第4話

 約束の日、ミュリエルは薬が入った小瓶を持って王城へ向かい、マドゥレーヌに用意されたティーポットの中に薬を数滴垂らした。


 そこへタイミングよくアンドレが現れた。

「君を今からエクトルが拘束する。私は陛下に事の次第を伝えに行くから沙汰があるまで待っていてくれ」


「承知いたしました。薬は少し残っています」ミュリエルは小瓶をアンドレに渡して、エクトルに付き添われ王城の一室に連れてこられた。「てっきり牢屋に入れられるものと思っていました」


「陛下の沙汰が今日中に下るとは限りませんし、アンドレ王子殿下はなるべくミュリエル嬢の負担にならないようにと、配慮なさいました」


「そうでしたか、アンドレ王子殿下には感謝しなくてはなりませんね、エクトル卿にも迷惑をかけてしまいました」


「構いません——僕はミュリエル嬢に妃となって欲しかったです」


「エクトル卿はアンドレ王子殿下の指示でこの1週間、私を調べていたのでしょう?ならば、私が家を出たいと思っている理由を知っているはずです」


「——気づかれていたのですか?」密偵は得意だと思っていたエクトルが驚いて言った。

「私はあの家で幽霊のように暮らしていますけれど、私にも情報提供者はいるのです」


 エクトルは残念そうに眉を下げた。「あなたよりはるかに位の低い下級貴族に対しても、丁寧に接しているミュリエル様だからこそアンドレ王子の妃となり、支えとなって欲しかったのです」


「マドゥレーヌ嬢は丁寧に接してくれませんか?」


「僕など、汚染された空気のように扱われています。話しかけても完全に無視されます」


「エクトル卿、いつもアンドレ王子殿下のオフィスの前で待たされている私の相手をしてくださって、ありがとうございました」


「会えなくなるのがとても寂しいです」


「私もです」ミュリエルはエクトルに微かに微笑んだ。


 ミュリエルがいつも無表情なのは、感情を表に出す術を知らないのだとエクトルが気づいたのは随分前のことだ。アンドレがなぜこんなにも美しく、誰にでも分け隔てなく接するミュリエルではなく、アンドレにしか礼儀を示さない無知なマドゥレーヌを選ぶのか、理解できなかった。


 それから5日後、アンドレがミュリエルを訪ねてきた。


「陛下から沙汰が下った。婚約破棄はもちろんのこと、君は王城に毒を持ち込んだことの責任をとり、カルヴァン家から除籍され平民となることになった」


「そこまで話を進めてくださったのですか」


 今から父であるロベール・カルヴァンと一戦交え、除籍を願いでなければならないと思っていたミュリエルは安堵した。


「このくらいのことはしてやるさ、君がカルヴァン家でどんな冷遇を受けていたのかも知らず、気づいてやれなかったことを謝る」


 アンドレはずっと他の令嬢たちと同じようにミュリエルも蝶よ花よと育てられていると思っていた。まさか、家族と顔を合わすことなく、ひっそりと隠れて暮らしているとは思いもよらなかった。エクトルから報告を受けた時はミュリエルに対して罪悪感が湧き上がった。


「謝罪など必要ありません。私は気づかれたくなかったのです」


「そうか、私は君ともっと対話をすべきだったんだろうな」


 ミュリエルは困った顔をして僅かに口角を上げた。それはアンドレが初めて見るミュリエルの笑顔だった。笑顔というにはあまりにも僅かすぎたが、それでも確かに口角が上がった。その顔は美しく、まるで女神像のようで、何かに憂いているような悲しい表情がアンドレの心をざわつかせた。


「——笑えるんだな」


 ぽつりと呟かれたアンドレの言葉をミュリエルは不思議に思った。自分の顔などアンドレは気にしていないだろうと思っていたからだ。


「エクトル卿は100ctのダイヤモンドよりも希少だと言ってからかいますけれど、私も楽しければ笑います」


 ミュリエルとエクトルが、そんな砕けた話をするほどの仲だと知らなかったアンドレは、なぜだか仲間はずれにされたような、なんとなく悲しいような、怒りたい気分になった。


「子供のころ私がどんなに楽しかった話をしても笑わなかったではないか」


「アンドレ王子殿下がしてくださる話は、私にとってどれも現実味を帯びず、まるでおとぎ話のようだと思い聞いていました。楽しかった経験などない私は惨めだと感じ、会話がなくなってからは安堵いたしました」


 アンドレはハッとした。自分はなんと愚かだったのだろうか。「……私は君を傷つけてしまっていたんだな。すまなかった」まさか楽しませようとしていたことが裏目に出ていたとは知らずアンドレは頭を下げた。


「良いのです。ようやくあの家から解放され自由になれる。それに手を貸していただいたのですから、十二分に償っていただきました。感謝しています」


「明日は荷物を取りに一度家へ帰るんだろう?心細いだろうからエクトルを連れて行って構わない」


「お心遣い感謝致します。ですが、もうあの家には戻りません。あの家に持ち出したい物などありはしません」ミュリエルが唯一大事にしている魔術書は、侯爵家の人間に知られると厄介なので薬店に置いてあるし、服や靴はどのみち買い揃えなければならない、平民が貴族の格好をしていたらおかしいだろう。


「——私がプレゼントした宝石は?」


「頂いた物は全て継母ままははが管理していましたから、普段目にすることもなく、失念していました。ですが、王族からの頂き物を換金してしまったらそれこそ監房行きになってしまいます。平民となる私には無用の長物です」


「確かにそうだが、私はなんだか腹立たしいからカルヴァン家から回収してやろうかな」


「お好きにどうぞ、失った300万トレールの補填にもなりますね」


 ミュリエルの口がまた僅かに弧を描き、アンドレはどきりとした。


「そうだった300万トレールだな、君の名前で銀行口座を勝手に作らせてもらったが構わなかったか?」アンドレは300万トレールが入金されている預金通帳をケクランから受け取りミュリエルに渡した。


「もちろんです。作りに行く予定でしたから、戸籍を取得する煩雑な手続きが省けて助かります」


「身分証明書も取り寄せておいた、失くさないよう金庫に保管しておくといい」


 ミュリエルは平民にだけ発行されるフランクール国家身分証明書と書かれた、ポケット手帳サイズの冊子を受け取った。


 開いてみると自分の名前や、住所、容姿の特徴などが書かれていて、職業は薬師となっていた。


「職業が薬師となっています」


 ミュリエルが目を輝かせてアンドレを見つめた。アンドレは思わず顔を赤くして、目を逸らした。


「ああ、薬師の営業許可も保健所で手続きしておいた。これが営業許可書だ」


 自分の名前入りの営業許可書を大事そうにミュリエルは手に取った。


「ありがとうございます」ミュリエルは鼻の奥がツーンとなるのを感じ目に涙が溜まった。


「喜んでもらえてよかった」アンドレは照れて頭を掻いた。


「これで明日から薬師として営業できます。実際に書類を揃えてくださったのはケクラン卿でしょう?アンドレ王子殿下、ケクラン卿、ありがとうございます」


「いいさ、このくらい何のことはない、明日出ていくのか?」


「はい、朝になったら出て行きます」


 少し気まずいような、照れくさいようなそんな顔でアンドレが言った。「よかったら最後に朝食を一緒にとらないか」


「是非、ご一緒させてください」


「では、朝になったらまたここへ来る。ここで一緒に朝食を食べよう」人目につかない奥まった部屋だから、ここが丁度いいだろうとアンドレは思った。


「お待ちしています」


 アンドレは部屋から廊下に出て自室へ向かった。少し歩いたところでエクトルに訊いた。「ミュリエルとはいつもどんな話をしていたんだ?」


「面白かった本の話や、よく市井に行かれるようで、見聞きした不思議な出来事や、小さな事件などを話してくださいました」


「そうか、彼女はそんな話をするんだな」

「博識な方ですから、どんな内容の話でも答えが返ってくるので、いつも感心させられました」


 明日の朝はどんな話をしようかとアンドレは考えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る