第27話 一時の帰還

「そろそろですね」


 スタンピードが始まってから一ヶ月、ここまで続けば大スタンピードといって差し支えないほどで、通常ならばデュボン辺境伯領だけの問題には留まらず、近隣の領地からの支援、さらには国からの支援があってもおかしくない状況だった。


 しかし、ギリギリデュボン辺境伯領のみの問題に留まっているのは、エドガーの指揮能力の高さと、騎士団の能力が底上げされていたからに他ならない。もし以前のままならば、十年前の大スタンピードの時のように、魔獣の進撃を食い止めることができず、辺境伯領のみならず王都に向かって魔獣達は突き進んだ筈だから。

 あの時は、王都に魔獣の大行進がたどり着く前に、その勢力は縮小していき、王都騎士団が最終的には大スタンピードを制圧した……とされている。実際は、辺境騎士団の命をかけた猛追のおかげで、魔獣の勢力はかなり削がれ、ほんの僅か残った残党を王都騎士団が討伐したに過ぎなかったのだが。


 補給をしながらではあるが、一ヶ月討伐に出ていた部隊が今日帰還することになっていた。補給の為と、騎士達の休息、交代の為だ。

 多分、半数以上の騎士兵士達は入れ替えになるが、エドガーは再度討伐隊を指揮することになるだろう。

 それでも、一ヶ月ぶりにしに会えるのだから、エマが朝からソワソワしているのはしょうがないだろう。


「あ、団長ですよ」


 北の塔の見張り台で、一番先にエドガーの帰還を見ようと目を凝らしていたエマであるが、やはりというか真っ先に帰還する討伐隊を見つけたのは、隼獣人のハヤだった。


「え?どこどこ」


 ハヤの指差す先を見たが、エマには木々があるだけにしか見えない。雪も残ってはいるが、春に片足を突っ込んだ今の季節、木々を覆っていた雪は地面に落ち、茶色い地面も場所によっては見えるようになっていた。まだ新芽が出るまでには至っていないから、見通しは良い筈なのだが……。


「あれ……かな?」

「そうそう、団列の殿に団長がいますよ。お怪我は……なさそうですね。多分、あと三十分もしたら帰還するじゃないですか」

「三十分?!」


 お洒落をするよりも、エドガーが帰ってくるのを見守ることを優先してしまったエマは、久しぶりにエドガーに会うというのに、化粧もほとんどしていない状態だ。

 通常もほとんどしていないのだから、いつも通りといえばいつも通りなのだが、せっかく久しぶりに会うのに、いつも通りプラス塔の登り降りで汗臭いとか、新妻としたらいかがなものだろうかと、今更ながらエマは慌てた。


「大変!ハヤ、私汗臭くない?!」

「アホですか?どうでしょう……なんて、エマ様の匂いを嗅げるとお思いで?」

「私は全然気にしない。ってか、エドに汗臭いとか思われる方がイヤ」

「大丈夫ですよ。一ヶ月野営をしていた団長達のが、まず匂いは半端ないでしょうから」


 騎士の一人が、慰めにもならないようなことを言う。確実に臭そうではあるが、エマからしたら推しの体臭は、一ヶ月お風呂に入っていなくとも、悪臭とは認識されないのであった。


「あ!見えた!!」


 顔の判別はつかないが、エマは討伐隊の長い列を確認した。


「私、行くね」


 エドガーに会いたいという気持ちが勝り、エマは飛ぶように階段を駆け下りた。手すりを滑り降りたい衝動は我慢する。キララの格好ならば、確実に滑り降りていただろうが、今のエマは辺境伯夫人なのだ。それにしても、淑女にありまじき勢いで階段を走り、途中侍従や侍女達に驚かれながら北の館の扉を大きく開け放った。

 エマの格好で部屋と北の塔以外に出たのは、スタンピードが起こってから初めてだった。


「エマ様、マントも羽織らないで」


 走っていくエマを見たイリアが、エマのマントを持って追いかけてきた。獣人のイリアでさえ追いつけない健脚に、それを見かけた領民達は、何事かと呆気にとられてピンク色の頬を上気させて立つエマを見ていた。


 いまだに刺すような寒さではあるが、エマはそんなことも気にならないように額に汗を浮かべ、北の森に繋がる北門の方向を見守った。ここからでは木々しかみえず、塀も門も見えないが、この向こうからエドガーが帰ってくる筈だ。


 イリアは、身動きせずに木々の向こう側を凝視する主の背中からマントを羽織らせると、ハンカチでエマの汗を拭ってから後ろに控えた。


「もうすぐお帰りなんですね」


 エマは黙って頷く。全ての神経を、エドガーを見つけることに集中しているのだ。


「エド!!」


 木々の間を割り、薄汚れた一群がエマの視界に確認できた。馬は負傷者の運搬に使用しているようで、エドガーは徒歩で最後尾を歩いて来た。


 エマは騎士達の横を走り抜けると、一目散にエドガーに抱きついた。


 ムワッと汗の匂いと、魔獣の血の香りが混じった中に、微かだがしっかりとエドガーの匂いを感じとり、エマはエドガーにしがみついたまま、頭をグリグリと擦りつけた。


「お帰り、お帰り、お帰り」

「ただいま、エマ」


 エドガーも抱き締めてくれ、エマはその胸筋を堪能しようとしたが、鎧の胸当てに邪魔されて、思わず唸りたくなる。エドガーの身体を護ってくれる大事な鎧ではあるが、今はひたすら邪魔なだけだ。


「すげー!強者だな。自分の臭いにも鼻がもげそうなのに」


 エドガーの近くにいたイアンが、抱きつくエマにウゲッと顔を顰めて呟いた。


(イアン、今は辺境伯夫人のエマだからね。その発言は不敬罪だよ)


「イアンもかなりなもんじゃないの。その臭いのまま家に帰ったら、下の子達は号泣すると思うわよ」


 エマを追いかけてきたイリアが、イアンを見つけて鼻を摘んだ。しかし、その瞳に安堵の色が浮かんでいるのは、やはり家族だからだろう。


 エマは、知り合いの獣人達が無事なのをサッと見回して確認すると、これで心置きなくエドガーを堪能できるとばかりに、エドガーに抱きつき直し、エドガーはそんなエマを片手で抱え上げ、騎士達の前にズンズンと歩いて行った。


 北の館の前に騎士兵士が整列すると、エドガーはエマを片腕に乗せるように抱えたまま、用意された壇上へ登った。もちろん、エマはエドガーの腕にちょこんと座って、エドガーの首に抱きついたままだ。


「騎士、並びに兵士諸君。一人も欠けることなく戻ってこれたこと、君達の日頃の鍛錬の賜物だと思う。まだスタンピードは終息してはいないが、収拾に向かっているのは確かだ。また、明後日から討伐隊に参加する者はしっかりと休むように。ここに残る者は、いざという時は領民を守る盾となることを望む。では、解散!」


 なんか、壇上で良いことを言ったような気がするが、騎士も兵士も意識はエドガーの左腕にいっていた。いつもは厳しい団長が、いつも通りに厳つい表情で、その左腕には少女を抱き上げたまま訓示を述べているのだ。そりゃ、視線も釘付けになるというものだ。


「解散だ、解散!大広間には温かい食事があるぞ。いや、その前にみんな風呂だ!回れ右!大浴場まで駆け足!」


 副団長のルイスが号令をかけると、騎士達はハッとしたようにエドガーとエマから目をそらし、綺麗な回れ右を披露して、雪だか泥だかわからない泥水のしぶきをたてながら走り出した。


「凄い。一糸乱れぬって、こういうのを言うんだね」


 エマがエドガーの首から顔を起こして感心したように言うと、討伐準備を済ませたルイスが姿勢を整えてエドガーに向き合うように立った。


「団長、これから第三第四大隊、並びに獣人兵士二十名と北の森へ向かいます」


 ルイスはエドガーが討伐中、北の館に残って騎士団を統括していた。残った騎士達の鍛錬をし、地味ではあるが重要な書類仕事をこなし、領民間のトラブルを解決する。休みなく働き、エドガーが休息中は代わりに討伐隊の指揮をとる。騎士団の中で、エドガーに次いで、いやもしかしたらエドガー以上に忙しい男かもしれない。


「よろしく頼んだ。今回、小型から中型の魔獣がほとんどだ。あいつらは、数が多くてすばしっこい。気を抜くなよ」

「了解しました」


 ルイスは敬礼をすると、討伐隊を率いて出発していった。


「みんな無事で……」


 エマはエドガーの首につかまりながら、北の森へ向かう騎士兵士達を見守った。

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