーショを飲ませたが、エドガーの体に異変を感じたミュリエルは、回復を待たずにポーションを投与した方がいいと判断した。


 このポーションが効かないのではないかと胸騒ぎがしたからだ。


 既存のポーションが効かないのならば、早めに治療方針を変更するべきだ。未知のウイルスかもしれない……そうなれば、この国は大きな痛手を負うだろう。エドガーには悪いが急がなければならない状況で意識の回復を待っているわけにはいかない。


「流感の可能性が高いです。昏睡しているためポーションを飲ませられません。鼻から胃にチューブを通し直接ポーションを送り込みます」ミュリエルはフィンに言った。「チューブをください」


 ミュリエルはフィンからチューブを受け取り、気管を傷つけないようマジックワンドで体内の様子を確認しながら、鼻から少しずつ慎重にチューブを入れた。


 その様子を食い入るように見つめていたフィンや教会の関係者は固唾を呑んで見守り、息をするのも憚られるような沈黙が流れた。


 エドガーの胃にチューブが到達して、ミュリエルがほっと息を吐くと、全員釣られるように息を吐き出した。


「ソーニャさん、投与の仕方をお教えしますので見ていてください」ミュリエルはポーションを注射器に吸い取り、チューブからエドガーの胃に流し込んだ。「ポーションと注射器を置いていきます。6時間したら今のようにチューブに流し込んでください」


「分かりました」初めてのことにソーニャは戸惑い不安そうに答えた。


「エドガーさんは司祭館の方に運びましょう。連れて帰るのは大変でしょうし、1人で看病するのも大変でしょう。ここにいれば我々がお手伝いできます」顔を青くし怯えているソーニャを気の毒に思ったアレクサンドルが言った。


「口と鼻を清潔な布で覆い、手洗いうがいを頻繁に行ってください。部屋の湿度を高く保つことも忘れずに、感染対策としてとても重要なことです。私は夜にまた往診に来ます」ミュリエルが言った。


「ミュリエル薬師、神父様、ありがとうございます」ソーニャはひとまず胸を撫で下ろしたが、表情から不安は消えなかった。


 ミュリエルとフィンは馬車に乗り込んだ。

「夜もう一度様子を見にきますので、フィンさん、またお付き合い頂けますか」ミュリエルの頭に懸念が広がった。


「もちろん、いいですよ」フィンはミュリエルの伏せられた瞳を覗き込んだ。「何か気になることでもあるんですか?そんな顔してますよ」


 ミュリエルはフィンの観察眼に驚いた。そこまで自分の表情を読めた人は今までいなかったからだ。


「少し——嫌な予感がします。エドガーさんはポーションが効かないかもしれません」


 幸いなことに歳こそ40代とはいえ、体を鍛えているようで、強健に見えた。肉体だけで言えば20代と変わらないようだとミュリエルは思った。


 彼ならばちょっとやそっとでは病に負けたりしないはずだ。


「どういうことです?」


「エドガーさんが感染しているウイルスは、私の知っている流感のウイルスとは少し違う気がしました」


「別の病気ということですか?」


「流感で間違いないのですが、考えられるのは新型のウイルスに感染したということです」 


「……同じ流感なのに新型だとポーションが効かなくなるんですか?」


「確信はありません。従来の物が効いてくれると良いのですが、もし効かなければ治療薬を新たに作らなければなりません。それまでに何人の感染者が出るのか、このウイルスがどれほどの威力で何人の人が命を落とすのか、考えたくもありません」


「そんな……王都が機能停止してしまうこともあり得るってことですか」


「私の思い過ごしであることを祈りましょう」そうは言ったがミュリエルは新型のウイルスだと確信していた。マジックワンドで見た病原体は流感のウイルスに似ていたが、疑う余地なく明らかに違った。


 特効薬を作り出すために実証実験が必要だ、その間に命を落としてしまうかもしれない人々のことをミュリエルは考え、悔しさに唇を歪めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る