第6話
「こんにちは、モーリスさん」ミュリエルはモーリス薬店のドアを開けて中に入り、カウンターの奥で作業をしているモーリスに声をかけた。
「お帰り、ミュリエル」モーリスはこの1週間、危ない橋を渡っているミュリエルを心配しすぎて眠れぬ日々を過ごしていた。ようやく元気そうな顔を見られて嬉しかった。
「やりました、アンドレ王子殿下から300万トレールを頂いてきました。見てください、身分証明書も営業許可書もあるのです」
薬師はそれなりに尊敬される職業ではあるが、所詮は平民で、力になってやれない自分の身分の低さがモーリスは憎らしかったが、さすがは侯爵令嬢、王子から300万も奪いとってくるとは、賢い少女だとモーリスは思った。
「へー、もう手に入ったのか⁉︎全部揃えるのに3ヶ月は待たされるだろうと思っていたが」
「アンドレ王子殿下が手配してくださいました」
「ミュリエルの婚約者は案外優しいじゃないか、少しは見直してやってもいいかもしれないな」実の娘のように可愛がっているミュリエルを捨てたアンドレが、モーリスは嫌いだった。
「元、婚約者です。アンドレ王子殿下は優しいですよ。優しすぎて周囲の悪意に気づけないのでしょう」
「まあな、優しいだけじゃあ、世の中を渡っていけないってことだな、一度荒波に揉まれれば変わるかもな」そんな世間知らずの青二才にミュリエルを任せられるわけがない、別れて正解だったとモーリスは思った。
「その荒波の一つがミュリエルなんじゃないかしら」モーリスの妻ジゼルが母屋から昼食のサンドイッチを持ってきて言った。
「こんにちは、ジゼルさん。私が荒波というのはどういうことですか?」
「今頃、ミュリエルを手放したことを後悔しているような気がするのよ。これは女の勘ね」
「それは、ありえません。アンドレ王子殿下は私を鬱陶しがっていましたから」
今朝は久しぶりに話をしたが、それは単に最後だからと誘ってくれただけで、アンドレに嫌われていることに変わりはない。
「今の晴れ晴れとした顔のミュリエルなら、どんな男でも惚れそうよ」ジゼルは店の奥の工房へと歩いていった。
その工房はモーリスが薬草を抽出し調合する場所だ。ミュリエルも時々使わせてもらっている。
「からかわないでください」ミュリエルの足に2匹の犬がまとわりついてきた「サラ、レオ、ただいま戻りました。今日からお世話になりますね」
サラはレッドマール色の毛に、透き通ったゴールドの瞳が美しい勇猛な雌犬。レオはブルーマール色の毛に、アイスブルーの瞳が強そうに見えるが、実際は少し臆病なところが愛らしい雄犬。2匹とも体高50㎝ほどの中型犬だ。サラの方が少し年上なので、レオはサラに甘えてばかりだ。
サラから鬱陶しがられて
「お前たちよかったな、今日からずっとミュリエルがこの家にいるぞ」
子供が出来なかったジゼルを気の毒に思ったモーリスは、結婚後3年が経ったころに知り合いから子犬をもらってきた。
単にジゼルの慰めになればと思っていたが、犬の愛らしさに夫婦共々虜になり、サラとレオは3代目となる。
7年前に、我が子と呼びたくなるミュリエルがやってきてくれた。神は我々夫婦に祝福をくれたのだろうとモーリスは思っていた。
「モーリスさん、今度一緒に中央銀行へ行きましょう。150万トレールを支払います」ミュリエルは飛びついてくる2匹の頭を撫でてやった。
「本当にいいの?ミュリエルが慰謝料として貰ったお金なんでしょう?私たちはお金なんてなくても、あなたが元気でいてくれるならそれでいいのよ」ジゼルが店の奥の工房から声をかけた。
「私はこの店を買い取りたいだけです」
「この建物は100年は経ってる。それを、修理して誤魔化しながら使ってきたんだ。いくら王都の中心部とはいえ、こんなおんぼろの店、50万トレールだって高いくらいだぞ」モーリスは古く、壁のペンキが剥がれかけている店内を見渡して言った。
「お2人にはとてもよくして頂いたので、お礼の意味を込めて私が払いたいのです」
「お礼だなんて、捨てられた子犬みたいな顔をした、可愛らしいミュリエルをどうやったら追い返せるというの?」ジゼルが工房からお茶を持って戻ってきて、ミュリエルの体をギュッと抱きしめた。
「金のことは焦らなくていい、俺はこの薬店を引き継がせるのはミュリエルだと決めてるからな。とりあえず、何日かゆっくり骨休めすればいいさ、ここ数日は大変だったんだろう?」モーリスはミュリエルに椅子に座るよう促した。
「そうでもありません、5日間部屋の中にいただけで、何もすることはありませんでしたから、いつも通りに過ごしていました」ミュリエルはジゼルが淹れてくれたお茶を飲み、サンドイッチを食べた。
「これだけは言わせちょうだい、私はアンドレ王子が嫌いよ、こんなにもいい子を蔑ろにするなんて、まったく見る目がない男ね」
「俺たちの可愛い娘を馬鹿な男に取られなくてよかったじゃないか」モーリスが言った。
「それもそうね、あんな男にうちの娘は勿体なくてやれないわね。ミュリエルにはもっと優しくて、肝っ玉の座った男じゃないとね」
実の親子のような会話だとミュリエルは思った。
モーリスもジゼルも自分を、実子のように扱ってくれることにミュリエルの目に熱いものが込み上げてきて、カルヴァン家を出て、この優しい夫婦の元に来れたのだと実感した。
「私は、お2人に出会えてよかったと思っています。これからどうぞよろしくお願いします」
「今日はミュリエルの門出だから、美味しいものをいっぱい作ってお祝いしなくちゃね」ジゼルは涙で濡れた瞳を拭った。
「ありがとうございます。ジゼルさん、私も手伝います」
「何言ってるの、主役はゆっくり座ってなきゃ駄目よ」ジゼルは犬たちと一緒に空になった皿を持って母屋の方へ戻っていった。
ミュリエルを主役だと言って、毎年の誕生日を心から祝ってくれるのはモーリスとジゼルだけだった、ミュリエルには勿体ないほどの愛情に、いつも戸惑っていた。
「それでは、早速ポーションを作ろうと思います」
「もう作り始めるのか?」
「今日の16時までにポーションを届けておきたい人がいるのです。彼を満足させられれば勝手にポーションの効果を広めてくれるはず、こちらは広告費をかけることなく宣伝ができるので、ありがたいお客様ですね」
ミュリエルはまず、裏庭で育てている薬草を摘んだ。
昼の陽射しの下でも少し肌寒く感じるようになってきた、冬が近い。そろそろ薬草も育たなくなってくる時期だ。夏の間に採取して乾燥させておいた薬草をそろそろ使わなければならないかなとミュリエルは思った。
どのくらいの注文が入るか分からないので、乾燥薬草はギリギリまで手をつけたくないと考えていた。
摘んだ薬草や花は、釜に入れ煮出してポーションを作り、魔力を注ぎ込めば完成だ。
ポーションの良し悪しを決めるのはこの魔力の量や質だと言われている。同じ材料で作っても、作り手が違えば効果も変わってくる。
魔力を注ぎ込む為に薬師はマジックワンドを用いる。そうすることで体内の魔力を最大限に引き出すことができるからだ。
大魔導師がいたのは一昔前のことで、魔力が衰退した現在では暮らしの中で魔力を使う人はいない。
薬師も等しく殆どの人が微量の魔力しか持っていない。貴重なマジックワンドを代々受け継ぐことで、薬師を続けていけている。
以前の薬師は神のように敬われていたが、魔力の衰退とともに、周辺諸国同様フランクールでも医学大学で医学を学び、医師免許を取得した医師に立場を奪われ。薬学は平民のための
ミュリエルは何故か他の薬師よりも魔力量
が多く、質が良い。
大魔導師にしか作れないと言われていたマジックワンドも自ら作り出してしまった。
何故そこまでミュリエルの魔力が多いのか推測するならば、書庫で見つけた『魔術書』から魔力がミュリエルの体内に流れ込んできたのではないだろうかと考えているが、確かなことは何も分からなかった。
試しにモーリスに『魔術書』を開いてもらったが、ミュリエルが体験したような光は現れなかった。
『魔術書』の存在も、ミュリエルのずば抜けた魔力の多さもモーリスとジゼル以外には言わなかった。
もしも大魔導師レベルの魔力を持っているとカルヴァン家や王家に知られれば、ミュリエルは薬師になることもできず、監視され部屋から一歩も出してもらえなくなるだろうと考えたからだ。
工房からひょっこりと顔を出したミュリエルは男の姿をしていた。
「モーリスさん、どうでしょう?貴族の男性に見えますか?」
「ミュリエルか⁉︎こりゃ驚いた、どこからどう見ても男にしか見えんぞ」
「容姿を変えるポーションを作ってみました。今から紳士クラブに行ってきます」
「それで男装か、気をつけて行ってこいよ、声まで本物の男みたいに聞こえるから違和感はないけど、言葉遣いには注意しろ」
「はい、あまり喋らずにいようと思います」
ミュリエルは作った2本のポーションを持って、目当ての場所へ向かった。
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