第18話

 流感が流行り出してしばらくしたころ、ミュリエル薬店では、通常2時間の昼休憩を1時間短縮して患者を受け入れていた。


 午前の診療時間前にミュリエル薬店を誰かが訪ねて来たようだと表のドアを叩く音でミュリエルは気づいた。


 フィンやギャビーなら裏庭に回って来るし、出勤してくるにはまだ少し早い。誰が訪ねて来たのだろうかと裏庭での作業を止めて薬店のドアを開けた。


 薬店から出てきた女性が、以前教会に来たカルヴァン家のご令嬢だと気がついたクラリスは驚いて腰を抜かしそうになった。


 巷で慈愛の天使のように慈悲深いと評判の美少女薬師ミュリエルがまさかミュリエル・カルヴァンだったなんて誰が想像するだろうか。


「ブリヨン侯爵令嬢様……朝早くに申し訳ありません。私サンドランス教会から来ましたクラリスです」


「シスタークラリス、覚えています。一度お会いしましたね。私はカルヴァンの性を捨て、薬師となりましたので、どうぞミュリエルと呼んでください。元貴族だと知られると患者さんたちが怯えてしまうので、出来れば他言はしないでください」


 カルヴァンの名を捨てた?一体何があったのだろうかと思ったが、クラリスは賢明にも理由は聞かなかった。ストリートチルドレンだったせいか、自分は時々無意識に無礼を働いてしまうことがあるとクラリスは自覚していた。


 自分のような取るに足らない見習いシスターを、カルヴァン家のご令嬢が覚えていてくれたことにクラリスは感動し、突然の要請を受けてくれるか、ここまで半信半疑で来たけれど、天使と呼ばれるほどの人格者なのだから必ず力になってくれるだろうと確信した。


「ミュリエル薬師、お願いがあって参りました。孤児院の子供たちが流感にかかってしまったようで、いつもならクリストフ薬店に往診をお願いするのですが、クリストフ薬師自身も流感にかかってしまったらしく、往診ができないと言われてしまったのです。お忙しいとは思いますが。往診していただけないでしょうか」


「今日の夜、診療時間が終わったら伺います」


「ありがとうございます。天使のようなレディだと伺っていましたが、ミュリエル薬師は女神のようですね。あなたの人生が幸多き実りある日々であらんことをお祈りいたします」クラリスはミュリエルに祈りを捧げ帰っていった。


 そろそろ王都パトリーがパニックに陥る頃なのかもしれない。従業員が流感にかかれば店を閉めざる負えない、となると物流も滞る。


 物が手に入らない、食べたくても食べるものがない、次第に街全体に恐怖が広がっていき人々は暴挙に出る。我先にと食べ物を奪い合い、殺人まで犯してしまう。


 ギャビーには当分の間食べ物を持ち帰らせないようにしよう。途中で襲われかねないし、家族にはここへ食べに来てもらえばいい。いっそのこと2カ月ほど泊まらせようか、ギャビーが言うには自分たちの家より2階のゲストルームの方が広くて綺麗らしいから問題ないだろうとミュリエルが考えていると、フィンが出勤してきた。


「ミュリエルさん、おはようございます。今日もさむいっすね。噴水に薄く氷が張ってましたよ」


「おはようございます、フィンさん。今日は残業をして頂きたいのですけれど構いませんか?夜間手当てをお出しします」


「いいですけど、何かあったんですか?」


「サンドランス教会から往診の依頼が入りました。孤児院の子供たちが流感にかかっているそうです。普段は別の薬師に頼むそうですが、運悪くその薬師も流感にかかってしまっているらしく、こちらに頼むことにしたそうです。今日の診療が終わってから行く予定です」


「分かりました。孤児院の子供たちか——流感、広がり放題広がってるでしょうね」フィンは大きなため息を吐いた。


「ええ、孤児院の子供は特に体力がありません覚悟をしておいたほうがいいでしょうね」


 1日中ずっと、ほぼ流感の患者ばかり診察して疲れてしまったミュリエルは少しの間天井を見上げた。最近は考えることが多すぎて頭がおかしくなりそうだ。カルヴァンの密輸船も突き止めなければならないし、病院建設の足掛かりも欲しかった。


 野戦病院の許可をもらいに治安警察本部へ行ったが門前払いだった。一箇所に患者が集まってくれれば効率がいいし、隔離してしまえば流感も広がらないと言っているのにどうして分かってくれないのか。心の中がぐちゃぐちゃになってきたミュリエルはゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐き出した。落ち着けと自分に言い聞かせる。


「ミュリエルさん?大丈夫ですか?」フィンは診察室から出てこないミュリエルを心配して声をかけた。


「大丈夫です。少し考え事をしていただけです。サンドランス教会へ行きましょうか」


「ポーションの準備はできています」


「ありがとうございます」


 ミュリエルとフィンが薬店を出て馬車に乗ろうとしたところで、ギャビーがジゼルから料理の入った皿を受け取り出てきた。


「ギャビーさん送っていきましょう。乗ってください」


「ありがとうございます」


「ユーグさんはどうしていますか」


「もう元気いっぱいです。ユーグもティボーも私の帰りを待っているんじゃないんです。夜ご飯が帰って来るのを待っているんですよ。全く姉に敬意を払わない可愛くない弟たちなんです」ギャビーは大袈裟に怒ってみせた。


「料理ですが、当分は持ち歩かないほうがいいでしょう。毎年の事ですからギャビーさんもなんとなく想像がつくでしょう。食べ物にありつけず飢えた人たちに見つかってしまったら、襲われてしまうかもしれません」


「——そうですね」ギャビーは料理が入った皿を握る手に少しだけ力を込め、しゅんとした。


「俺が毎晩馬車で送っていきましょうか?」


「いいえ、危険が僅かに減るだけで安全とはいえません。ギャビーさんのご家族に薬店へ来てもらえばいいことです」


「それなら危険はないですね」フィンは名案だと手を叩いた。


「2カ月ほど薬店の2階に避難しませんかと言っていたとお母様に伝えてください」ミュリエルはギャビーに言った。


「いいんですか?」ギャビーはおずおずと言った。


「構いません。あなたたち家族なら大歓迎です」


「ありがとうございます。お母さんに話してみます」ギャビーは嬉しそうに家へ帰っていった。


 ギャビーが家の中に入るのを見届けてからミュリエルとフィンは教会へ向かった。

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